この記事は対談の後編です。(前編はこちら)
「愛国心」を盾に、権力に不都合な人間を政治の場から排除する仕組みが出来上がる。
香港で実施される選挙制度改革のことだ。選挙に立候補する人を事前に「愛国者」かどうか調べ、条件を満たさない人間はふるい落すことができる。
自分たちと違う人間は「愛国者」じゃないから批判すべきだー。香港のように制度化まではされていなくても、「愛国」という言葉は世界中で都合よく使われている。
前編では、日本と香港にルーツを持ち、香港事情に詳しいフリーライターの伯川星矢(はくがわ・せいや)さんと、ネット右翼やアメリカのQアノン(※)に対する考察を重ねてきた批評家の藤田直哉さんが「政府を批判する」という行為と「愛国」の関係を考えた。
ここからは、愛国の定義をどう決めるか、そして異なる「愛国心」を持つ人たちとどうコミュニケーションを取るべきかを話し合っていく。
※Qアノン...アメリカのインターネット掲示板発祥の陰謀論。アメリカの民主党や財政界などは『闇の政府』に支配されており、それと闘う英雄がトランプ前大統領だとする。2021年1月の連邦議会襲撃事件にも信奉者が参加していたことが分かっている。日本国内のQアノン信奉者を『Jアノン』と呼ぶこともある。
誰が、どのように「愛国」か否かを決めるのか。日本では在日マイノリティに対するヘイトスピーチの現場でも日の丸や旭日旗が出現する。自分は愛国者だと自認していれば本当に愛国なのだろうか。
伯川星矢さん(以下、伯川):
後付けで評価されることもあります。自分は愛国だと思って行動して、その場は認められなくても、100年後や1000年後は評価が変わっているかもしれない。
ナチスの軍隊は(政権を握っていた)当時は愛国者であり英雄でしたが、敗戦後そうではなくなりました。政権にとってうまく利用される場合もよくありますので、安易に『愛国』と口に出さず、心の中に秘めておく矜持はあるのかなと。
藤田直哉さん(以下、藤田):
自分の主観で決められるかどうかはなかなか本質的な問題。例えば『日本のため』と思って暗殺やテロをすることが、本当に日本のためになるかといえば、それはそうではない。『革命無罪』もそうですが、主観に従った結果、国全体に悪いことが起きた例はいっぱいあるわけです。
Qアノンだって、彼らは真剣にアメリカを救うために連邦議会を襲撃していたわけです。Jアノンだって中国共産党や韓国から日本を守ると言っています。
しかし、『愛国だから』『革命のためだから』無罪だというロジックは歴史的に危ない。心情を否定するわけではないけれど、「愛国だ」と自分が思ったり、自称したりすることを免罪符に使ってはいけない。
一方で公共心というか、今はもう世界はグローバルにつながりあっていますから、世界全体の持続可能性を望む意味での、その一部の愛国心みたいなものはあるだろうし、愛着のような愛国心は持ってもいいと思います。
正当化の道具に使いさえしなければ、認めざるを得ないかなという気もしています。
では『日本の国益に資するかどうか』という考え方はできないだろうか。野党やマスコミがネットで「反日」と批判されるロジックの1つに、政権を批判することで政策の実行スピードを鈍化させているというものがある。批判の格好で足を引っ張っているというわけだ。
藤田:
神がいて、どの行動がどのくらいプラスかマイナスを生むかを数値化できて分かっていればそれは言えますが、現実には分かりません。「日本の国益に資するかどうか」を究極的に判断する基準はないわけですよ。
未来がどんな社会制度になるべきか、どんなイデオロギーがいいかは分かりません。共産主義を信じる人は共産主義で日本が良くなると思っていますし、資本主義を進めたい人もまたそうです。
未来は読めなくて、我々の知性や理性は限定的だから先のことはわからない。だから色々な可能性を認めてもいいことにしよう、お互いに行き過ぎたものにならないしよう、『こうしたらいいんじゃないか』と世論に委ねよう、ということが民主主義の仕組み。
これまでと違う制度や価値観に変わっていくことを前提にしているわけだから、批判や異論そのものが国益に反するわけではないんですよ。もちろん、無益でバカげた批判も多いですが。
伯川:
国益と愛国はむしろ繋がっていないと思います。
自分にとってそもそも国は、行政や立法の力を預けた管理機関であると思っています。払った税金を分配してくれ、サービスをちゃんと提供してくれる人たちです。
そういう人たちは権力を持っています。その人たちが『これは国益だ』と言っても、その中に私利私欲があるかもしれない。
外から見て問題があるから声を上げているわけです。『国益だから愛国』ではなく、ちゃんと声を挙げている人こそが愛国者だと思います。声を上げず沈黙している人は政権と同じ立場で、内部で不正があっても共犯者になってしまいます。
外から見て問題があるから声を上げる。だから反日と呼ばれることもあるのですが、日本も民主主義社会なので政策に問題があれば意見を提示します。政府がそれを見なければ、こっちは権利を与えて税金も払っているのに、じゃあ誰のための国家なんだろうと思ったりもします。
藤田:
批判が来る方がいいんです。国家をプラットフォーム事業と考えると、ユーザーが意見をくれたら改善に使えますから。どこに問題があるかいちいち自分たちから調べなくても、ユーザーが勝手にデータを上げてくれるから楽です。
そして使い勝手も良くなりユーザーの幸福度もあがる。それが民主主義のいいところな気がします。例えば中央集権的・独裁的なやり方だったソビエトなどは、製品の品質が良くなくて幸福度が低かったわけですよね。
民主主義と資本主義の利点はこの分散処理にあったわけですが、AIやビッグデータ時代になったので、民主主義的なやり方じゃなく独裁や権威主義の方が意外とうまくいくのではという国際世論が出てきていますよね。
伯川:
そちらの方が大多数の意見を吸い込めるかもしれませんね。
ただ限界ももちろんあって、例えば中国では、沿岸部の富裕層はともかく農村の人たちの意見が果たして吸い上げられているかは不透明です。それでも幸福と言えるか。自分はそうは思いません。
藤田:
元々は抑圧や弾圧された人が声を挙げられるようにして、不当な目にあったり放置されたりする人をいないようにできるのが民主主義の大きなメリットですよね。報道の自由や表現の自由も、そのために重要なわけです。
何かを「なかったこと」に出来てしまうと、どれほど残虐なことが起こるのかは、歴史的に明らかです。
広東語には「鶏同鴨講」という言葉がある。鶏と鴨は違う生き物であり、話が噛み合わないという比喩だ。日本のネット右翼やアメリカのQアノンたちとの対話も似たような状況ではないだろうか。この状況をどう克服すれば良いだろうか。
伯川:
ともに歩み寄るしかないのかと思っています。論破してもただ敵対が続くだけです。
だからといって下手下手で、今の西洋諸国がかつて中国にしたように『下手に出ていればなんとかなるだろう』では向こうもいい気になるだけ。
お互い目標に向けて歩み寄らないと何も始まらないと思っています。
例えば中国(大陸)と香港は膠着状態です。お互い何か変わらない限りこれは続くと思います。日本国内も似たような状況かなと思います。お互いの共通点を見つけて一緒に歩む方法を取らないと平行線で終わってしまうと思います。
藤田:
深い意味での対話や、お互いを理解する努力が基本的には必要です。
(中国については)グローバリゼーションや西洋中心のシステムを押し付けすぎたことに、疑問を持つのは理解できます。植民地主義や帝国主義の頃のヨーロッパの残虐さは、それはそれで酷いものでした。しかし今のヨーロッパは反省した。そのような、ポストコロニアリズム(※)、ポスト帝国主義に基づいたグローバルなシステムと、中国のシステムとは折衷できるはず。
中国も外の価値観を理解しないといけない。統治のために必要なことはありますが、グローバルな時代に必要なもう一段階上の文明、土地や歴史を引き受けつつ、それだけに縛られない、お互いの価値観を混ぜあったもう1段階上の普遍性を作り出さないといけない時期に来ているんだろうなと。
それを生み出すための対話や理解、世界の認識や価値観という根本的なシステムの部分、OSの違いをお互いが互換できるソフトやアプリを作らないといけないと思います。ネット右翼やQアノンたちだってそうだと思います。
※ポストコロニアリズム...かつての西洋を中心とする国家のコロニアリズム(植民地主義)に対する反省を踏まえた批判的な思想など。
伯川:
これだけは言っておきたい、ということがあります。
愛国者になる条件は何か考えまして、自分が大切だなと思ったのは、自分自身の歴史や、歴史の中で起きた功績や罪、長所や短所も理解した上でやっと愛国者なのかなと思います。
そういう意味では、自分は香港でも、日本においても愛国者じゃないかもしれない。ただ良くなってほしいという思いも、同時にこのままじゃダメだという批判的な発想も持ち続けられています。その点において最低限のラインはクリアしたのかなと思っています。
日本だから・香港だから盲目的に全てが正しいと決して思わないようにしたい。自分も香港に関するウェブページを運営していますが、第2次世界大戦の日本の香港占領期のことを書くと「反日か」と言われます。
この対談でも一歩間違えると自分が叩かれる部分もあるんですけど、それも承知で、長所・短所全て愛してやっとあなたも愛国と自称できるかもしれないと。そこはどうしてもいいたかったんです。
藤田:
欠点や悪いところを認めるのは大事です。
パブリック・ディプロマシー(広報文化外交)の研究者・渡辺靖(慶應義塾大学教授)が『メタ・ソフトパワー』という概念を唱えています。
『ソフトパワー』は、自国のことを好きになってもらったり、共感を呼んだりして国際世論でも有利な位置を得る方法ですが、重要なのは『メタ(高次)』だと言うんです。
今はグローバルな情報やネットワークの影響力が顕在化し、一元的な情報やイメージの管理が難しくなっています。つまり、我々はリテラシーがあってプロパガンダ(思想宣伝)もすぐ見抜くし、嘘は嘘とある程度は分かるわけです。フェイクニュースやデマに惑わされるときも多いですが。
だから、露骨なプロパガンダをするとむしろ自分たちの評判を下げる。だから今は現実を意図的に隠蔽し都合よく脚色することは時代遅れで、自分を批判できる器の大きさや自制力、透明力や対応力こそが国際的な評価を得て尊敬されパワーとなって、国際的な世論には有利だというんです。
僕もネット世代だからそう思います。
徳の高い振る舞いをすることで、国家は世界的に認められて信用されて愛されるようになり、それが大きな国益になる。だから批判や問題点を指摘することこそが愛国になると思います。
プロフィール:
藤田直哉さん1983年生まれ。批評家。日本映画大学准教授。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』、『シン・ゴジラ論』(いずれも作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)などがある。河出新書から『シン・エヴァンゲリオン論』を刊行予定。伯川星矢さん
1992年生まれ。香港人の父親と日本人の母親の元に生まれ、香港で生まれ育つ。18歳で来日し獨協大学外国語学部・交流文化学科を卒業。フリーライターとして香港をテーマに執筆するほか、メディアやイベントにも出演する。
共著に「香港バリケードー若者はなぜ立ち上がったのか」(明石書店)「香港危機の深層 「逃亡犯条例」改正問題と「一国二制度」のゆくえ」(東京外国語大学出版会)など。