ウクライナ情勢は予断を許さない状況が続いている。ロシアのプーチン大統領の、あまりにも強権的かつ独善的な侵攻理由に世界が唖然としている。
その真意を読むのは相当に困難だが、2月28日、フランスのマクロン大統領と電話会談したプーチンは、停戦の条件として、ウクライナの「非武装化・非ナチ化」とクリミア半島の主権を西側諸国が承認することを求めたという。
「非ナチ化」がいったい何を指すのか不明だ。そもそもナチスのような蛮行を行っているのはウクライナではない。ロシア政府の後ろ盾のあるチェチェン共和国だ。
公開中のドキュメンタリー映画『チェチェンへようこそーゲイの粛清ー』は、ロシア連邦の一角、チェチェン共和国で同性愛者が国家主導による「ゲイ狩り」の危険にさらされている実態を暴く作品だ。
チェチェンの同性愛者たちは差別されるにとどまらず、国家警察に逮捕され、拷問を受け、殺害されている。同性愛を恥辱と感じる文化を形成しているチェチェンでは、同性愛者は家族からも迫害を受けることがある。本作は、そんなチェチェンの性的マイノリティを救い続けるロシアLGBTネットワークの救出活動にカメラが密着している。
その恐るべき迫害の実態は、かつてナチスが行った同性愛者への迫害を彷彿とさせる。そして、そのような残虐な行為をロシア政府が黙認している実態を、本作はまざまざと見せる。
チェチェン首長が掲げる「血の浄化」
本作は、チェチェンの同性愛者たちの救出を行う「ロシアLGBTネットワーク」と「モスクワLGBT+イニシアティブコミュニティセンター」の活動家グループたちの活動をゲリラ撮影の手法で捉えている。
彼ら・彼女らの活動は大変大きなリスクがつきまとう。チェチェンで命の危険にさらされる人々から日々、助けを求める電話を受け、ロシア国内外に用意したシェルターまで案内し、時には偽の身分証を用意して、秘密裏に国外脱出させる。空港や道路での検問を抜ける際の緊迫の一瞬にもカメラは同行し、命を救う活動の一部始終を収めている。
本作に登場する人々の一部は、フェイスダブルという技術で本来の顔を隠している。彼ら・彼女らの身の安全を保証するため、ディープラーニングによって顔をデジタル加工し、素顔の上から貼り付けている。この地では、性的マイノリティはこのように本来の自分を隠して生きねばならない。本来の自分がバレるということは即、命の危険を意味するのだ。
本作には、ロシアの活動家たちが入手した、チェチェン国内での拷問や殺害映像も含まれる。かなりショッキングな内容なので、観る人は注意してほしい。だが、それは2010年代に起きている現実だ。その映像を観れば、ダブルフェイスによって登場人物を隠さねばならない理由は充分わかるだろう。
2016年以降、チェチェンでは共和国首長ラムザン・カディロフが掲げた「血の浄化」方針のため、国内の性的マイノリティを不当に拘留し、処刑していると言われる。すでに行方不明者が数百人にものぼるとされ、被害の全容がつかめていない。今もチェチェン国内で、数万人の性的マイノリティが命の危険にさらされているという。
「チェチェンにゲイは存在しない」
チェチェン共和国はロシア連邦の一角だが、ウクライナの「非ナチ化」を求めるロシア政府は、このチェチェンでの重大な人権侵害を黙認している。
それどころか、チェチェンのこのような蛮行は、プーチンの価値観を反映しているということを本作は示唆している。
「ゲイ狩り」は、チェチェンの特殊な閉鎖性が要因として本作では語られるが、一方で、ロシア全体の性的マイノリティに対する差別意識も重要な背景だと語る。
プーチンは性的マイノリティに対する差別意識が非常に強い政治家だ。プーチン政権は、2013年に「同性愛の宣伝」を禁止する通称「同性愛宣伝禁止法」を制定している。これは「伝統的な家族観に反する情報」を宣伝・普及することを禁じた法律で、性的マイノリティの活動を抑え込む目的で制定された。2020年には結婚を「男女の結びつき」とする憲法改正を成立させている。
チェチェン共和国の現首長カディロフは、プーチンの支持を受けてその座に据わった人物だ。彼の権力は明白にプーチン政権を後ろ盾にしたもので、その価値観も極めてプーチンに近い。
本作は、ニュース映像を引用する形でカディロフの異様さを映し出す。インタビュアーの質問に、尊大な態度で「チェチェンにゲイは存在しない、そんなことを質問しにきたのか」とのたまう。マッチョイズムと暴力性を煮詰めたようなキャラクター性を全面に押し出し、強いロシアを後ろ盾にした「強いチェチェン」を演出している。
ロシア政府がチェチェンの蛮行を黙認するのは、チェチェン政府がプーチンの意向を受けて樹立されたものであることも理由の1つだろう。
ロシアLGBTネットワークが活動の危機に
今回のプーチンのウクライナ侵攻の最終目標が何か、はっきりしないが、仮にウクライナに親ロシア派の傀儡政権を誕生させることだとすれば、ウクライナの性的マイノリティたちも、チェチェン同様の危機にさらされる可能性があるだろう。
ウクライナも元々、性的マイノリティに寛容な国ではない。本作で、「プーチンは反LGBTの価値観を自分の権力強化に利用している」という指摘が出てくるが、親ロシア派の政権が誕生すれば、その政策はプーチンの価値観に近いものとなることが予想され、性的マイノリティはこれまで以上に暮らしにくくなる可能性が高いだろう。
ウクライナ情勢をめぐる報道の中に、ロシア政府が暗殺リストを作成し、そこには性的マイノリティも含まれるのではないかという報道もあったが、本作を観ると、それもあながち間違いではないのではと思える。
本作は、ロシア政府がチェチェンの「ゲイ狩り」を黙認していることで、連邦の他の地域にもその動きが飛び火していると指摘している。ロシア領内で、前時代的な行為が激しさを増しているのだ。
そういう状況で、本作に登場する「ロシアLGBTネットワーク」が現在、ロシア政府の法的措置によって活動停止の危機を迎えている。ロシア政府は同団体の活動を「伝統的価値観に反する」として憲法違反だと主張し、現在はほぼその活動能力を失っているという。
同団体は、先月からネットでこの措置に対する抗議署名を集めている。
このままでは、チェチェンに残されている性的マイノリティの人々を支援する存在が失われてゆく。戦争の最中、世界各国の経済制裁によって、ロシア国民全体の生活が不安にさらされていることからも、同団体は二重に厳しい立場にあるかもしれない。
本作が見せる現実はあまりにも過酷だが、多くの人にこの現実を認識してもらいたい。現実の、人道に対する罪が収められた貴重な作品だ。