芥川賞作家・李琴峰さんが明かす「“真ん中”に立つ自分が感じる違和感」

『彼岸花が咲く島』で芥川賞を受賞した李琴峰さん。「個人と社会はつながっていて、自分が感じている息苦しさの多くは社会や政治から与えられている」と語る李さんに、言語や国籍など「真ん中」に立つからこそ感じてきた違和感について聞いた。
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中国・漢民族の伝統衣装「漢服」を着る李琴峰さん
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

李琴峰(り・ことみ)さんの『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)が、第165回芥川賞を受賞した。   

李さんは台湾で生まれ育ち、15歳から日本語を学び始めた。2013年に台湾の大学から日本の大学院に進学し、来日。日本語で初めて書いた小説『独舞』(のちに『独り舞』へ改題)が2017年に第60回群像新人文学賞優秀作を受賞し、デビューした。

以来、『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房)、『星月夜』(集英社)などの作品を発表してきた。

日本語を母国語としない作家としては二人目となる芥川賞受賞について、また、言語や国籍など2つの文化を知る「真ん中」の立ち位置だからこそ見える世界について、李琴峰さんに話を聞いた。 

 

本来、文学は誰かと競い合うものではない

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2021年7月、『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)で第165回芥川賞を受賞した李琴峰さん
時事通信社

━━日本語を母国語としない作家の芥川賞受賞は、2008年の楊逸さん以来2人目となりますが、どう感じていますか?

振り返ると、やっぱり不思議な感じはします。日本語は自分の母語ではない。しかも15歳から勉強し始めて、小説が書けるようになり、芥川賞を受賞できるところまできた。人生は何があるかわかりません。

受賞は、素直に嬉しく思っています。ただ、文学は本質的には個人のものであり、他の知り合いの作家たちもみんな仲間だと思っているので、本来は誰かと競い合うものではないという複雑な思いもあります。

受賞するかしないかは運によるところも大きいと思っていて、選考委員が違えば受賞作も変わります。自分の作品にはもちろん自信がありますが、受賞については、運が良かったという側面も否定できないと思いますね。

 

━━受賞会見で「忘れてしまいたい日本語は?」と聞かれ、「美しいニッポン」と答えたことも話題になりました。この言葉は、受賞作のなかでも登場します。李さんに、いまの日本はどう映っていますか?

良いところもあるし、もっと良くできるのではないかと思うところもあります。

例えば、日本はコロナ禍において、権力側が個人の権利を制限する、つまり私権制限をしようとしませんでした。私権制限はハードルが高いと感じられているし、マイナンバーカードが普及しないことからもわかるように、個人情報を日本の人たちはすごく大事にしているんです。それはすごく良いことだと思っています。

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李琴峰さん
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

また、コロナ禍の特別定額給付金や持続化給付金などは、国籍制限を設けていませんでした。国籍ではなく「住民」を対象にしていて、そこに差別は許されないという認識があるということです。台湾でもコロナ給付金のような施策はありましたが、国籍で区別されていて、「あれ?」と思っていました。

一方で、悪いところは、民主主義国家でありながら、政権交代をほとんどしないことです。台湾は民主化以降、ほぼ8年ごとに政権交代していますが、日本では政権交代が稀です。結果的に、保守的な長期政権の緩みが出て、権力構造が柔軟性を失っている部分があるので、いろんな問題につながっていると思います。与党の政治家が女性差別や同性愛差別的な暴言を繰り返すのも、汚職疑惑が頻発するのもその例です。

どの社会、どの国でも問題は抱えていて、綻びはあります。だから、客観的に見てどちらのほうがいいかという問題ではないと考えています。

 

個人を描くためには、社会や政治を描かないといけない

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写真右・第165回芥川賞を受賞した『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

受賞作『彼岸花が咲く島』の舞台は、亜熱帯にある架空の<島>。「ノロ」と呼ばれる指導者の女性たちによって統治され、「ニホン語」「女語(じょご)」、そして「ひのもとことば」の3つの言語が入り混じる。

傷だらけの少女が<島>に流れ着く印象的な描写から、本作は始まる。自分の名前を覚えていなかった少女は、宇実(ウミ)と名付けられた。<島>に生まれ育った女性の游娜(ヨナ)や、男性が本来使ってはいけない「女語」を隠れて話す拓慈(タツ)らと接し、宇実は<島>における人生の歩を進めていくことになった。

小説が進むにつれて、なぜ島では二つの言語が存在するのか、なぜ女性が統治するのかが明らかになっていく。

 

━━本作で描かれる<島>は架空の場所ですが、現実の社会や政治が強く反映されているように感じました。

個人と社会は密接につながっているし、政治の影響も強く受けているので、自分が感じている息苦しさや生きづらさの多くは、社会や政治から与えられています。だから、個人を描くためには社会や政治を描かないといけません。自分に影響を与えているものを見極めて、それを作品のなかで描くということを自分はやっていると思います。

これまで読んだ作品の中では、例えばセクシュアル・マイノリティを描くときにコミュニティを全く描かないような作品があり、それは少し不誠実だなと思いました。 

そこで、個人と、個人を支えるコミュニティ、そして個人に影響を与えている社会や政治の状況も込めて書いたのが『ポラリスが降り注ぐ夜』でした。『彼岸花が咲く島』では架空の島、架空の人、架空の時間をベースとしながら、社会や政治にもアプローチしています。

 

━━構想のきっかけはどんなものでしたか?

デビューした2017年に、デンマークのコペンハーゲンに旅行に行き、クリスチャニアという地域を訪れました。コペンハーゲンにありながら、そこに住む人々は自治権を持っていると主張しています。だから、その地域に一歩足を踏み入れると外の雰囲気とは全く違う感じがあります。そこから出ようとしてアーチの門を見ると、「あなたはいまEUに入ろうとしている」と書いてある。つまり「我々はEUではない」ということですね。

そういう隔絶されているような世界のイメージがおもしろくて、ずっと心のなかに残っていたんですね。時間が経つにつれて、それが変容していきました。

例えば、イギリスの思想家、トマス・モアが書いた『ユートピア』、東洋の理想郷の典型である「桃源郷」といったイメージと結びついて、もしこれを現代日本に、あるいは未来の日本に落とし込もうとしたらどうなるのかと想像を膨らませて、今作のかたちになっていきました。 

 

ユートピアもまた誰かの犠牲のうえに築かれている

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李琴峰さん
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

━━物語の中では<島>を統治する「ノロ」になれるのは女性だけであり、現実の社会が男性優位でジェンダー不平等な状況とは、対照的とも言えます。

起点として、ユートピア的な世界を描きたいという思いがあり、その設定を作っているなかで、自分が「こうなるといいな」と思う部分をいくつか盛り込んでいます。 

とはいえ、ユートピア、理想郷というものはそもそもあり得ない。本作で描いている<島>の現状も、完璧だとは思っていません。

なぜなら、誰かにとってのユートピアは、他の人にとっては必ずしも理想ではない状況があるからです。理想に近づけようとした社会のなかでもほころびが出て、疎外されると感じる人間がいる。拓慈(タツ)という登場人物の存在が証明している通り、ユートピアと思われる世界も、誰かを犠牲にし、排除することによって築かれているので、「それでいいのか」という問いかけにもなっているかなと思っています。

 

━━物語の最後に登場人物たちがとった選択は、ある種の希望のようにも思えました。芥川賞選考委員の一人である吉田修一さんは「作中で未来の可能性について語るときの力強さ、そして可能性という言葉に対する無防備なまでの信頼感が、いつの頃からか曇った目でしか未来を見なくなっていた私の心に、まっすぐに突き刺さってきた」と評していました。

結末は、小説としてある種の必然だと思いますね。宇実は外から来た人間で、宇実が<島>にいる限り、攻め込まれる危険性がありました。だからと言って、游娜は「出て行け」とはもちろん言わない。だって、攻め込まれることは“起こるかどうかもわからないこと”であって、「出て行け」と言うのは、起こるかどうかもわからないことで誰かを排除すること。游娜の性格からして、それをするわけがない。そしてそれと全く同じ論理で、游娜と宇実は拓慈を排除し続けるわけにはいかないのです。

彼女たちの選択は書きましたが、仮に本当に行動したときにどうなるかは私も特に設定もしていないので、読者はそれぞれ自由に想像してもらえると嬉しいです。

 

━━“起こるかどうかもわからないこと”で誰かを排除することは、現実の社会でもよく起こっているように思います。例えば、この6月に閉会した国会ではLGBT新法の法案提出が見送られました。

そうですね。先のことを見越して心配することは必ずしも悪いことではないですが、「同性婚を認めると家族や社会が崩壊する」といったよくわからない心配で、本当に誰かの権利を犠牲にし続けていいのかという思いはあります。

 

「真ん中」の立ち位置だから、書かざるを得ないこと

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李琴峰さん
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

━━以前、ハフポストに寄稿されたエッセイでは、言語や国籍、性別や性的指向における自身の揺らぎに触れ、「真ん中」から見える世界について書かれていました。

自分が「真ん中」の立ち位置だから、書かざるを得ないことがあります。例えば本作や『星月夜』は、本当に自分にしか書けないものだと思うんです。それは言語に対する思考、複数の国の政治的実態を俯瞰的に見るまなざし、国を行き来する実際の体験を持っている人間だからこそ書ける実感です。

根本的に、自分が感じている違和感や生きづらさや問題意識がまずそこに、あるんです。だから例えば、「いまいわゆる“真ん中の人”たちにスポットが当たっているから書いてやろう」と思って書いたわけではありません。自分にとって世界はそういう風に見えるんだということを表現しているのだと思います。

 

━━李さんにとって、ご自身の作品を含め、文学の役割はどんなものだと思われますか?

社会や時代によって大きく違うので、40年前と比べれば文学の影響力が低下していると言わざるを得ません。だから私は楽観的にはなれないです。

そんななかでも私は、社会とのつながり、弱者へのまなざしというものを強く意識していると思います。今まであまり書かれてこなかったものに目がいきますね。そして、それが自分の切実な問題意識であるならばなおさら。「声なき人」の声をすくい上げることをしたいです。 

それがどれくらいアンプリファイ(増幅)できるかはわからないですが、文学を通してすくい上げることが大事だと思っています。

(取材・文:遠藤光太 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)