東京オリンピック・男子シンクロ高飛び込みの金メダルに続き、男子高飛び込みで銅メダルに輝いたイギリスのトム・デーリー選手。
金メダルをとった翌日、デーリー選手は「金メダルが傷つかないよう」自分で編んだ「金メダル入れ」をインスタグラムに投稿し、話題を呼んだ。
しかも、そのインスタグラムのアカウントは「madewithlovebytomdaley」と名付けられた、デーリー選手の「編み物」専用アカウントで、投稿には「この東京オリンピック中、編み物に助けられてメダルをとることができた」というメッセージが添えられていた。
デーリー選手は「編み物から心の平穏を得ている」と明かし、自身の競技が終わってからも観客席で編む姿が度々目撃され、さらに「五輪カーディガン」を完成させるなど「編み物アスリート」ぶりを見せて人気を博している。
檄を飛ばしながらコーチが編み物?
実は過去にもオリンピックで「編み物」が注目された例がある。
ソチオリンピックや平昌オリンピックで男子スノーボードのフィンランド代表、アンティ・コスキネンコーチがスタート直前の選手の横で、激を飛ばしながら編み物をしていたのだ。
当時、ニュースになっていたので覚えている方も多いかもしれない。
アスリートにとって「編み物」、手を動かすことは何か効果があるのだろうか。
編み物が「フロー」「ゾーン」へ導く
日本でも、以前、大相撲の式秀部屋親方の趣味が「ビーズ編み」だということがニュースになり、注目を集めた。
その理由について、式秀親方はインタビューで「(ビーズ編みに)集中してくると、テグスを通すビーズの穴が大きく見えてくるんです。(中略)
相手の力士の狙い目に挑んでいく時に、集中して的が絞れていく感じが、ビーズの小さな穴に通すときと似ていて。一流の選手はこれをやっているのか…と発見でした」と語っている(※)。
※日本ヴォーグ社『毛糸だま』2014年 冬号
式秀親方の話はいわゆる「フロー」や「ゾーン」の話に似ている。
「フロー」とは心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した「リラックスして落ち着きながらも、高い集中力を保っている状態」のことである。
「無我の境地」で何かの行為に「熱中」「没頭」しているその心理状態はスポーツやビジネスなどの場面で語られることが多く、その状態に入ると高いパフォーマンスを発揮できるため、「いかにして『フロー』に入るか」が一つのトピックとなることもある。
キックボクサーの那須川天心なども手芸するアスリートとして知られるが、彼もまた「時間を忘れる」「集中」「没頭」など「フロー」に関わるキーワードを口にしているのだ。
前出のアスリートたちの話からしても、編み物や手芸、ひいては「手を動かすこと」で「フロー」と呼ばれる領域に近づくことがあるのはわかるだろう。
勝負という厳しい場にさらされるスポーツ選手にとって、「フロー」の状態にいられるかどうかは試合内容や結果に直結する大きな問題である。
さらに、その効果は手を動かしている本人だけではなく、周りにまで及ぶことがある。
前出のフィンランド代表コーチの話であるが、あまりに注目が集まったので在日フィンランド大使館が「これは心理カウンセラーの提案で、フィンランド選手団全体のプロジェクト。(中略)選手はスタート時にリラックスしたくてコーチにあの場で編むことを頼んだんだ」とTwitterで発表するに至っている。
「手芸をしている人がいる場では、他の人もリラックスする」という現象は、実際に聞く話ではあるが、オリンピックという大舞台にのぞむ選手から同様の言葉を聞くことができるのは非常に興味深い。
以前、書いた記事で紹介した「怪我で陸上競技を挫折した高校生が編み物をする」漫画『ニッターズハイ!』(猫田ゆかり/KADOKAWA)のタイトルが、陸上選手の「フロー」によく似た心理状態の「ランナーズハイ」をもじったものであることも、上記のことを示唆していると言えよう。
手芸の力は場により、人により、さまざまな形で発揮される。
一見、手のなかで繰り広げられる小さな世界であるが、オリンピックのような国際的な舞台で活躍する選手の心にも響く大きな力を持っているのだ。