日本を「寿司の国」と表現することは「差別」なのか?「寿司の国」出身の1人として考えた

この問題には、ふたつの論点があると思う。ひとつは「日本を『寿司の国』と表現することは差別なのか」。そして、もうひとつは「選手の出身地にわざわざ触れる必要があったのか」だ。
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イメージ写真
Geri Lavrov/Getty Images

ドイツのサッカークラブ、ハノーファー96で活動する日本代表DFの室屋成選手が、思わぬトラブルに巻き込まれた。

3月上旬の試合で、室屋選手がここぞという決定機を逃したときのこと。衛星放送「Sky」のレポーターであるダールマン氏が、「これがドイツでの初ゴールになるはずだったのに。(彼が)最後に決めたゴールは寿司の国でだった」とコメントしたのだ。

この発言に対し、一部のファンから「差別的だ」という批判の声があがった。しかしダールマン氏は自身のインスタグラムで、「日本を寿司の国と呼んだら人種差別? 冗談だろ?」と投稿。さらなる批判を呼び、結局番組を降板するに至った。

さて、日本を「寿司の国」と表現することは、「差別」なのだろうか? 

 

日本を「寿司の国」と表現したリポーターが番組降板

ダールマン氏はその後、繰り返し「差別的な意図はない」と発言し、インスタグラムには箸で寿司を食べる写真とともに、「寿司を肯定し、差別を否定する」というコメントも投稿している。

室屋選手が在籍するハノーファーも発言を問題視しないことを表明したし、ドイツ国内でも「別に差別じゃないでしょ」と疑問を呈している人も多い(そもそもこの件は、全国的なニュースにまではなっていない)。

しかしながら結果、「寿司の国」発言がきっかけで、ダールマン氏は番組を降板することになったのだ。

というわけで、「寿司の国」出身で現ドイツ在住者のひとりとして、この件について少し考えてみたい。

この問題には、ふたつの論点があると思う。ひとつは、「日本を『寿司の国』と表現することは差別なのか」。もうひとつは、「選手の出身地にわざわざ触れる必要があったのか」だ。

 

「どの表現ならOKか」の線引きは難しい

まず、日本を「寿司の国」と表現することについて。

この発言が問題になったわけだが、これを「差別」だという人は、ごくごく少数だと思う。

事実、

「海外でsushiが認知されているのはうれしい」

「なにが失礼なの?」

といった日本人からのコメントも見かけた。

わたし自身、「うん、まぁお寿司は有名だし、おいしいもんね。ドイツにもsushiレストランはどこにでもあるから、日本=寿司のイメージは理解できるよ」というスタンスである。

だからダールマン氏自身も、「人種差別なんて冗談だろ?」と苦笑い(困惑?)したのだろう。「ノルウェーのフィヨルドと同じく、寿司は日本の代名詞(なので、ネガティブな意味ではない)」だと釈明している。 

それでも彼は、番組を降板することになった。それはなぜか。

それは、「寿司の国」を容認してしまうと、「ではどういう表現までならOKなのか」という、むずかしい線引きを要求されるからではないだろうか。

ドイツを「ソーセージの国」、インドを「カレーの国」、メキシコを「タコスの国」と表現することに、悪意を感じる人はほとんどいないだろう。

でも、たとえば韓国を「キムチの国」と表現することは、差別に当たる可能性がある。キムチはおいしいし、日本ではどのスーパーでも買えるほど普及しているものではあるが、独特の匂いがあることから、「侮蔑」と感じる人もいるのだ。

「寿司の国」を「差別ではない」と言い切ったとしたら、では「長時間労働の国」は? 「地震が多い国」は? という話になる。そうすれば、火種を残す可能性が高い。

「寿司の国」が差別かどうかは別として、番組は、「特定の国に対してそういった表現を使う人を起用するのはリスキー」という判断を下したのではないかと思う。

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室屋成選手
Stuart Franklin/Getty Images

「ドイツ人相手ならそんなことは言わない。だから差別」という理論

ふたつめの論点は、「選手の出身地にわざわざ触れる必要があったのか」。

文脈上、ダールマン氏は室屋選手の出身国について触れたわけではない。室屋選手が最後にゴールを決めたのは日本だった、そしてそれを「寿司の国」と表現した、というだけだ。

しかし室屋選手が日本人である以上、「彼のルーツに触れた」と受け取られる可能性はおおいにある。

日本では海外出身のタレントをイジったり、「ハーフモデル」と持てはやしたりするからイメージしづらいかもしれないが、そもそも「不必要に他人のルーツに触れること」自体、ドイツではNGになりつつある。

たとえば、

「どこ出身? 両親は何人(なにじん)?」

という何気ない質問でも、

「両親はトルコ人だけどトルコには行ったことがない、自分はドイツ人だ」

「国籍はドイツでも両親がトルコ系で母語はドイツ語とトルコ語、母国はふたつある」

という人もいる。

ドイツではさまざまなルーツを持った人たちが暮らしているから、「なぜそれを聞くの? 聞いてどうしたいの? もしや差別?」という懸念を抱かれる可能性があるのだ。

「わたしの両親がドイツ人だったらそんな質問しなかったでしょ? 生まれも育ちもドイツなのに『どこ出身?』だなんて質問、見た目で差別している証拠」

「もう30年もドイツに住んでいるのに、ドイツ語が流暢じゃないからって『いつからドイツに住んでいるの』なんて、バカにされた気分だ」 

相手のルーツに触れることで、ドイツではこう思われるかもしれない。だから、不必要に相手のルーツには触れないのが暗黙の了解である。

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ドイツ・ハノーバーで行われたサッカーDFBカップ2回戦の試合前にハドルを組むハノーファー96の選手たち=2020年12月23日
時事通信社

とくに、室屋選手はサッカーの実力を見込まれてドイツにやってきた。国籍やルーツではなく、実力勝負の世界で結果を出したことを買われたのだ。

それなのに彼の出身国である日本に触れることは、「ドイツ人相手ならそんなこと言わなかった。だから差別」という主張につながりかねない(彼の出身に言及したわけではなくとも)。

そういった批判を回避するためにも、わざわざ彼の出身地である日本に言及する必要はなかったと思う。触れるとしても、ただ「日本」と表現するだけでよかったのだ。

 

不必要に相手のルーツに触れることは差別につながる

ちなみにわたしも、留学していたときやドイツ語がおぼつかなかった頃は、話のきっかけに「どこから来たの? いつからいるの? ドイツはどう?」なんてよく聞かれてた。

しかし、ある程度ドイツ語が話せてドイツ人と結婚したいまとなっては、そういった質問をされることはまったくない。

よく話すご近所さんはわたしの出身地を知らないし、今後聞いてくることもないだろう。

なぜならわたしはすでにドイツに腰を落ち着けているから、わたしのルーツに触れるということは、「外国人扱いした」として余計なトラブルを招く可能性があるからだ。わたし自身が「聞かれても気にしない」というスタンスであったとしても。

もしかしたらそれを聞いて、「えぇ……それすらアウトなの? 面倒くさいわぁ」と思う人もいるかもしれない。

でも、あくまで例え話ではあるが、女性に年齢を聞くことを想像すると、少しはイメージしやすいんじゃないだろうか。

日常会話の中で、女性に対して面と向かって「何歳ですか」と聞くことはあまりないだろう。聞いたところでどうなるものでもないし、相手の気分を害すかもしれない。だから聞かない。たとえ相手が「年齢を聞かれても気にしないよ」というタイプでも、わざわざ聞く必要はない。

同列に語るものではないが、女性に年齢を聞くのと同様、相手のルーツに触れるのはリスクなのだ。

もちろん、制度上の区別として、ドイツ国籍の有無や滞在歴をたずねる場合はある。しかし必要でないのならば、相手のルーツには不要に触れないほうが無難なのだ。

 

差別を生み出す可能性があるものを排除する時代 

複雑なルーツをもつスポーツ選手やアーティストは、国籍やアイデンティティについて問われると、十中八九「わたしはわたし」と答える。

「どの国出身か、どんな見た目か、言語レベルがどれくらいか、ではなく、自分自身を見てほしい、見るべきだ」という主張は、このご時世スタンダードになりつつあるのだ。

「差別」というと、特定の国や属性をもった人々を、悪意をもって貶めるイメージが強いだろう。

日本人をメガネザルのように描写したり、「ジャップ」と呼んだり、「短足寸胴」だとからかったり……。

しかしいまは、わかりやすい「攻撃」のみならず、差別を引き起こす種を蒔くこと自体が、すでに「悪」と判断されるご時世なのだ。

日本を「寿司の国」と表現したことが「差別」かどうかは別として、今後もその種の発言でトラブルを招く可能性が高いと判断されたら、番組を降板させられる。それが現実だ。

わたしたちはきっと、「なにが差別か」を考える段階から、「なにが差別を生み出すか」を考える段階に入っているのだと思う。

(文:雨宮紫苑)