新しい家族を迎えたい――。
関東地方の30代女性は2年前、人工授精のために不妊治療クリニックに行った。
夫の精液検査で、医師から「精子がいなかった」と告げられた。無精子症だと分かった。
「一度もその可能性を考えたことがありませんでした」
待合室で、女性は涙を必死にこらえた。
特別養子縁組も考えた。でも夫は、女性が妊娠、出産することを望んだ。
そこで選択肢にあがったのは、他人から精子の提供を受けることだった。
日本では精子提供による非配偶者間人工授精(AID)が長く行われているが、日本産科婦人科学会は会告で、「提供者のプライバシー保護」のため、「提供者は匿名」との見解を示している。
AIDの場合、生まれた子どもが、遺伝上のつながりのある提供者(ドナー)の情報を得る「出自を知る権利」は守れない。
かといって、女性は知人男性から精子提供を受けることにも抵抗があった。
悩んでいた頃、デンマークの精子バンク「クリオス・インターナショナル」が日本でも事業を始めたことを知った。
女性がクリオスに特に惹かれたのが、「身元開示」のドナーを選択できることだった。
身元開示のドナーであれば、生まれた子どもは18歳になると、希望すればドナーの氏名や生年月日などドナー個人を特定できる情報にアクセスできる。
国内でも有償・無償で精子提供する団体やマッチングサイトが多数あるが、クリオスのように「身元開示」のドナーを選べる精子バンクはほぼない。
「精子提供で生まれたことを秘密にし続ける方が、子どもにとって幸せだ」とする考えは社会で根強い。
でも女性は、子どもに隠そうとは思わなかったという。
「自分が親からしてもらったように、子どもには選択肢を与え、自分自身のことを決断できる力を身につけてほしい。だから子どもが望んだ時に、ドナーを知ることができるようにしてあげたいんです」
提供精子の場合、生まれる子と夫は遺伝上のつながりがないことになる。
夫は「ドナーを選ぶことで親としての責任を持ちたい」という強い思いがあり、クリオスを利用することが2人にとって最善だと感じた。
クリオスなら、提携先の病院で人工授精だけでなく体外受精や顕微授精も可能であることも魅力だった。
気がかりだったのは、ドナーの人種だ。
クリオスに登録している日本人ドナーは当時1人で、匿名だった。身元開示をする欧州系のドナー提供で生まれた場合、子どもは将来「見た目の違和感」を抱くかもしれない...
不安に感じたが、海外のドナーから精子提供を受け、子育てをしている別の夫婦の幸せそうな家族写真を見たことで、背中を押された。
ある欧州系ドナーの幼少期の写真から、どことなく夫の面影を感じられたため、夫と話し合いそのドナーに決めた。顕微授精を行い、4回目の移植で着床した。女性は現在妊娠9カ月だ。
親のサポートが必要
日本には、出自を知る権利を保障する法律はない。AIDを行う夫婦にはこれまで、医師側からは子どもに真実告知をしないことが推奨されてきた。
一方、AIDで生まれた当事者が、成人した後に親の離婚や病気などをきっかけに突然出生の真実を知らされ、アイデンティティーの喪失に苦しむことがある。大人になった当事者らが、「出自を知る権利」の保障を求めて声を上げたことで、近年問題が認識されるようになった。
オーストラリア・ヴィクトリア州やドイツ、ニュージーランドなど、海外では出自を知る権利を法的に保障する動きも進んでいる。
女性は、国内で精子提供を受ける際に、子どもの出自を知る権利を担保できない現状に「一番の当事者である子どものためにも、仕組みを整えてほしい」と訴える。
その上で、親へのサポートの重要性も感じているという。
身元開示のドナーを選んだとしても、子どもがドナーの情報にアクセスするためには、親から子どもへの出生の告知が前提になるからだ。
自身の体験をSNSで発信している女性のもとには、告知をすることで家族関係が壊れるのではと恐れ、「子どもには真実を伝えない」と決めている夫婦の声も数多く届くという。
「告知しようと親が思えるよう、精神面で専門的なサポートを受けられることも大切です。親をケアすることが、結果として子どもを守ることにもつながるのではないでしょうか」
7割が「身元開示」
クリオス・インターナショナルは、2019年3月に日本語窓口を開設。これまでに国内で150人超がクリオスから精子を購入した。利用者は、ドナーの人種、髪の毛や瞳の色、血液型などの情報をもとに選ぶ。
利用者別では、シングル女性が約半数を占め、無精子症のカップルは約3割、残りの1〜2割がレズビアンカップルだ。
日本事業を担当する伊藤ひろみさんによると、利用者のうち7割が身元開示のドナーを選んだ。
「事前の説明会で、精子提供で生まれた事実を告げることの大切さや、出自を知る権利の保障を訴える子どもたちの存在を伝えています。最終的に選択するのは利用する本人たちですが、子の権利を保障できる精子提供へのニーズが高まっていると感じます」(伊藤さん)
生まれる子どもの立場を最大限尊重しようとする動きも始まっている。
無精子症と診断された夫婦らの自助グループ「すまいる親の会」は、精子提供を検討するカップルに対し、AIDで生まれた当事者や親になった人たちから思いや体験を聞く勉強会を開いている。
事務局の清水清美さんは、「告知をすることで悪い結果になると思い込んでいたカップルが、生まれた子どもやAIDを選択した親の話を直接聞くことで、告知を前向きに捉えるようになる傾向があります」と話す。
ドナーが減少...公的機関の仕組みづくりを
ただ、無精子症の夫婦などが精子提供を選ぶことは困難になってきている。
朝日新聞デジタルによると、AIDを実施する医療施設は全国でもわずか7施設。
国内でAIDを最も多く行なってきた慶應大学病院は2018年、ドナー数が減少したことから、提供を希望する夫婦の新規受付を中止した。
ドナー減少の背景には、病院側がドナーの同意書に、生まれた子が情報開示を求める訴えを起こし、裁判所が訴えを認めた場合、開示する可能性があるとの内容を明記したことがある。
一方で、SNSなどを通じて個人間で精子のやり取りをするケースも相次いで確認され、感染症のリスクやトラブルの恐れが指摘されている。
清水さんは精子提供をめぐる国内の現状を「無法地帯」とみる。
「公的機関がドナーの確保や個人情報の管理を担う仕組みを早急に整え、生まれる子の権利を重視したうえで、提供精子を必要とするカップルが国内で治療を受けられるようにするべきです」と訴える。
(國崎万智@machiruda0702/ハフポスト日本版)
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