これからフードライターの白央篤司さんと交互に、食についてのコラムを書いていくことになりました。
毎回、映画やドラマに関連する食の話題になるかもしれないし、ときにはまったく関係なく、食に関しての気になる話題を書いていくかもしれません。けれども、ずっと「食」に関して、何か書いてみたいという気持ちがあったので、個人的には楽しみな連載になりそうです。これから、どうぞよろしくお願いします。
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この8月から、東京をはじめ各地で『WKW4K ウォン・カーウァイ4K 5作品』が上映されている。満席のときも多いようで、いまだにウォン・カーウァイ監督の人気の高さがうかがえる。私も声をかけていただいて、この上映に関するパンフレットに寄稿させてもらった。それは、この仕事をやってきて、何よりもうれしいことであった。
というのも、1997年の香港返還の時期に、ウォン・カーウァイをきっかけに香港映画を知ることがなければ、きっと今のような仕事にはついていないだろうと思うからだ。
ウォン・カーウァイに出会うまでの自分は、テレビや音楽、映画にも関心はあったけれど、それは、よくある「好き」の範囲を超えてはいなかった。だが、香港映画が好きになってからは、行動範囲が広がったし、上京して何か映画に関わる仕事につければと考えるようにもなった。
ただ、パンフレットにも書いたのだが、当初はウォン・カーウァイの映画から香港の熱を感じるということはあっても、初めて映画を見てから何年かは、その魅力についてうまく語ることはできなかった。感覚が変わるきっかけは『花様年華』(2000年)だった。
「食」を通じて近づくふたり
この映画のはじまりは1962年。あるアパートの隣の部屋に越してきた、トニー・レオン演じる新聞編集者のチャウと、マギー・チャン演じる商社の秘書のチャンを中心に繰り広げられる。ふたりは、お互いのパートナーが不倫していることがきっかけに、少しずつ関わりを持っていく。そしてふたりが近づいていく過程で「食」というものがうまい小道具になっていた。
チャウもチャンもお互いのパートナーが不在がちだから、自ずとひとりで夕飯を食べることが多くなっていた。チャンはいつも翡翠色の魔法瓶のようなものを持って、近くの屋台でごはんをテイクアウト(香港では外賣=オイマイという)しているシーンがよく出てくる。一方のチャウは屋台で食べているのだろう。そんなふたりは夕食の行き帰りにも、よくすれ違うようになるのだった。
部屋のオーナー婦人はオープンな性格で、ふたりが引っ越してきてからすぐ、両夫婦を食事に誘い、最初の頃には、お互いの夫婦がそろってオーナーの部屋で食事をしているシーンもあった。ただ、このことがお互いのパートナーが不倫するきっかけにもなったのだろう。その後、チャンはオーナーの食事の誘いをさりげなく断るようになっていた。
アパートの階段や街頭ですれ違うようになったふたりは、お互いのパートナーの不倫について、気づいているけれど決定的な証拠は得られていなかった。それを確かめるために、チャウはチャンを誘って喫茶店に行く。そこで、ウォン・カーウァイの作品ではおなじみの翡翠色のファイヤーキングのカップでコーヒーを飲み、会話をするうちに、それぞれのパートナーの不倫を確信するのだった。コーヒーの味も苦く感じたであろう。
美味しさやあたたかさ、楽しさのない食事風景
その後、ふたりは一緒に食事に行くことになる。レストランで、ファイヤーキングのお皿にのったステーキを食べるが、その様子からは楽しい食事という雰囲気は漂ってこなかった。なぜなら、その食事は、お互いのパートナーがしている食事を知りたいという試みからされているものだったから。その頃から、お互いのパートナーがどのように関係を始めたのか、ふたりは想像して演技をするようになるのだった。
そのうち、チャウはかねてから書きたかった小説を執筆することに。その手伝いをチャンに頼むようになり、ふたりは共に過ごす時間が多くなった。あるときには、部屋でその作業をしている最中に、酔っぱらったオーナーがたくさんの友人を連れて帰ってきて、麻雀を始めてしまったから、チャンはチャウの部屋から出られなくなってしまう。
そのときにも、ふたりは外賣=オイマイしてきた麺やちまきを部屋で食べていたが、別段楽しそうではない。ここで冷や冷やした経験から、チャウは外で小説を書くために部屋を借りることに。チャンは、躊躇しながらも、小説執筆に協力をするために、部屋を訪れるのだった(そしてその部屋は「2046」号室であった※)。
ふたりは小説執筆の共同作業をしながらもご飯を食べる。あるときは、チャンが夫の浮気を追及するシーンを想像し、演技をしながら食事をすることも。「女がいるんでしょ」とチャンから聞かれるチャウがわざと音を立てて下品に食べているのは、自分の妻を誘惑した男が憎いから演技として誇張しているのか、それともチャンのパートナーであるからその男が憎いから誇張しているのか…。
当初はお互いのパートナーのことが気になるからという目的で会いはじめたふたりだったが、それは次第にお互いが会うための言い訳になっていき、最終的にはお互いのパートナーの不倫関係よりも、深い関係性になっていったように見えた。
※ウォン・カーウァイ監督が『花様年華』の次に撮った映画のタイトルが『2046』。木村拓哉が出演したことでも話題となった。香港の一国二制度が終わる年を意味している。(編集部注)
限られた「ある時間」の記憶がもたらす切なさ
しかし、『花様年華』の中の食事のシーンというのは、不思議な感覚をもたらす。通常、映画やドラマにおける食事は、関係性のあたたかさを見せたり、特別なものとして描かれたりする場合が多い。だがこの映画の食事は、別段、おいしそうなわけでも、共に食事をする喜びが描かれているわけでもない。でも、そのシチュエーションの違いに、ふたりの関係性の変化が見えるものとなっていた。
また、この映画では、ふたりが一線を越えようとするシーンや、実際に一線を越えてしまったシーンも撮影されたといわれているが、それは映画には描かれなかった。同時に、ふたりが心から食事をして楽しいと思う時間も描かれなかった。つまり、何か映画や物語としてのカタルシスになるような到達点のようなものは、ひとつも描かれていなかったのだ。
結局、ふたりに何があったのかは示されないのだが、それを「誰にも言えない秘密」として持っていたチャウの描写にこそ、ウォン・カーウァイらしさを感じた。
なぜなら、ウォン・カーウァイは、過去にあったあるときの「時間」を「記憶する」ことに重点をおいた映画ばかりをとっているし、それをいつまでも、ある種「ウジウジと」忘れずに考え続けることが、ある一瞬のカタルシスよりも、永遠に続くような強いものになるからだ。
そうしたウォン・カーウァイの描き方からは、「香港」という、ある意味期限つきで、それがどこに向かうかわからない街を「記憶する」ことに強く重なっているように今では思えている。
思えばチャウとチャンの関係性も、期限付きで、それがどこに向かうのかはわからないし、映画の中でもそれは示唆されなかった。ウォン・カーウァイの映画の中の「恋愛」は、いつも香港の行く末と重なっていて、だからこそ、切ないのかもしれない。