神奈川県の三浦半島にある人口約3万3千人の葉山町。
ここに、専業主婦から社長になって、お米から作ったアイスクリームをプロデュースしている女性がいる。きっかけは家族。そして失われそうな棚田文化との出会いだ。アイスがつないだ棚田のネットワークは全国に広がっている。
山口冴希(さき)さん、35歳。
東京都内から、夫(36)と幼い息子3人の一家5人で2015年冬に移住してきた。
きっかけはミュージシャンの夫が心身に不調をきたし、音楽の仕事から離れざるを得なくなったことだった。
失意の中で、気分転換に葉山町を訪れた夫が、相模湾越しに望む富士山の美しさに心を奪われ、すぐに家族で移住を決めた。
天皇一家の「御用邸」があり、クルージングやヨットを楽しむ「お金持ちの町」。そんな葉山のイメージは、暮らしてみるとがらりと変わった。
ゆったりと時間が流れ、子どもがたくさん駆け回っている。観光客でにぎわうビーチから少し入れば、ホタルや野生のキジが見られる里山もある。住人同士の距離が近く、山口さん家族も温かく迎えられた。
赤ん坊をおぶって田んぼへ
まもなく長男が通い始めた幼稚園のパパ友が紹介してくれたのが、自宅から車で10分ほどの上山口地区に残る棚田での米作りだった。
2009年に「にほんの里100選」にも選ばれた上山口地区の棚田は、全部で60枚ほど。このうち、高齢化で持ち主が稲作を放棄しそうになっていた10数枚を、地元の農家片山正徳さん(68)が引き受けて、ボランティア有志とコメ作りを続けていた。
上山口地区の棚田は、奇しくも移住まもない頃に訪れた飲食店から見て、「葉山にこんなところがあるんだ」と感動した場所。山口さん夫妻は運命を感じた。
2016年の春、山口さん一家は、田植え前のあぜの造成に加わった。棚田は形も大きさもさまざまで、機械が入らない狭い場所は手作業に頼るしかない。
くわで泥をこねて、左官が壁を塗るようにあぜに塗りつけていく。現れたサンショウウオやミミズに、都会育ちの子どもたちも大はしゃぎ。一家は初めての体験にのめり込んだ。
片山さんによると、生後半年だった三男をおんぶして田んぼに入る山口さんに、「あの子は誰?若いのに精が出る」と、地元の農家の人たちも驚いていたという。
田植えや除草、刈り入れと、1年を通して米作りに関わった山口さん。地元の農家の人たちとも仲良くなって、野菜を分けてもらったり、梅の実を収穫させてもらったりした。棚田での米作りは確かに重労働だが、多くの人が関わって魅力を知れば、衰退を食い止められるのではと考えるようになった。
棚田の「わくわく」をアイスに
「棚田がくれるわくわくと喜びを、もっと多くの人に知ってほしい」
山口さん夫妻の、新天地での挑戦が始まった。
棚田の景色と農業体験を楽しめる「棚田の宿」を開いたらどうだろう。そこで、おいしいみそ汁の朝食を出そう。お米のスイーツも提供できたらいいね―。
23歳で結婚し、25歳で長男を出産した山口さん。料理が得意で、友人に手料理をふるまうことも好きだったが、移住してくる前は、仕事で多忙な夫を支えながら3人の子育てに追われる日々だった。
「これまで僕が好き勝手やらせてもらった。これからは冴希ちゃんがやりたかったことを、少しずつでも実現させていこうよ」
夫の言葉に背中を押され、カフェの一角などを借りて、週に数回、みそ汁屋を始めた。
さらに、夏向けに、棚田米を使ったアイスクリームを思いついた。
収量の少ない棚田米は、ボランティアの仲間で分配すると1家族あたり30キロほど。ご飯として食べるとすぐになくなるが、甘酒に加工すれば約3000~4000個のカップアイスを作ることができ、より多くの人に棚田のことを知ってもらえる。
「うまい」。友人の言葉が後押し
葉山町は自然派志向の住人が多いと感じていた山口さん。子どもからお年寄りまで食べられるアイスは何か、知恵を絞った。
甘酒はノンアルコールにして、乳製品アレルギーがある人やヴィーガンの人でも口にできるよう、牛乳や卵の代わりにココナッツミルクと豆乳を使った。甘みはきび砂糖で出した。さっぱりしたやさしい甘みのアイスができた。
試作品を、家族ぐるみの付き合いがある友人の眞中やすさん(51)に食べてもらった。眞中さんは、葉山町に隣接する横須賀市の山麓で、自家栽培の無農薬野菜にこだわったオーガニックレストラン「SHOKU-YABO農園」を経営している。
「うまい。うちにも置かせてよ」
お世辞や社交辞令を一切言わない眞中さんの言葉に、自信をつけた。
「すっきりとしていて、すがすがしい香りの余韻が残る味わいに衝撃を受けた」と眞中さんは振り返る。
山口さん夫婦は2018年4月、「葉山アイス」と名付けて売り出した。1個380円(税込)で、売上金から1個につき10円を棚田の振興に還元すると決めた。パッケージの温かい雰囲気のイラストは、眞中さんの紹介で知り合ったアーティストによるものだ。
山口さん夫婦が設立し、冴希さんが社長を務める会社「BEATICE(ビーティス)」は、棚田がくれる「わくわく」を、鼓動の高鳴りを意味する「BEAT」で表現している。
全国の棚田とつながる
2018年秋、全国の棚田の保全と振興を考える「全国棚田サミット」に夫婦で出席したことをきっかけに、「葉山アイス」を知った各地の棚田関係者から「うちの棚田米もアイスに」と声がかかった。
2年ほどで連携は、高知県の嶺北(れいほく)や長野県の姨捨(おばすて)など6地域の棚田に拡大。山口さん夫妻は「高齢化や担い手不足など、全国共通の棚田の課題解決に、自分たちのアイスで貢献したい」と考え、各地の棚田米を使った「棚田アイス」としてシリーズ化することにした。
それまで委託製造していたアイスを自前の工房で作るため、2018年冬にクラウドファンディングを始めると、6日間で200万円以上が集まった。寄付してくれた人にはサミットで知り合った棚田関係者も多く、山口さん夫婦は「思いを託された気持ちがした」という。
2021年中に「棚田アイス」の連携は香川県の小豆島や、福島県の西会津など計11地域に広がる予定だ。
2021年3月には、鎌倉市内の小学校に招かれて、5年生の社会科の授業で棚田アイスの取り組みを紹介した。「棚田でどんな楽しいことができるか」をグループで話し合ってもらうと、「米風呂」「棚田ガチャ」「棚田の香りがするアロマ」「棚田の形をキャラクターにする」など、子供ならではのアイデアが続々と飛び出し、大いに盛り上がった。子どもたちから届いたお礼の手紙を片山さんたちに見せると、喜んでくれたことも収穫だった。
もともと人前で話すのが苦手だったという山口さん。
大勢の前で授業をしたり、メディアの取材を受けたりする今の自分は、「10年前なら考えられない」と話す。移住してくる前は、地域活動も縁遠かった。夫の休業や、移住、アイス作りの取り組みなど、大きな変化に直面するたびに大事にしてきたのは、「どちらがわくわくするか」だという。
「できない理由を探したらたくさんあったと思うけれど、どちらが後悔しないで、わくわくを楽しめるか、それを一番に選んできた結果が、今なのかな」
山口さん夫婦の夢は、アイスを通じて棚田文化と世界をつなぐこと。二人三脚の挑戦はこれからも続く。
「葉山アイス」は公式サイトで通信販売しているほか、葉山町のふるさと納税の返礼品にも選ばれている。