3〜5歳児クラスの保育所・幼稚園などの費用が無料になる「幼児教育無償化」に所得制限が導入されるかもしれないーー。Twitter上などで最近、そんな騒動が持ち上がった。
きっかけとなったのは、3月8日に行われた参議院予算委員会公聴会で、公述人として出席した慶應大の中室牧子教授(教育経済学)が幼児教育無償の制度について疑問を投げかけた発言。これについての記事が拡散され、所得制限導入の布石なのではないかという懸念から、「所得制限に反対」とする声が次々と上がったのだ。
無償化は2019年秋から始まったばかりの制度だ。もし本当に撤回されたり、所得制限が導入されたりすれば、世帯によっては毎月10万円以上の支出増となり得る、大きな変更になる。
しかし、実際の発言内容はどうだったのか。
中室教授によると、「所得制限をすべき」という内容ではなく、事実誤認のまま怒りが拡散された面もあったようだ。どんなものだったのか。詳しく聞いた。
所得という単一の基準で線引きを行うべきではない
ーー実際に中室先生は、公聴会ではどのように発言されたのでしょうか?
(中室)私としては、参院の公聴会で幼児教育無償化の制度に対して「所得制限をすべきだ」とは一言も言っていません。質疑に立った参議院議員からも、幼児教育無償化で所得制限を行うことに積極的な意見は出ませんでした。
ーー事実誤認の面もあったのですね。実際にはどういった点が、発言のポイントだったのでしょうか?
(中室)私が公聴会で主張したかったことは、現状の「富の再分配」が正しく機能していない可能性があるということです。富の再分配とは、社会保障や公共事業などを通じて、貧困、失業、高齢、病気などの困難を抱える人に対して行われる所得移転のことを指します。人々の状況によらず現金や現物を給付することは「ばらまき」と呼ばれて批判されることがあります。私は、再分配がより効果的に行われるために、「一律」に行う方法ではなく、個人の困難度合いをデータによって詳細に把握し、「必要な人に必要なだけの支援が速やかに届く仕組みづくり」をどうするかを考えなくてはいけないという問題提起をしたかったのです。
ーー「所得制限すべき」ではないにしても、幼児教育無償化の対象となっている子育て世帯の人々の中には、本来受け取るべきではない人もいると考えているということですね。
(中室)そうです。一律に無償化するということは、所得が1億円の人も、資産が100億円の人も無償化の対象です。一方で、重複した困難を抱えるようなもっと手厚い支援が必要な状況の人に対しては十分ではないという「帯に短し、たすきに長し」といった状況になっています。こうした中、所得という単一の基準で線引きを行うことを提案したわけではありません。この点は公聴会の中で明確に述べています。
例えば、今回の私の公述に対して、SNS上では「(現在の児童手当で所得制限の基準額となっている)世帯主が960万円の所得の人は決して生活に余裕があるわけではない」というような反応がありました。
私は960万円という世帯所得が、高いとも低いとも考えておらず、それは状況によると考えています。
例えば、地方在住の単身世帯であれば、960万円の所得があれば比較的余裕がある生活ができるのではないでしょうか。しかし、昨年までは960万円の所得があったが、コロナ禍で現在は失業しており、多子世帯、親の介護まで始まってしまった…という状況の方がいたとしたら、そのご家庭は相当困難な生活になっているでしょう。
ですから、所得だけでなく、家族構成や雇用の状況などを多面的に把握し、本人からの申請を待つのではなく、行政側から働きかける「プッシュ型」で、必要な人に必要な支援を届けていくことこそが再分配のあり方として望ましい。デジタル化がすすむ社会において、それは可能なはずだと考えました。
実際に、アメリカでは、ハーバード大学の研究者らがクレジットカードの支出履歴や雇用状況などをリアルタイムで把握しながら、新型コロナがいつ、誰に、どのような影響をもたらしたのかを詳細に分析し、現金給付につなげるという動きが始まっています。日本でもより効果的な再分配のあり方を議論すべき時にきていると考えています。
これは、所得で一律に線引きをするという「所得制限」とは異なる発想だと思います。
幼児教育無償化は子どもに悪影響かもしれない
ーー所得に関わらず、子育て世帯は全般として再配分の恩恵が少ない、むしろ負担のほうが大きく損をしている、「子育て罰」を受けているとも言われます。それが、今回の反発が広がった背景にあるのではないでしょうか。すると、子育て世帯内で誰が支援を受けるべきかを厳しく見ていくのではなく、他の世帯から子育て世帯に対して再分配するという発想もあっていいのではないでしょうか?
(中室)それは私も同じ問題意識を持っています。
2019年度の国民医療費は年間およそ44兆円となり、このうちの60%以上は65歳以上の高齢者に対する支出です。それに対して、同じ年の文教予算(科学振興費含む)は年間およそ5兆円程度となっています。この結果、先進国の中でも教育に対する公的支出額のGDP比はかなり低くなっていることはよく知られています。
一方、子どもの教育や健康への投資を行った政府の政策の多くは、子どもが大人になった後の税収の増加や社会保障費の削減によって、初期の支出を回収できていることを示した研究もあります(Hendren, N., & Sprung-Keyser, B. (2020). A unified welfare analysis of government policies. The Quarterly Journal of Economics, 135(3), 1209-1318)。こうした研究を踏まえると、子どもの健康や教育に対する投資を増やすべきだというのが、私自身の基本的な立場です。
ただし、子どもの健康や教育への投資であれば何にお金を使ってもいいとは考えていません。
日本の財政赤字は2021年度末には990兆にも上り、GDPの2.5倍にも達し、先進国の中でも類を見ない大幅な赤字となっています。効果のない政策を行うことは、次世代に借金を付け回すことになり、それは決して望ましくないことです。もし仮に今支出をするのであれば、将来世代が得られる利益が大きい政策にお金を使うべきだと思います。
このため、私は、幼児教育の無償化の導入が議論され始めた当初、その導入には慎重な立場でした。その理由は、幼児教育無償化の前に実施すべき政策があると考えていたからです。政策は「順序」を間違えると十分な効果を発揮できないのです。
ーー幼児教育無償化の前に必要なこととはなんでしょうか?
(中室)公聴会の中でも、教育の「需要」と「供給」に分けて議論しました。
現在は、保育所不足による待機児童の問題が深刻です。これは、保育所の供給が足りていないということです。一方、幼児教育の無償化は保育の需要を増やすことにつながります。
供給不足にもかかわらず、需要を喚起するような政策を行えば、供給不足、すなわち待機児童問題はより深刻になります。つまり、順序としては待機児童の解消が先に行われるべきだということになります。無償化されても、入れる保育所がなければ無償化の恩恵を受けられません。
もう一つ、私が注目していたのは、カナダのケベック州で行われた幼児教育の利用料の大幅な値下げに関する研究です(Baker, M., Gruber, J., & Milligan, K. (2019). The long-run impacts of a universal child care program. American Economic Journal: Economic Policy, 11(3), 1-26.)。
ケベック州で1997年に保育所の利用料が1日当たり5ドルまで引き下げられ、残りは政府の補助金で賄われるという政策が始まりました。これまでの8割引きになりましたから大幅な利用料の低下が生じました。
この結果、保育所利用の増加は、子どもたちが10~20代になった後の非認知能力、健康、生活満足度、犯罪関与にマイナスの影響を与えたことがわかっています。特に、男子に攻撃性や多動の問題が顕著だったということです。
つまり、子育て支援であれば、どのような支出であっても子どもにプラスの効果があるというわけではない。マイナスの効果がある場合もあります。もしそんなことになれば、子どもたちの世代にはマイナスの効果と借金だけが残ることになります。これが、私が「子育て世帯への支出であれば何でもいいじゃないか」という考えに決して同意しない理由です。
ーーカナダの例で利用料減額が子どもたちに悪影響を及ぼしたというのはどうしてなのでしょうか?
理由はいくつか考えられ、この研究の中ではっきりとした結論が得られているわけではありません。しかし、この論文の著者らは、保育所利用料の引き下げに伴って増加した需要に対応するために、保育所の供給を急いだ結果、保育の質が低下したことが理由の1つであると考えています。
一方、2000年にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大のジェームズ・ヘックマン教授らの研究では、貧困世帯の子どもに対する質の高い幼児教育は、短期的にも長期的にも大きな効果があることが示されており(Heckman, J. J., Moon, S. H., Pinto, R., Savelyev, P. A., & Yavitz, A. (2010). The rate of return to the HighScope Perry Preschool Program. Journal of public Economics, 94(1-2), 114-128)、その後に続く研究も同様に、「質の高い幼児教育」の費用対効果の高さを明らかにした研究は少なくありません。
このため、質を担保できる見込みが立っているのであれば、利用料を引き下げる、あるいは無償化するというのは理に適っていると思いますが、それが立っていないのに利用料を引き下げる、あるいは無償化してしまっては、カナダの二の舞になってしまいかねないません。
ーー無償化導入の目的として、国は子ども本人のためというよりは、少子化対策を掲げていました。
家族の経済学や労働経済学の分野では「少子化対策」に関する研究はかなり行われています。
それらの研究によれば、子育て世代への現金給付や所得移転は確かに出生率にプラスの影響を与えます。しかし、その効果は決して大きなものではないということもわかっています。中には、児童手当が出生率の上昇につながらなかったことを示す研究もあるほどです(Riphahn, R. T., & Wiynck, F. (2017). Fertility effects of child benefits. Journal of Population Economics, 30(4), 1135-1184)。
出生率を数パーセントといった単位で改善するために現金給付や所得移転を行うのであれば、かなり大きな金額でないと目立った成果を上げられないものと考えられます。
それに対し、日本のデータを使って、保育所定員率(保育所の利用しやすさ)の上昇は出生率を高めたという研究がありますから、ここでもやはり待機児童の解消を行うことの重要性が示唆されています(Fukai, T. (2017). Childcare availability and fertility: Evidence from municipalities in Japan. Journal of the Japanese and International Economies, 43, 1-18)。
この分野で優れた研究業績のある東京大学の山口慎太郎教授も、「こども政策の推進に係る有識者会議」の中で、保育所整備という現物給付のほうが、児童手当のような現金給付よりも出生率向上への費用対効果が高く、その理由としては日本のように女性の家事・育児負担が大きい国では、妻の負担削減をターゲットにした政策が効果的だからだと述べておられます。
このため、私は子どもへの教育的な観点でも、少子化対策という観点でも、保育所の整備と質の向上が最も優先されるべき政策だと考えており、私自身が公聴会でもっとも強調したかったのはまさにこの点だったのです。
(後編に続く)
中室牧子さんプロフィール
1998年慶應義塾大学卒業後、日本銀行等を経て、2010年にコロンビア大学でPh.D.を取得。専門は教育経済学。2013年から慶應義塾大学総合政策学部准教授。2019年から同学部教授。東京財団政策研究所研究主幹、デジタル庁のデジタルエデュケーション統括も兼務。