ANAのCAからプロのバレエダンサーに転身できた理由。「客室乗務員として働いたからこそ、いま踊れている」【2022年上半期回顧】

全日本空輸(ANA)の客室乗務員から吉田都さん率いる新国立劇場バレエ団のダンサーに。4歳で始めたバレエ、海外で挫折しその道を諦め一度就職した彼女が、プロとして再びステージに立つまで(2022年上半期回顧)
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新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』の一場面。ポーランド王女の役を踊る根岸祐衣さん
撮影:鹿摩隆司

2022年上半期にハフポスト日本版で反響の大きかった記事をご紹介しています。(初出:4月29日)

1997年に発足した新国立劇場バレエ団。英国で長らくプリンシパルダンサーとして活躍した吉田都さんが舞踊芸術監督を務め、今シーズンで就任2年目になる。

そこに、一人の異色のダンサーがいる。根岸祐衣さん28歳──。大手航空会社で客室乗務員(CA)として勤務した後、オーディションを経て入団した。

継続的な鍛錬が必要とされるバレエの世界。社会人として働いていた経験がある者がプロのカンパニーに入団する例は極めて珍しい。

だが彼女は、「社会人として働いた経験があるからこそ、改めてバレエの素晴らしさに気づけた。だからいま私は、きっとこの場所で踊れている。『踊れるのは当たり前のことじゃない』と強く思う」と言い切る。

客室乗務員からプロのバレエダンサーへ。彼女のキャリアチェンジの経緯や“転身者”ならではの本音を聞いた。

ハンガリー留学での挫折。バレエを一度諦めた理由

2021年に公演された『白鳥の湖』ではポーランド王女の役でソロを踊るなど、入団後はさっそく活躍を見せた。新国立劇場バレエ団での彼女の肩書きは「アーティスト」。主役を演じる「プリンシパル」とは違い、1つの作品の中で複数の役を演じることが多いという。

根岸さんがバレエを始めたのは4歳の頃。芸術が好きな両親の影響で『くるみ割り人形』を観劇したことがきっかけだった。

その後、2012年にはスイスで行われた若手ダンサーの登竜門『ローザンヌ国際バレエコンクール』に出場し、同年に欧州のハンガリーへ留学。順調なステップを歩んでいたが、異国の地で初めて大きな挫折を味わい、それを機にバレエの道を一度諦めた。当時のことを、次のように振り返る。

バレエに集中できる環境は整っていました。先生もみな素敵な方々で、色んなことを教えてくれました。でも一方で、自分自身はバレエダンサーとして生きていく「覚悟」が全然出来ていなかった。自分でそう感じているのにも関わらず、すでにプロを目指していたので後に引けず、海外のバレエ団のオーディションを沢山受けていました。

でも、やはり覚悟がない自分が起こす行動なのでやり遂げることが出来ない。全ての姿勢が中途半端で何も成し遂げられないまま、ただ時間だけが過ぎていくことはストレスにもなりました。

「変わりたいけど変われない」「頑張りたいけど頑張れない」みたいな自分にも失望して、ハンガリーの学校卒業を機に「プロを目指すバレエはもう無理だな」と諦めました。

講師陣にスキルの限界を指摘されたわけではなかった。だが、「先生方は踊りを見れば、その先も進めるかどうか、すぐに分かるものなんです」と根岸さんは言う。

留学した当時から「自分がどんな踊りがしたいか」をもっと意識して取り組んでいればよかった。いつの間にか、純粋に楽しむ心を自分の中で忘れていました。やはり、目の前の失敗や成功にばかり焦点が当たっていると、実力も発揮できないと私は感じました。

年に一度ほどしかない発表会などパフォーマンスをする機会が決して多いとは言えない日本では、舞台に立てるコンクールは確かに大切な場ですが、どう取り組むかがとても大事。1位を取るために痩せなさいとか、回転技を磨きなさいというのは違うと思います。これからの世代の人には、結果のみを追い求めすぎず、経験や成長の機会として臨んでもらいたいです。

4歳から続けてきたバレエを一度諦めたのは20歳の時だった。

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根岸さんは全日本空輸(ANA)で客室乗務員(CA)として勤務した後、オーディションを経て、新国立劇場バレエ団に入団した
HARUKA OGASAWARA

「ずっと続けていくはずだった」。迷いなく選んだ客室乗務員の仕事

バレエを一度諦めてからの行動は早かった。帰国する時にはすでに客室乗務員を目指すことを決めていたという。

半年間の受験勉強の末に短大に合格。航空会社からの内定を勝ち取るため、英語を中心に学んだ。客室乗務員を目指したきっかけはハンガリーでの経験だったという。

ハンガリーに留学してみて、月並みですが、日本の外では日本の常識が全く通用しないことを肌で感じました。同時にそれはすごく面白い経験だったので、今後は仕事を通じて世界の様々な場所に行き、自分の目で色んなものを見てもっと感じてみたいという気持ちが芽生え、航空会社の客室乗務員を目指すことにしました。

その後、縁あって全日本空輸(ANA)に就職が決まり、客室乗務員として働き始めた。仕事をする日々はとても充実していたと根岸さんは話す。

 
 
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全日本空輸(ANA)で働いていた頃の根岸さん
本人提供

日々の仕事はとても楽しかったです。時差の影響から来る体への負担と10時間を超えるロングフライトは多少辛かったですが、同僚も素敵な人が大勢いましたし、お客様にも色んな方がいて勉強になりました。

バレエをやっていた頃は、「そもそもの才能がないと出来ないことが沢山ある」という実感がありました。自分の努力ではどうにもならないことも多かった。一方でCAは、入社後に同期と一緒に1から必要な知識やスキルを学び、資格取得訓練に合格すれば業務を行うことができる。

その先はコミュニケーション能力やサービスにおける気配り、人によっては英語力などがもちろん必要になりますが、なんというか、「スタートライン」はみな一緒なんです。自分にとってはその点は新鮮でした。

また私の場合は、バレエをやっているといつの間にか「バレエと、それに向き合う私」という狭い関係性の中に入り込んでしまっていました。

その点、客室乗務員の仕事を通じて「チームワーク」の大切さを学べました。他のクルーとコミュニケーションを密に取ることで、お客様に対してもより良いサービスを提供できる。航空会社で学んだことは、バレエ団の一員としても活かせていると感じています。

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全日本空輸(ANA)で働いていた頃の根岸さん
本人提供

「趣味」から再燃したバレエへの気持ち

 

客室乗務員の仕事は「ずっと続けていくはずだった」という根岸さん。ではなぜ、バレエへの気持ちが再燃したのか。コロナ禍と人との出会いが影響していたという。

2020年の4月以降、コロナの影響でフライトが激減して、のちに一定期間は完全に休業せざるを得ない状況になりました。まとまった時間が突然出来たんです。それで、バレエのレッスンを本格的に再開することにしました。

実は仕事をしながらも「趣味」として週に2回くらいは踊っていましたが、コロナをきっかけに人生そのものについて改めて深く考えてみたことと、時間的な余裕が生まれたことがちょうど合わさって、またバレエを本気でやってみたいと次第に思うようになりました。

「恩師」と慕うバレエ講師との出会いも、彼女を後押しした。コロナ禍以前に知り合いの紹介で偶然知り合ったという。

「時間があるなら、もう少しちゃんと踊ってみたら」という講師の言葉に導かれ、日々練習に励んだ。恩師のもとで学んだ10ヶ月ほどで、「ハンガリー留学時代に感じた自分への失望感が徐々に自信へと変わった」と根岸さんは話す。

その後、2021年2月に新国立劇場バレエ団のオーディションに挑戦。合否を気にすることなく「自分の踊り」を貫いた。

結果は見事に合格。会社に勤める者の合格は前例がなく、異例のことだった。

「退職届」を提出した時の上司の反応は?転身したからこそ感じること

バレエ団への入団が内定し、会社の上司に退職届を提出する日がやってきた。その時の上司のリアクションは、今も印象に残っているという。

まず、直属の上司はバレエのことをあまり知らない方だったので、「バレエ団に入団するため退職させて頂きます」と伝えたら、ポカンとされました...(笑)その後は、「頑張っているし、これからも成長できる人材だと思うからもう一回考え直さないか」とありがたいことに引き留めて頂きました。

ただ、さらに上の上司はバレエがすごく好きな方で、辞める直前に「心の底から応援しています」と言ってくださいました。挑戦を理解してくれた会社には本当に感謝しかないです。

オーディションへの挑戦については、親とバレエ講師以外には話していなかったという。

仕事がなかった時期とはいえ、「改めてプロを目指そうと思う」とは周囲には言えませんでした。合格できる自信は全くなかったので、言えなかったんです。なので、「バレエダンサーになりました」と報告できた時は、両親を含め大勢の人が喜んでくれました。

一方で、心配の声も届いた。

バレエダンサーになるのはいいけど、「安定や年収はどうなるのか」と心配の声を寄せる人もいました。客室乗務員になった時は「すごいね」とか「憧れの職業だね」と言われましたが、残念なことに、そのリアクションから「航空会社の客室乗務員」と「バレエダンサー」の社会的な職業としての見え方や受け取られ方の違いを感じてしまいました。

確かに、現状ではバレエダンサーはプロであっても安定が保証されている仕事ではないので、そう受け取られても仕方のない部分はあると思います。ただ、安定や年収よりも挑戦に重きをおくキャリアがあっていいし、そもそも、それぞれの職業に社会的な地位や差なんてないと思うので、これからも自分の「踊りたい」という気持ちを純粋に大切にしたいと思っています。

舞踊芸術監督を務める吉田都さんは、バレエ団に所属するダンサーの待遇の改善に言及している。

「私が(監督に)就任した時から目指していることであり、今後も続けていきたい」とした上で、「本人の選択もありますが、やはり海外のダンサーには組合などがあることに比べると、日本のアーティストたちはとても弱い立場にあると言えます。ですから、そのあたりは考慮して接しているつもり」と記者懇談会のインタビューで語っている。

根岸さんは吉田さんについて「雲の上の存在」と表現する。トップの姿勢はカンパニーに大きな影響をもたらす。「怠けず頑張らなきゃ」と常に思わせてくれるという。

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新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』雪の結晶より(根岸さんは前列一番右)
撮影:長谷川清徳

「社会人として働いた経験があるからこそ、この場所で踊れている」

27歳でのプロデビューはバレエダンサーの中でも極めて遅い。だが、「年齢のことを考えていたら、きっとトライすらできなかった」と根岸さんはいう。

人生は一度きり。私もご縁があれば結婚もしたいし、子どもも欲しいという気持ちはあります。でも、今の自分の中の一番のプライオリティはバレエなんです。自分の気持ちを大切にして、今は何も考えずに没頭したい。

おそらくプロのバレエダンサーになれなかったとしても、バレエが大好きな気持ちは変わらなかったと思いますが、幸運なことに今はこの場所で踊れていて、それがとても幸せです。

プロとしてのスタートを切り、バレエへの気持ちは強まるばかり。オーディションに合格した理由は聞いておらず、「なぜ私をとったのか今も分からない」と話すが、「社会人経験があったからこその合格」という考えは自分の中で明確だ。

社会人として働いた経験があるからこそ、改めてバレエの素晴らしさに気付くことが出来ました。だからいま私は、きっとこの場所で踊れていると強く思うんです。

この場所に行き着くまでには様々な経緯がありましたが、バレエへの情熱を再び認識できたのは、一度社会に出て働いてバレエを「外側」から見たことが大きいです。

客室乗務員の仕事で海外に行った際、業務外の時間で滞在先の劇場に足を運ぶ機会が何度かありました。自分がいざ踊らなくなって「観客」の視点でバレエを見てみると、気づいたことが沢山あったんです。

自分が打ち込んでいた時は他人の踊りはすべて「良いもの」に見えていました。いざ観客の立場になって見ると「この人の踊りが好き」とかそうじゃないとか、好き勝手に言えるし、むしろそれが正しい。

自分の内側ではなく、見る人やお客様に対して意識を向けるというのは、客室乗務員の業務を経験してこそ培えたものでした。「お客様がいる」ということを意識すべきなんだと。

その上で、見え方は人それぞれだからこそ、「自分がこう踊りたい」という表現をもっと大事にすべきだったと気付きました。

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新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』花のワルツ(根岸さんは中央)
撮影:長谷川清徳

「覚悟がない自分」だったと過去を語るように、自分が踊る意味や目的を見失い、幼少期から続けてきたバレエで一度は挫折を経験した根岸さん。

社会人経験を経て再び強く抱いた「どうしても踊りたい」という想い。前例のない「元会社員」のバレエ団入団は、その想いが結実した形だったのかもしれない。

音を体で表現できるダンサーになりたい。そして、表現するものを観ているお客様にきちんと伝えられるダンサーになっていきたいです。

プロのバレエダンサーとしてキャリアを歩み始めた根岸さんは、踊れることの喜びを今、改めてかみしめている。

(取材・文/小笠原 遥)