片膝つく抗議が容認されるまで。オリンピックが“示威行為”を禁じた1952年の出来事

五輪を研究する奈良女子大の石坂友司准教授は「大きな変化。(日本の人たちが)Black Lives Matterに向き合うきっかけになるのでは」と話す。
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オリンピックは歴史上、あらゆる「政治的なデモンスレーション」を排除してきた。 

最も有名な例は、1968年メキシコシティ五輪のブラック・パワー・サリュート。アメリカ代表の黒人選手が、表彰台で拳を突き上げ黒人差別に抗議し、失格・メダル剥奪となった。

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1968年のメキシコシティ五輪のブラック・パワー・サリュート
Bettmann via Getty Images

この東京オリンピックでは、国際オリンピック委員会(IOC)は方針を変え、人種差別に抗議する片膝を立つ行為などが事実上容認された。

競技初日の7月21日以降、サッカーでは試合前、女子のイギリス代表や日本代表選手らが試合前のピッチ上で、膝を立つ行為を実際に行っている。

五輪を研究する奈良女子大の石坂友司准教授は「大きな変化。(日本の人たちが)Black Lives Matterに向き合うきっかけになるのでは」と話す。

オリンピックが「政治性」を排除してきた経緯や、膝をつく行為が解禁されるまでを聞いた。

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7月24日の試合前、膝をつく行為をするイギリス代表の選手と日本代表の選手
Masashi Hara via Getty Images

デモ行為禁止、きっかけは1952年の出来事

——IOCが掲げる「政治的中立」とは何を指しているのでしょうか。

何が政治的中立か明確に定義したいわけではなく、基本的に政治的な行為を持ち込まないように努力をするということです。

何が政治的なのかを1つ1つ区別するのは難しいので、メッセージ性を含んだ行為は基本的にオリンピックに持ち込まない、示威行動をしないということでしょう。

オリンピック憲章50条で「いかなる種類のデモンストレーションも、あるいは政治的、宗教的、人種的プロパガンダも許可されない」と謳われています。基本的に示威的なパフォーマンスをしないという意味で政治的中立性を考えればいいと思います。

ただ、Black Lives Matterなど、人類普遍の価値を脅かす人種差別のような行為に対して行動を起こすべきという議論もあり、IOCも柔軟になっています。

——オリンピック憲章50条はいつ、どんな経緯でできたのでしょうか

「オリンピズムの伝道者」を自称する舛本直文さんの著書『オリンピックは平和の祭典』に経緯が書かれています。

戦後の1952年ヘルシンキ大会の開会式で、乱入したドイツ人女性が平和のメッセージを掲げ、取り押さえられる出来事がありました

東西ドイツの統一や冷戦を終結させ戦争のない社会を求める内容だったようですが、内容が政治的かどうかよりも、IOCがオリンピックに何らかのメッセージがデモ的に出されるのを警戒したことが(デモンストレーション禁止の)きっかけになりました。

この大会はソ連が初めて参加し、東西冷戦下で政治的な緊張が持ち込まれた背景もありました。

アベリー・ブランデージ会長の時代に、デモンストレーションなどの政治的な行為を禁止する文言がIOC憲章に加えられたようです。

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1952年のヘルシンキ大会の開会式に女性が乱入し、平和のメッセージを掲げた。
Keystone-France via Getty Images

膝つく行為禁止⇒容認

——「五輪の政治利用」として、ナチス政権下のベルリン五輪や、モスクワ五輪のボイコットに加えて、メキシコシティ五輪の表彰台でアメリカ代表の黒人選手が拳を突き上げたブラックパワー・サリュートも挙げられます。ブラックパワー・サリュートは今のBlack Lives Matterにつながる行為です。

示威行為自体はペナルティにあたるかもしれませんが、失格やメダル剥奪という厳しい処分、対応に疑問が残ります。アスリートたちはその後、アメリカで指導もできず、苦しい生活を強いられました。

行為に加わったオーストラリア代表の白人選手も、帰国後に強く批判されました。今考えれば、人種差別への抗議は賞賛されるべき行動ですが、白人優位の社会で快く思わない人が多かった。1960年代当時の時代背景が色濃く出た対応だったように思います。

オリンピックでのデモンストレーションは非常に目立つので、象徴的な意味を持ち、効果的になり得ます。

それだけに、デモンストレーションをどこまで認めるかは共通の見解ができづらい。1つを認めると次々に出てしまうので、一律に禁止してきたように思います。

——IOCが東京オリンピックに向けて発表した「Rule 50」では、膝をつくなどの行為を禁止していましたが、その後、試合前後など一定の条件下で容認すると方針を変えました。

今ではサッカーなどで試合開始前に膝をつくシーンを多く目にします。普遍的な価値を脅かす、人種差別に対する抗議行動なので政治的ではないともいえる。現代的な価値観では、そのようなものは示威的行動であっても、誰もが反対するものではなく、理解を得られた範囲でやっていいと思います。

IOCが当初、禁止や処分の方針を出したのは、いろいろなパターンの示威行為が起きるのを警戒したからでしょう。

それを撤回せざるを得なくなったのは、アメリカなどいろいろな国のアスリートから抗議があったことが伺えます。IOC側も人種差別に対する抗議に一定の理解を示したのでしょう。

国や個人をターゲットにしたものでなければ、ルール緩和で多少なりともアピールができるようになった。問題を持ち込ませないという姿勢だったIOCとしてはかなり大きな変化です。

(差別に反対する行為を)処分すること自体がIOCのダメージになる。それで柔軟に舵を切ったのだと思います。

Black Lives Matterに関しては、メキシコシティ五輪と同じような形で表現される可能性がかなり高かった。表彰台はメッセージが出しやすい場所で、多くの人が注目するため、アピールが効果を持ち得ます。パフォーマンスの中身と場所を限定的に容認することで、ある程度コントロールしようとしたということではないでしょうか。 

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メキシコシティ五輪
Keystone-France via Getty Images

スポーツの政治利用とは

——膝をつく仕草や人種平等や社会正義を訴える行為をすると、スポーツに政治的信条を持ち込むべきでないと批判もあがります。「スポーツの政治利用」をどう考えたらいいのでしょう。

日本は戦前、敵を倒すための手段として剣道や柔道が国家に利用された経験があるので、戦後はそれを防ぐための政治的中立が言われてきました。

1964年の東京オリンピックごろまでは「ノーサポート・ノーコントロール」を原則とし、政府はお金を出さない代わりにスポーツ組織を中立に保ちコントロールしない、という方針をとっていました。

1961年に成立したスポーツ振興法は、国が選手に強化費を出すための法的根拠を与える目的だったとも言われています。1964年大会は国家的なイベントで、政府がスポーツ組織に介入し、スポーツの側もそれを受け入れます。こうしてスポーツと政治の関係ができあがった。

一方選手からすると、スポーツの政治的中立はIOC憲章にも書かれていますし、戦後からその方針が続いてきたので、当たり前の感覚です。政治的な発言をしない風潮が歴史的に形成されてきたと思います。

ただ組織として見た場合、会長を政治家が務めるスポーツ競技団体も多く、実態は政治にかなり従属的で全く中立ではありません。

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1964年東京五輪のロゴ
Masashi Hara via Getty Images

——日本のスポーツ界は、スポーツ以外のことを考える機会を提供してこなかったのでしょうか。

日本のスポーツ界は競技ばかりが中心になりがちです。残念ながら、大学などに、勉強のためでなく、スポーツや部活だけをしにくるアスリートもいます。そのような環境では社会に関心を持つことは希薄になりがちです。

社会の中で、アスリートは非常に大きな発信力があります。何かを先導する役割を期待されますが、メッセージを発信する力や意識が身についていないこともある。そういう人材が生み出されやすい仕組みがあります。

もちろん、社会の問題を考え、発言するアスリートも増えています。ですがオリンピックに関して言えば、多くのアスリートは出場してメダルを獲得するのが最大の目的で、オリンピズムのことを理解し、オリンピックの意義をそれほど考えてこなかったのではないかと疑念を抱くことがよくあります。政治的アピールをすべきということではなく、自分たちの意見を持って、場面場面で発信できるのが望ましい。

一方で、スポーツだけでなく、ミュージシャンやタレントが政治や社会のことについて意見を言うと、応援したくないという反応が起きる。日本では、スポーツやエンタメを政治的なものとして見たくないと考え、中立を求める感覚が強い。人種差別への抗議や社会問題にアスリートが関わることが自然と避けられてしまう構造があるように感じます。

日本で膝つく行為、どう受け取るのか

——五輪中に膝を立てる行為が起きた時、日本の人たちがどう受け取るのか、注目される点です。

どうして海外のアスリートが自由な意思表明をできるのか、日本の選手と比べて違いを感じることになりそうです。どこか“遠くの出来事”のように捉えられていたBlack Lives Matterの問題にも向き合うきっかけになるのではないでしょうか。

聖火の最終ランナーに選ばれた大坂なおみ選手にも注目したいです。大坂選手は、差別反対という、積極的に社会を変えるためのメッセージを発してくれているのに、逆に彼女の出自に触れて意見を封殺しようとする差別的な反応が非常に強い。

男性アスリートが同じことを言ったとして、これほど大きなハレーションになったのか。女性であることや彼女の出自に対する差別意識が影響しているように思います。そのような社会は非常に問題です。オリンピックの開催が変わる契機になればと思います。

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最終聖火ランナーに選ばれた大坂なおみ選手
Wally Skalij via Getty Images

アスリートがメッセージを発信することは、局面によっては必要で望ましい。ですがSNSでの誹謗中傷のように、一方的に攻撃される可能性もある。意見を言わないと変わりませんが、現在の社会では、すべてのアスリートが政治的意見を持ち、積極的に表明すべきかということには、慎重にならざるをえない。少しずつ変わっていければいい。

池江璃花子選手に、オリンピックを中止するように発言を求める人たちがいました。アスリートに自分たちが言って欲しいメッセージを言わせようとする雰囲気もあります。それではアスリートも口を開けなくなってしまう。

今大会ではアスリートの気持ちが表明されないことに不満を抱く人が多く見受けられました。難しいかもしれませんが、オリンピック中、あるいはその後に、アスリートたちが自らの口で、オリンピックはどのようなイベントで、開催意義をどう考えていたのか語ってくれることを期待しています。

「私の夢」のためや「国民の皆さんに勇気を与えたい」と言うだけでは、オリンピックをする意義は見出せませんし、この状況下で納得は得られません。オリンピックがオリンピックである由縁は、国籍や文化の差を超え、平和でより良い世界を目指すというオリンピズムにあるからです。

——なぜいまアスリートを応援する必要があるのか。それに応えるメッセージが出てくると、見方が変わるのかもしれません。

アスリートがひたすら競技や夢を追いかけられるという時代ではなくなりつつあります。多くの反対の声がある中で、アスリートがどんなメッセージを発信することができるのか。そこで理解や納得を得られないと、競技を超えたアスリートの価値は高まりません。

選手はみな悩みながらこの場に立っています。葛藤を乗り越えて全力でプレイをする姿を通して、そして競技後の発言を通してメッセージを発信してくれることを期待します。何かしらポジティブなものを受け取りたいと思っています。

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本人提供
石坂友司准教授