アメリカ体操代表のシモーン・バイルス選手が、7月27日の東京オリンピック・体操女子団体決勝で途中棄権し、メンタルヘルスを守ることが理由だったと明かした。
日本ラグビーフットボール選手会長の川村慎氏は、バイルス選手の決断を支持した上で「身体のけがと、心のけがの対応の差がなくなっていくのが一番重要」と訴える。
川村氏は、アスリートのメンタルヘルスを啓発する「よわいはつよいプロジェクト」に取り組んでいる。
同じくメンバーの国立精神・神経医療研究センター小塩靖崇氏と、日本ラグビーフットボール選手会の吉谷吾郎氏に話を聞いた。
「究極の選択になってしまった」
バイルス選手は、アメリカで「もっとも偉大な体操選手」と言われている体操のスーパースター。棄権を表明した試合の後「私は自分のメンタルヘルスに集中し、心と体の健康を危険にさらさないようにしなければなりませんでした」と語った。その後、個人総合も棄権すると表明している。
バイルス選手の告白に対して、小塩氏は「著名選手が自身のメンタルヘルスについてメッセージを出したのは、アスリートだけじゃなく、スポーツ界や一般の人たちにとっても大きな影響」と受け取る。
一方で、オリンピック決勝直前で告白したことに対して「決勝に出るか出ないかという、究極の選択になってしまった」とも指摘。「メンタルヘルスの問題を抱えていたのであれば、本来はもっと前から、本人の心のケアができる環境が十分に整っていたらよかった」と付け加えた。
国際オリンピック委員会(IOC)は今大会、アスリートのメンタルヘルス支援を打ち出している。24時間体制の相談窓口や、トップ選手らに共通して見られるメンタルヘルスの症状などを説明する「ツールキット」を提供している。
小塩氏はこのことに触れ「もしかしたら、こういう支援にアクセスしていたのかもしれません。チームスタッフなどがツールキットを読んでいて、選手のメンタルへルスを守ろうとする環境で、バイルス選手が決断できたのかもしれません」という考えも示した。
棄権に、周囲から支援の表明
バイルス選手の棄権は驚きをもって受け止められたが、チームメイトは本人の決断への支持を表明。アメリカ体操協会や選手たちからも、自身のメンタルヘルスを優先するバイルス選手を尊重する気持ちや支援の表明が相次いでいる。
吉谷氏は、こうした周囲の受け止め方に大きな意味があると感じている。
「身体的な怪我での棄権する場合、誰もが納得し『しょうがない』となる。今回は、メンタルの“けが”を本人が申告し、周りの選手やコーチや環境が、身体的けがと同じように『それなら仕方ない』『当然』となった。他の選手やスポーツに対してものすごく大きな影響があると思います」
「身体のけがと心のけが、対応の差なくす」
バイルス選手は、メンタルヘルスについて発信してきたアスリートの存在が、自身の決断を後押しになったと語っている。
テニスの大坂なおみ選手も6月、同様の理由で全仏オープンを棄権した。日本ラグビーフットボール選手会長の川村氏は、現役アスリートの立場から「それが言える空気感ができているのは非常にありがたい」と歓迎する。
「今まで発言してきたアスリートの活動が積み重なり、フィジカルのけがとメンタルのけが、対応の差がなくなっていくことが重要です」
同時に、メンタル不調の兆候を選手本人や周囲が気づいて、早い段階でケアにつなげていく上で、こんな難しさも感じているという。
「練習中とかトレーニング期間中、ちょっと危ないかもと思っても、怠けているといったような感覚を持ってしまうかもしれません」
「アスリートの感覚として、自分を追い込むことで得られるスキルや高みも間違いなくあると思うので、そことのバランスをどう取るのかは、アスリート自身の課題だと思います」
日本のメンタルヘルス「ケア不十分」
日本のスポーツ界では、メンタルヘルスへの理解が十分に進んでいない。
「よわいはつよい」は、日本ラグビー選手会と国立精神・神経医療研究センターの共同プロジェクトで、この2月にラグビー選手におけるメンタルヘルスの実態調査結果を発表した。
トップリーグの選手251人のうち、調査を実施した直近1カ月の間に、心理的なストレスやうつなどの不調を抱える選手が40%余りいたことが明らかになった。
小塩氏によると、アスリートのメンタルヘルスについて、日本で初めて実施された調査、研究だったという。
「スポーツ界のメンタルヘルスの実態も分かっていない状況なので、ケアも十分に行き渡っていないという状態です」と話す。
ラグビーや他の競技で、一部のチームが専門家を雇ってメンタルケアを取り入れるなど、個別に事例にとどまっているという。
そのため、よわいはつよいプロジェクトでは、データや事例を集めて、広くメンタルヘルスへの理解を進めようとしている。
吉谷氏は「自分らしくいることや、自分が思っていることを外に出すのがわがままではなくて、あなたがつらいならそれはダメだよねという理解が広まっていくといい。それがプロジェクトの目指すことです」と語った。