日本にとって非常に重要な機能が加わる。しかし運用面に懸念は残る。
経済安全保障が専門で、多摩大学ルール形成戦略研究所の井形彬・客員教授はそんな印象を抱いているという。
岸田政権の目玉政策の一つである「経済安全保障」。それを推進するための法律が国会で成立した。この法律をどう評価するか。
法律を構成する「4つの柱」ごとに、その意義と懸念を解説してもらった。
■経済安保を振りかざして...
「4本柱と言われていますが、大黒柱が1本で、残りの柱が3本という認識です」。
井形さんはそう切り出した。
経済安全保障推進法は▽サプライチェーン強靭化▽基幹インフラの事前審査▽官民による先端技術開発▽非公開特許の4つの柱からなる。
このうち、井形さんが「大黒柱」とするのは2番目の「基幹インフラ」だ。
まず、基幹インフラとは何か。
発電所や空港などに用いられる重要な設備は、有事の際、外国からサイバー攻撃などを受け誤作動を起こしたり、情報が漏洩したりする恐れがある。導入時やソフトウェア・アップデートに乗じて不正なソフトウェアを仕込まれる可能性などが指摘されているのだ。
これを防ぐために法律では、次の14分野を指定。機能が停止、もしくは低下した場合に「国家及び国民の安全を損なう」などとされる事業者について、設備導入の際などに国の事前審査を義務付ける。リスクのある設備を導入してしまう事態を未然に防ぐ狙いだ。
事前審査が義務付けられる可能性のある14分野:
▽電気▽ガス▽石油▽水道▽鉄道▽貨物自動車輸送▽外航貨物▽航空▽空港▽電気通信▽放送▽郵便▽金融▽クレジットカード
「これまで民間企業では、安くてクオリティが高ければ、脆弱なシステムのものでも使用するケースがありました。数段階のステップは踏みますが、(リスクのある設備などについて)最終的に政府が使用中止を勧告できるのはとても重要です」と井形さんは話す。
ここまで見ると、この法律には利点しかないようにも思える。しかし井形さんは、法律の対象となる事業者が明確化されておらず、成立後に政令(内閣が決める命令やルール)などで規定されることに懸念があるという。
「“クラウドであれば日本製を使ってください”というように、産業政策の意味合いが入る危うさはあります。保護主義にも踏み込む可能性はあり、(仮に)機微な重要設備は日本製でないと信頼できない、となると、同盟国やパートナー国から“日本は経済安保を振りかざして自国製品を有利にしているだけだ”と批判される可能性があります」
一方で、対象範囲を絞り込みすぎると、今度は法律を作った意味が薄れてしまう。井形さんは「日本に必要な機能であることは間違いありません。運用面で本当に必要最低限の対象にとどめて欲しい」と警鐘を鳴らしている。
■あれも、これも、それも大事...
「日本の企業はどのようなグローバル・サプライチェーンを持っているのか。それを調査する権限が与えられた点はとても重要です」。
井形さんがそう評価するのは、残りの柱の一つ「サプライチェーン強靭化」だ。
これは「国民の生存に必要不可欠」な物資などを特定国に依存していた場合、有事の際に供給を止められてしまうリスクを想定する。
たとえば過去には、沖縄県・尖閣諸島沖で中国漁船の船長を日本側が逮捕した時に、釈放を求めた中国がレアアースの供給を制限した例もある。
法律では「特定重要物資」に指定されたものについて、政府が▽国内での生産設備の強化や▽入手先の多様化、それに▽備蓄や▽代替物資の開発を資金面で支援する。
加えて、民間企業のサプライチェーンを政府が調査することを可能とする。当初、民間企業は拒否した場合、罰則が科されることになっていたが、この規定は削除され努力義務とされた。
ここでも疑問視されたのは「何が重要なのか」という点だ。法律を担当する小林鷹之・経済安全保障担当大臣は国会審議のなかで半導体やレアアース、それに蓄電池や医薬品を例として挙げたが、「現時点で予断を持って言及はできない」と留保している。
「例えば、半導体は重要ということは社会のコンセンサス(意見の一致)が取れてきています。医薬品もそうです。しかし、食料・水・エネルギー・レアアースなど、どれが重要で、どれが重要でないかの線引きは難しい。何を戦略的に重要な物資とするか、が一番の肝なのに法律に書いてありません」
際限なく拡大する恐れがあるのは「品目」だけに止まらない。
医薬品の製造工程を日本に移した場合を例として見てみよう。日本で作れるから安心だと思いきや、そうではない。上流部分の原薬(有効成分)が中国依存のまま、というケースが想定される。これでは弱点解消にはならない。
他では鉱石。リスクのある国とは別の場所で掘り出せるようにしたものの、実は精製作業を中国に委託していた、というパターンなども考えられるという。
本当のサプライチェーンの急所はどこか。正確な把握には、民間の力を活用するほかないと井形さんは指摘する。
「省庁横断型の部署であっても、サプライチェーンを全て把握するのは不可能です。医薬品のことは医薬品業界が、食品ならば食品業界が一番精通しています。民間の声を反映するシステムを作る必要があります」
■大・補助金合戦
残り2つの柱である「官民技術協力」と「非公開特許」にも不安は残る。
まず、官民技術協力では、「特定重要技術」として宇宙・海洋・量子・AI・健康医療などの先端技術を想定し、資金や制度面からサポートする「協議会」を設置することになっている。
井形さんは「日米共同声明などでは先端技術の開発協力を進めると明記されており、ごく自然な動きです」と評価する一方で、「協議会には省庁や外部有識者が入りますが、本当に“何が日本にとって重要か”という形で議論が進むのでしょうか。自分たちがやってきた研究内容や、省庁であれば管轄する技術を優先しようとし、大・補助金獲得合戦になってしまわないでしょうか」と懸念を示している。
次に非公開特許だ。これは、従来、公開が基本とされてきた特許について、核や武器開発につながるものなど一部を非公開とするものだ。公開されないことにより生じる損失を、国が補償することになっている。
井形さんは「G20では日本以外のほぼ全ての国で実施されています」と理解を示しつつも、この損失をどのように計算するのかについて、懐疑的な視線を持っている。
「公開すれば本来大きな利益を得ていたはずが、ほんの一部になってしまえば、民間からも不満の声は上がるでしょうし、逆に過度に高額な補償となればまた問題です」
■まだ終わっていない
法律は「柱」ごとに異なる時間をおいて施行される。一方で、この法律がありさえすれば日本の経済安全保障は問題なし、というわけではない。
井形さんは残った課題としてエネルギー安全保障や食糧安全保障、それに民間企業も対象に機密を扱う職員の適確性を審査する「セキュリティ・クリアランス」などを挙げたうえで、経済安全保障に精通する人材育成も今後、必要だと指摘する。
「ここ数年で複数の省庁などに経済安全保障担当が新設されています。大学での経済安全保障の授業も受講生が増えてきて、需要はかなり上がっています。この分野における教育の場が広がっていけばと思います」