憲法20条には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあります。政教分離の原則です。その理由は、教科書的には「政治がある特定の宗教組織と結びつくと、他の宗教・宗派を排除・弾圧することになり、人々の信教の自由が侵されるから」というのが答えです。
宗教では教義が絶対で、「考える」ことではなく「信じる」ことが最後の結論です。考えるのは神や教祖の仕事で、信者は信じることで救われる。だから、教義を外れる疑義や問答は無用。外れるならそれは異教なのです。歴史上、数々の宗教戦争があったのも、宗教というものが自分たちの教義に反するものを徹底して(互いに)排除してきたからです。
「他宗教・宗派を弾圧して信教の自由が奪われる」というのは、しかし今の日本ではあまり当てはまらないかもしれません。「信教の自由」はすでに常識で、政治が宗教を規制することはまずないからです。オウム真理教ですら地下鉄サリンなど一連の事件で初めてテロリスト認定され、宗教法人格を失ったくらいです。
日本では法的には「カルト」の定義もなく、当然、政府がカルト認定した宗教集団もありません。霊感商法や洗脳、合同結婚式であんなに社会問題化した旧統一教会でさえ宗教法人格を維持し、その名称すら「世界平和統一家庭連合」と、より“平和”的に、より“家庭”的に改めて変身を印象付けることができました。それほど現代日本では「信教の自由」は“保障”されています。
「信じる」宗教と「考える」政治
では現在の社会で「政教分離原則」の意味とは何なのか? 宗教と政治がつながると何がまずいのか?
それはまさに、前述の「信じる」と「考える」の分離です。宗教において言葉は最終的には一方通行です。神や教祖からの上意下達。しかし民主政治では言葉は双方向です。言葉を行き来させる議会こそが土台。「教義」が問答無用なのに対して、問答こそが有用で、その都度の最善をより多くの参加で探るのが民主政です。
政治に言葉の通じない宗教的なあらかじめの排除原理を取り入れてはいけない──それが政教分離原則の戒めなのです。
にもかかわらず、私たちはつい数年前、「こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかないんです」という興奮した総理大臣の切り捨て宣言を聞きました。先日の参院選では「野党の人から来る話は、われわれ政府は何一つ聞かない」という現役大臣の街頭演説も聞きました。言葉は無用──まさに政治の宗教化です。
宗教団体に支えられる日本の組織選挙
なぜ政治がこうも宗教的になっているのか? それは政治がいつの間にか宗教団体と強く結託してしまっていたからです。
なぜか? それはこの社会で、宗教組織が長い歴史を今も生き延びている強固な構造体、最後まで残る選挙支援組織だからです。
旧統一教会が日本で創設されたのは朝鮮戦争直後の1954年、その政治団体版の「国際勝共連合」が韓国、日本で設立されたのは1968年でした。どういう時代だったか?
第二次大戦敗戦で疲弊した日本は朝鮮戦争特需で息を吹き返し、やがて高度経済成長期に入ります。そこで急速に工業化と都市化が進み、農村の解体とともに核家族化が進みます。
農村部に強い支持層を持った自民党は全国の農協の政治団体が選挙を支えていました。しかし1965年に3000万人強だった日本の農家人口は20年後には2/3以下の1930万人に急減します(ちなみに現在は300万人台です)。すると、集票組織だった農協は次第に当てにならなくなります。
自民党の他の全国支援組織には1953年に「全国特定郵便局長会」として発足した「全国郵便局長会」(郵政民営化で改名)という任意団体もあります。ここからは何度も推薦候補が当選しています。けれどこれも民営化で先細ります。戦没者団体の「日本遺族会」も強かったのですが、高齢化が進み、今回の参院選ではついに全国比例の候補者となった会長が落選するに至りました。
野党側も、日教組や自治労などの労働組合組織が弱体・解体すると政党そのものが消滅します。社会党も民社党もそうでした。日本の社会構造が変わっていく過程でした。
しかし日本の選挙は依然「組織選挙」のままです。選挙で動いてくれるのが一般市民のボランティアばかりだと、どうして良いのか右往左往するだけで落選します。そういうところを、かつては与野党さまざまな支援組織のオルグ活動経験者らがカバーしてテキパキと動いてくれていたわけです。
組織選挙なのに組織がなくなってきた、残っている組織は宗教団体くらいという先述した現実が露わになります。あの公明党が安定して票を稼ぐのはそのせいです(それでも票を減らしていますが)。政治家は宗教団体の選挙支援に依存しています。
「美しい国」の基本理念は偶然の合致か
自民党はそうやって宗教団体と結託してきました。
同時に、旧統一教会と創設者・文鮮明を同じくする政治組織「国際勝共連合」は、日本では政治的思惑の一致した笹川良一、岸信介ら右翼や反共政治家の懐深くに入り込むのです。
ちなみに日本の旧統一教会と勝共連合の両初代会長、久保木修己(くぼき・おさみ)の遺稿集のタイトルは『美しい国 日本の使命』でした。2004年の出版です。
安倍元首相が2006年7月にポスト小泉の総裁候補の準備として出版した新書のタイトルは『美しい国へ』。同年9月の政権構想パンフレットの題名も『美しい国、日本』。第一次安倍政権では「『美しい国づくり』プロジェクト」を提唱し、内閣官房に「『美しい国づくり』推進室」が設置された。
「世界平和統一家庭連合」への名称変更は韓国では旧統一協会発足40年の1994年でしたが、日本では名称変更は長年、差し止め(保留)でした。霊感商法を追及してきた前参院議員の有田芳生によれば、何せ「オウムの次は旧統一教会」と言われていた監視対象です。
元文部科学事務次官の前川喜平は2020年12月のツイートで「1997年に僕が文化庁宗務課長だったとき(略)実体が変わらないのに、名称を変えることはできない、と言って断った」と明かしていますが、2015年の第二次安倍政権下で晴れて「世界平和統一家庭連合」への改名を許可されます。
管轄の当時の文科相は安倍派の下村博文、反社会活動監視を管轄する国家公安委員長も安倍派の山谷えり子でした。現在の同委員長二之湯智も安倍派ですが、彼は複数の旧統一教会関連イベントに実行委員長や呼びかけ人として名を連ねていました。
この第二次安倍政権のあたりから、安倍元首相は旧統一教会とのつながりをより深めていったのではないかとされています。二度と下野しない長期安定政権を目指して、選挙常勝のためにはなりふり構わず官僚の人事権を握り、最高裁判事も内閣法制局長官も警察庁長官も我が意に沿うように入れ替え(あわや検事総長までも)、歯向かう者は容赦なく排除しました。
2023年新設の政府のこども政策の統括官庁名は、当初案の「こども庁」から「こども家庭庁」に変更されました。勝共連合はこの名称変更を「心有る議員・有識者の尽力」で達成されたとし、「子供を巡る政策に『家庭』の文字が入る重要性」をウェブサイトで自賛しています。「旧統一教会」改名後の「世界平和統一家庭連合」の「家庭」です。
この議論の座長を務めた当時の加藤勝信官房長官の自民党選挙区支部は、2014年と2016年に旧統一教会と関連が深いとされる団体に会費を払っていたと「 赤旗」が報じています。また、全国霊感商法対策弁護士連絡会は会見で、20年以上前の調査とした上で、100人以上の旧統一教会員が国会議員秘書になっていたと明かしています。
同性婚、選択的夫婦別姓に反対する理由は存在しない?
ここまで来ると、旧統一協会・勝共連合の政治的主張と、安倍政権の政策がかなり合致していることに気づきます。「美しい国」から始まって、共にまるで中世のような、宗教教義的政治です。
参院選前の6月13日、自民党議員たちに、神社本庁の政治組織「神道政治連盟」の国会議員懇談会で「同性愛は精神の障害で依存症」「同性愛が生まれつきであるというのは誤解」とするLGBTQ差別冊子が配布されたのも、それが宗教的教義ならば驚くことではありません。この懇談会の会長も安倍元首相でした。
同性婚も選択的夫婦別姓も、論理的な反対理由は存在しません。反科学と反知性が露呈します。安倍政治を受け継いだ菅政権が、日本学術会議への風当たりを強めたのもその流れでしょう。
宗教は多く男女の営みに関連する国づくりを端緒に始まります。日本の国生み神話はイザナミの「足りないところ」とイザナギの「余っているところ」が交わることで始まり、旧約聖書の創世記は「産めよ、増えよ」と命じます。イヴはアダムの肋骨から作られ、イザナミは欠損で定義される。男尊女卑と家父長制はここから「教義」になります。「家庭」はそういうものとして構成されるべき。そこに当てはまらないものは全て排除されます。
それが国家に置き換えられると、ジェンダー平等も基本的人権も軽視した家父長的な自民党の憲法改定案になり、アメリカの連邦最高裁の女性の人工中絶権の撤回になります。一事が万事、それがここ一連の自民党右派政治の流れでした。今回の安倍元首相銃撃事件は結果として、そのカラクリを炙り出したのです。