「推しが愛しい」“生きづらさ”から私を救ってくれたのはヴィジュアル系バンドだった

ずっと生きづらさを抱えて生きてきた。でも、ライブハウスで美しいバンドマンに見入る。それは至福のときだった。翌日のヘドバンによる筋肉痛さえ、幸せの余韻と思えた。
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当時、好きだったバンドマンのチェキ
筆者提供

幼い頃からずっと生きづらさを抱えて生きてきた。

なぜ私は他の人と同じようなことができないのだろう。なぜ親は私にこんなにも干渉してくるのだろう。なぜ人とうまくかかわれないのだろう。

地方に生まれ育ち、毎日家と学校の往復で刺激や私の生きる糧となるものはないに等しかった。だから、かなり早い段階から家を出て一人暮らしをして自由を謳歌してみたいと思っていた。早く自立したい気持ちを親に伝えるため、高校時代は毎朝5時半に起きて自分で弁当を作っていた。

 

大学でバンギャルと運命的に出会う

そして私は大学進学のため上京し、念願の一人暮らしを始めた。

中高生の頃からGLAYとSOPHIAが好きで、CDを買ったりラジオを聴いたりしていたものの、そうしたアーティストが宮崎でライブをすることはほとんどなかったので「ライブに行く」という概念自体がなかった。

しかし、大学の入学式の日、運命の出会いが訪れる。隣に座った同じ学科の子が偶然バンギャル(ヴィジュアル系バンドの熱心なファンの総称)だったのだ。

自分で時間割を作成しないといけない大学は高校までとはまったく違い、必須科目なのかどうなのか、4年間のどのタイミングでどの講義を取ればいいのかなどわからないことだらけだったので、シラバスを見ながらその子と相談して時間割を作っていたら自然と仲良くなり、ある日ライブに連れていってもらえることになった。

その時のことは、今でもはっきりと覚えている。

TSUTAYA O-EAST(当時は渋谷O-EAST)で行われた、某ヴィジュアル系事務所主催の大きなライブイベントが私の東京での初ライブとなった(宮崎にいた頃、SOPHIAが47都道府県ライブツアーを行っていたことがあったので、そのとき親に頼み込み、お年玉でチケットを買ってホールライブを観に行ったことはあったが)。

ライブ前「いろんな格好のバンギャルがいたりノリが激しかったりするからびっくりしないでね」と、その友人からは言われていた。

その友人の言葉通り、フロアにはいろんなバンギャルたちがいた。バンドマンほどではないが派手で露出の多いセクシーな服を着ていたり、バンドマンのコスプレをしていたりするファンもいて、激しい曲ではヘッドバンギングをして盛り上がっていた。

ステージ上では濃いメイクを施し、ド派手な衣装を纏ったヴィジュアル系バンドマンたちが演奏を披露している。私が初めてみるキラキラとした世界だった。知らないバンドだらけだったが、気づいたら私も他のバンギャルたちと同じようにヘッドバンギングをして、曲に合わせてぴょんぴょんとジャンプをしていた。

 

「推しが愛しい」。遅れてきた青春時代

しばらくは友人に付き合ってもらってライブに通っていたが、慣れてくると一人でもライブに行くようになった。

本命(一番好きなバンドのこと)のバンドができ、そのバンドのライブを、できる限り全通(行われるライブに全て参加すること)に近い形で行くようになった。大阪や名古屋、仙台などのツアーには、交通費の安い夜行バスに乗って行った。

中高時代、ずっと抑制された生活だったのが一変し、ヴィジュアル系バンドは私に遅れた青春をもたらしてくれた。推しが愛しい。その溢れんばかりの気持ちを抱いて好きなバンドに通った。

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ライブでの戦利品。ギターのピックやリストバンド
筆者提供

いろんなバンドのライブを見ているうちに、ドマイナーバンドと呼ばれる、ほとんどお客さんのいない駆け出しバンドの存在を知ることになり、私はそのマイナーバンドマンとの距離の近さに夢中になった。

マイナーバンドマンはスタッフがついていないことも多く、ライブ終了後は物販にバンドマン本人が出てきて接客してくれる。人気のあるバンドはインストアイベントのサイン会などでしかお近づきになれないが、(最近ではライブ後に撮影会があることも多い)マイナーバンドはチケット代だけでバンドマンと接触できる。

そんなマイナーバンドのライブに通っている他のバンギャルたちもまた、私のように生きづらさを抱えてバンドに居場所を求めてきている子たちが多かった。中には複雑な家庭環境でお小遣いがもらえず、今でいう「パパ活」をしていたり、18歳以下であるにもかかわらずキャバクラや風俗で働いている子もいた。みんな、心のどこかに闇を抱えていたのだ。 

 

ヘドバンの痛みすら幸せの余韻

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当時のプリクラ
筆者提供

首都圏近辺に住むバンギャルたちはライブの機会が多いため、中高生でもライブに行っていた。しかし、私は地方出身の遅咲きのバンギャル。中高生の中に大学生の私が混ざっていることから常連の子たちからはお姉さん扱いされていたが、裏ではババア扱いをされていたことを知るのは少し先になってからだった。

だけど、ライブハウスは常に非日常で輝いていて、好きなバンドの演奏を観たり、バンドマンたちと接したりしているときは日常のつらいことを忘れさせてくれた。

私はバンギャル用語で言う「暴れギャ」だった。おとなしく棒立ちでステージを観ている人もいるが、私は激しくヘッドバンギングをしたりモッシュをしたり、逆ダイブ(ステージに向かってジャンプして飛んでいく行為)をして、とにかく暴れるバンギャルだった。

暴れて、そして時折ヘドバンを止めて、美しいバンドマンに見入る。それは至福のときだった。暴れた翌日は必ずズキズキとした痛みがやってきて筋肉痛になる。それすら幸せの余韻と思えた。

そんな私の少し歪曲した青春のバンギャル活動について、初のエッセイ『生きづらさにまみれて』(晶文社)で詳しくしたためている。今、コロナ禍でライブを開催しづらい状況になっているが、好きなバンドのライブ配信動画などを見ていることから、私は今でもバンギャルと言ってもいいだろう。

また、今まで付き合ってきた人のほとんどがバンドマンであり、現在、結婚を前提にお付き合いをしている彼氏もバンドマンである。もう、バンドマンしか愛せない体質になってしまった。

生きづらかった私を救ってくれたのは紛れもない、ヴィジュアル系バンドだ。私はこれからもヴィジュアル系バンドと共に人生を歩んでいくのだと思う。

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姫野桂『生きづらさにまみれて』(晶文社)

(文:姫野桂 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)