2022年上半期にハフポスト日本版で反響の大きかった記事をご紹介しています。(初出:1月9日)
小学生の頃、晩酌をする父の前で酒のつまみに手を伸ばすと、「食べるんじゃない」と怒鳴られ顔を殴られた。
都電の運転士で生活リズムが不規則だった父。酒に酔っていない時に会話した記憶はない。
なぜ父は自分にばかり手を上げるのか。息の詰まる世界に耐えかね、14歳で家を飛び出した。
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赤ちゃんの時に東京都立の産院で他の新生児と取り違えられた江蔵智(えぐら・さとし)さん(63)が、生みの親を特定する調査を都が行わないのは人権侵害だとして、東京都を相手取り東京地裁に提訴した。江蔵さんは出生の事実を知ってから自力で血縁上の父母を探し求めるも、未だたどり着くことはできていない。
「自分が何者かを知りたい」
訴訟にかける思いを聞いた。
住み込みで職を転々
江蔵さんは1958年4月10日ごろ、東京都立墨田産院(88年に閉院)で生まれた。
「おまえは家族の誰とも似てないな」
親戚が集う場で、幼い頃からそう言われてきた。
アルコールに依存していた父は母ともけんかが絶えず、酒に酔うと江蔵さんを殴った。
14歳で家から逃げ出した後、飲食店などを転々として住み込みで働いた。中学校にもほぼ通わなかった。
「子ども時代は、まさしく『平穏な生活』ではありませんでした」
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父や母と、血がつながってないのではないか――。
江蔵さんがそう疑問を抱いたのは、97年に母が体調を崩して検査した時だった。血液検査の結果から、自分が両親からは生まれない血液型だと判明した。
それでも、事実を受け入れられず「『そういうこともある』と自分に言い聞かせていた」と江蔵さんは振り返る。
7年後、江蔵さんと父母のDNA鑑定をしたところ、父と母のいずれとも血縁上のつながりがないと分かった。
「血のつながった父や母はどんな人なのか、きょうだいはいるのか。自分が何者なのかを知りたかった」
だが、当時の産院はすでに閉院していた。役所に対応を求めても相手にされなかったという。
自分のためだけではない
江蔵さんと父母は2004年、東京都を相手取り、不法行為による損害賠償を求めて提訴した。06年の二審判決で、東京高裁は産院側の取り違えの事実を認定。都に対し2000万円の損害賠償の支払いを命じる判決を言い渡し、確定した。
訴訟と並行し、江蔵さんは自力で生みの親を探した。自分の誕生日近くに生まれた人で、墨田区内で暮らす人を一軒一軒訪ねたり、戸籍受附帳を開示請求したりと調べ続けたが、手がかりは得られなかった。
血縁上の父母を探すのは、自分だけのためではない。
父は「まだ探してんのか」「今さら会ってどうするんだ」と理解を示さなかった。一方で、母は父のいないところで「(産んだ子の)顔だけでも見たいよ」と江蔵さんに本心を打ち明けた。
父は5年前に他界。89歳になった母は認知症の症状が進み、会話もほぼ困難になってきている。
幼い頃、父に殴られた時に間に入ってかばってくれたのは母だった。
「もう手遅れかもしれない。それでも、生きているうちに産んだ子どもにひと目でも会わせてあげたい」(江蔵さん)
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訴状によると、原告側は都に対して、江蔵さんの生みの親を特定する調査をすることと、生みの親に連絡先の交換について意思確認することを求めている。
血縁上の父母の意向を無視して直接訪ねるのではなく、あくまで江蔵さんが面会を希望していることを伝えた上で、実際に対面するかを決めてもらいたいと江蔵さんは話す。
弁護側は、調査に協力しない都の対応が、分娩助産契約に付随する義務に違反していると主張。さらに、「子どもの権利条約」(日本は1994年に批准)が定める子どもの出自を知る権利を侵害していると指摘する。
江蔵さんの代理人の海渡雄一弁護士は、2021年11月の記者会見で「子が親を知ることは基本的な人権で、アイデンティティーそのもの」と強調。訴訟を通じて「親を知りたいと悩む人たちの出自を知る権利を保障する法的根拠ができるよう、議論が進んでほしい」と訴えた。
提訴を被告の東京都はどう受け止めているのか。
都は、取材に「訴訟への対応については検討中です」とコメント。原告側の請求に対する具体的な見解は明らかにしなかった。
(※都側の反論の詳細は以下の記事より)
専門家「誠意を持って調査を」
ルーツを知ることは、人が生きる上でどのような意味を持つのか。
養親・養子の支援に長年携わり、子どもの出自を知る権利に詳しい文京学院大の森和子教授(児童福祉)は、「実親が分からないと、遺伝的な要素を踏まえながら自分が何者かを考え、アイデンティティーを作っていくことが難しくなります。『地に足がつかず、足元がぐらぐらしているように感じる』と言った人もいます」と話す。
「生みの親と対面し、外見や声、癖など似ている部分を見いだしたとき、自分がいていいんだと生理的に自らの存在を肯定し受け入れられるようになったと語る当事者もいます。実親を知ることは、人生を一歩先に進める力にもなり得るんです」(森教授)
江蔵さんのように、取り違えの事実が判明した場合、当事者はどのように救済されるべきなのか。
森教授は「相手方がこれまで親子関係に何の違和感も持たずに生きてきた場合、取り違えの事実を突然知らされることは、家族関係を根本から揺るがしてしまうリスクがある」と指摘する。一方で、「取り違えられた本人や親は被害者です。少なくとも、人為的ミスをおかした病院や運営する自治体は誠意を持って調査をして、まずは取り違えられた子と親の安否や生活状況など最低限の情報を提供し、この先の人生を前向きに歩む上での足がかりを得られるようサポートするべきです」と強調する。
さらに、「血液型検査など何らかのきっかけによって、病院で取り違えられた可能性があると不安を感じたとき、誰もが相談できる公的な窓口の設置が必要です」と提言した。
<取材・文=國崎万智@machiruda0702/ハフポスト日本版>