「人殺し」「国の手先」と言われながら…。福島・飯舘村「異色」元村長の10年【東日本大震災】

放射能で不安な住民の気持ちに寄り添うことと、科学的判断とはどう両立するのだろうか。そして、政治家として「まちを守る」こととは?退任した飯舘村の菅野典雄元村長に聞いた。

福島第一原発事故で、全村避難となった福島県飯舘村。村は、一つの地区を残して既に避難指示が解除されている。

震災当時から村を率いてきた菅野典雄元村長は、2020年秋に退任した。酪農家から公民館長を経て、6期24年、村の顔として働いてきた。

最後の大きな仕事は、国との交渉で、放射性物質を取り除く除染を完了せずに、最後の避難地区を解除する道筋をつけたことだった。これまでの国の方針を大きく転換させた。

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飯舘村の菅野典雄元村長
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

周囲との合併もせず、人口6000人の小さな村を守ってきた菅野元村長は、国策である原発事故で、甚大な被害を受けた自治体の中で、震災当初から「異色」の存在だった。

例えば、自治体と国との交渉の場でのこと。「国が全て元通りにすべきだ」と激しく迫る他の自治体の首長たちの中で、「国と同じ方向を向きたい」と言い続けていた。

この原稿の筆者は当時、新聞記者として現場で取材し、そんな交渉現場を毎日のように目の当たりにしていた。原発事故の被災地は、もちろん国策による「被害者」だ。「元に戻せ」と要求するのは当然の権利だ。

だけれども…。政治家として本当の意味でまちを守るとは、一体どういうことなのだろうか。放射性物質で不安な住民の気持ちに寄り添うことと、科学的な判断を支持して政策を実行することは、どう両立するのだろうか…。いつもそう考えさせられた。

10年の節目にもう一度、元村長にインタビューして、改めて振り返ってみたいと思った。

独自の立場を続けた背景には、放射性物質に対するリスク判断を、専門家の助言も得て村独自で決断してきたこと。そして、国に対しても原発事故の加害者・被害者という関係性を持ち出さず村民にとって一番良い解を求め「実を取る」という方針を固めていたことがあったという。

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飯舘村が全村避難の対象になると決まったのは、2011年4月11日。

村は原発から北西30〜40キロ離れているが、放射性物質が大量放出された3月15日の風向きのせいで、村の放射線量が高いことが後になってわかったためだ。

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福島県飯舘村で、計画的避難のために村を離れる住民に声をかける菅野典雄村長(左) 撮影日:2011年05月15日(肩書きは当時)
時事通信社

避難指示は出たが、村のほとんどは立ち入り制限の対象にはならなかった。菅野村長は、工場と介護施設の村内での運営を続ける方針を出した。

また、村民がまとまって避難する先として隣接する福島市内の場所を探し、「2年で帰宅する」ことを掲げた。そして、2011年末にいち早くまとめた除染計画では、モデル除染の結果を元に、村が目指す放射線量を国基準(年間の積算線量で1ミリシーベルト)より高めの値(5ミリシーベルト)に設定した。

除染を国基準で進めると、村への帰還まで10年以上かかる見通しだったからだ。

専門家の見解は「がんで亡くなる人が明らかに増えるのは100ミリシーベルト以上。20ミリシーベルト以下なら問題はない」。村は、国より少し高い基準を目指しても、20ミリを大きく下回ることには変わりはないと方針を固めた。

全ては、村民の生活や仕事への影響を最小限に食い止めて、将来的に村に戻ってきやすくしたいという思いからだった。

しかし、それらの方針は「もっと遠く、少しでも放射線量が低い場所に避難したい」「ほかの自治体は1ミリなのに、なぜ5ミリなのか」」と村民の反発を招いた。それ以上に、報道などで知った全国の人々からの批判を受けることになる。

避難先は、村から車で1時間以内の場所で探しました。当時は、仕事を辞める人を1人でも減らしたい。たまには爺ちゃん婆ちゃんの顔を見られるような距離を保ちたいという理由。

それが後になって、すごく大事なことだったとわかりました。除染のこと、損害賠償のこと、避難区域の見直しのこと、復興計画、ありとあらゆることについて、村民と直接、顔を突き合わせた会合が何度もできた。本音の話ができたし、提案もした。文句もくる。でも、その関係をずっと作ってきました。

でもバッシングはもう酷かったですよ。「人殺し」「村長は村民をモルモットにしている」「東京電力から金をもらっているのか」とか。でも村のために一番いいのは何か、考えただけです。放射性物質への危険性を過大に評価して、全てを捨て、遠くに避難することだけが果たして良いことなのか。

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飯舘村に届いたメールの記録から。「一人で実験動物になってください」とある
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

飯舘村は、2011年の9月から放射性物質についての正確なリスク情報を共有して話し合う「リスクコミュニケーション」を掲げ、住民との対話集会を始めた。

しかし、そもそも政府の避難指示が出たのが震災から1カ月後と遅かったことで、当初から住民たちの不信感は強かった。村との会合では、除染基準が高いことへの危険性を、泣きながら訴える村民の姿があり、怒号が飛び交うこともあった。

「リスクコミュニケーション」を村で行う必要があると考えたのは、噴火の影響で全村避難を経験した、三宅島の元村長に2011年7月に来てもらった時。火山ガスのリスクについて、住民と一緒に勉強する機会を何度も作って、それで帰村宣言の際には60%ほどが戻ったということでした。

「この程度まで線量が下がれば大丈夫」とどれだけ説明しても、「元の放射線量まで完全に元に戻らなければ、危険だ」という考えを変えない人はいました。新型コロナでも同じですが、全員の人の危険性に対する感じ方が変わるということはない。けれど、ある程度の知識を入れて、納得できる点を探りました。それで今の村があります。

だから、これからのことを考えると、日本中すべてが、放射能についてもっと勉強するべきだと思います。「正しく怖がる」ということを完全に理解する。いい悪いは別にして、原子力発電所はまだこの国にあります。だから、原発のことや放射能のことを、高校の科学で教えるべきではないでしょうか?そうすれば、万が一、次の事故があったとしても、10年前よりもっときちんとした対応ができるはずです。

国連科学委員会は2021年3月9日、原発事故によって、福島県民の被ばくによるがんの増加はなく、今後も増加の可能性は低いとの評価を発表した。

当時、国側で除染の基準を定めていた細野豪志環境相(当時)は、最近出版した著書「東電福島原発事故自己調査報告で「実は、年間1ミリシーベルト(国が設定した除染の基準)という基準自体が極めてあいまいな根拠に基づいたものだった」「帰還の遅れを招いた面があった」とし、低く設定した除染の基準が復興の遅れにつながったとの反省の弁を述べている。最初から低すぎる懸念があったのに、1ミリとした理由は、福島県からの強い要望があったことだったという。

バッシングを受けながらも、国よりも高い基準を独自に設定し、除染を進めてきた元村長は何を思うのか。

やっぱり、その時にきちんとした勉強をして、信念をもってやれるかやれないかだろうと思います。後からではなく、緊急時のその時に、リーダーシップの考え方が問われる時代に入っているんだろうという気がします。

私が最初に話を聞いたのは、福島県放射線リスクアドバイザー(当時)の高村昇さんと山下俊一さんでした。当時、山下さんは発言が非難されて全国から非難轟々でしたが…。

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東京電力福島第1原子力発電所事故の放射線による健康への影響を検討する国際会議を終え、記者会見する福島県立医科大学の山下俊一副学長(左から3人目) 撮影日:2011年09月12日(肩書きは当時)
時事通信社

それに加えて、信頼していた新聞社の科学記者からもらった手紙も大いに参考にしました。はっきりと「こうしなさい」と書いてあったわけではない。でも、「何もせず今の放射線量のまま住んでいて、もしがんが増えるとしても、10年間で5人から6人。それと、村の6000人全員が避難するのと、どちらがリスクが大きいのでしょうか」という問いかけ。結論は一目瞭然でした。

その手紙を私は必死になって読んだんです。沿岸部の病院から避難した大勢の人が亡くなった。高齢者を避難させることの危険性は、知っていました。

除染の基準だけではない。

例えば、村に、汚染された廃棄物の仮設焼却炉を設置して村外からの汚染廃棄物を引き受けたこともあった。どこの自治体も、他所の廃棄物を引き受けたくはない。全国で初めての受け入れだった。その代わり、国は、避難して解体が必要になった村の家屋の解体を引き受けた。

また、最も放射線量が高く、村でただ一つだけ避難が続いている長泥地区では、除染した土を畑などで再利用する国の実証実験を受け入れた。

国の除染計画では、長泥地区内の除染は一部だけしか行われず、避難も解除されないことになっていた。しかし、実証実験の受け入れと引き換えに、国は、地区内で除染と避難解除を進める面積を広げた。それが、帰還への道筋になった。 

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飯舘村の長泥地区で進める除染土を利用した試験栽培について説明を受ける住民ら 撮影日:2020年10月06日
時事通信社

 「国と同じ方向を向く」と公言する菅野元村長のこうした「取り引き」は、国と対決する姿勢を取ることが多かった他の自治体と、一線を画していた。

除染が必要な帰還困難区域を抱え、国に除染を要望し続けている他の自治体からは、足並みを揃えない村独自の要望に批判もあった。

それでも、退任までその方針は曲げなかった。

「自分のところの大変さだけを思っていていいのか?」ということです。震災になって、国からも他の自治体からも、多くの応援をもらったりなんだりしているわけだから、そこに思いを致すということが必要だろうと。

除染で出た土は、(原発の敷地に隣接する)大熊町と双葉町の中間貯蔵施設にいったん持って行って、30年後に県外に搬出して最終処分するのが国との約束です。しかし、こんな量を、あと30年後に他所に持っていくということが、現実にできるのでしょうか。少しでも減らさなくてはならない。そのために再利用できるか実証実験をしてコンパクトにしておく必要がある。そのきっかけを作るということは大事だなと。

ひとりの人間として考えました。基本的には村のためなんだけれども、結果的には中間貯蔵施設に運ぶ土が少しでも少なくなれば、それはいいことだし、国だって助かるはずじゃないか、と。 

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飯舘村・今も村で唯一の「帰還困難区域」として避難が続く長泥地区(左)と、村内に仮置きされた除染による土
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

基本的には、いかに村民のために実をとるか、ということ。正論を言う被害者だけの視点にならない。国といい提案を出し合っていくしかないんです。「妥協案」というと聞こえが悪いですが、折り合いをつけるということで前に進むというのが、やっぱり私の原点ですよ。

「損をして得をとれ」という言葉がいいかどうかはわからないけれど、やっぱり村民のためにいかに多くの実をとるか。政治家としては、それがすべてだということです。なんぼ理想を高く掲げて、国に正論をぶつけていたって、事業が前に進まなければ何にもならない。

今評価されなくても、後で評価されればいい。私は、お墓に入ってから評価されればいいと思っているんです。

飯舘村は、自然に恵まれ、豊かな田園風景が広がる村だ。

菅野元村長は、「スローライフ」を、地元の言葉で言い換えた「までいライフ」を掲げ、成長ではなく成熟社会を目指すとして、市町村合併もせずに村が自立できる道を探っていた。

ほとんどの地区で避難は解除されたが、震災前に6000人いた人口は、今1500人ほど。村は今後どのようになるのだろうか。「までいな村」のコンセプトは今の村にとってどんな意味があるのだろうか。最後に聞いた。

「までいな村づくり」は、田舎の小さい村の生き残り戦略だと思っていたんだけれど、そうではなく、今後の日本の20、30年のありようじゃないかと、この震災で思うようになりました。

「田舎の良さというのは何だろう?」と思うと、効率で言ったら、都会には敵わない。お金でもまったく追いつくわけではない。それとは違う発想があるということが、田舎や地方に住んでいる人の良さだろう、と思うんです。

原発事故が起きたというのは、「イケイケどんどん」で、日本がまだまだ成長するということを目指した結果です。コンビニも24時間営業で、便利ですよね。でも、それには全部電気が必要になってくるわけです。

もっと便利になりたい、もっと豊かになりたいと、どんどん近代化をして街を明るくしていったら、綺麗な星が見えなくなった。地球は温暖化した。それが次世代に残すべき姿でしょうか?だから「までいライフ」なんです。原発事故で、本当は日本が一番学ばなきゃならなかったはずのことです。

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飯舘村の菅野典雄元村長
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

「復興で、村は何を目指しますか?」と必ず聞かれました。「できるだけ人口を増やす、とか、産業振興をする」と思いますか?違うんです。

「心を分け合う」ということがなかったら、今後はことが進まないと私は思う。それは、までいライフの延長線上にある。「国と同じ方向を向いてきた」「村民と一緒に勉強して、話し合いを重ねてきた」のも同じです。

村の人口は、1500人になった。これまでは100軒ほどの家の共同作業で様々なことをしてきました。それを、30軒くらいでやらないといけない。その中でどうやってやっていくか。

理想的な姿を目指す発想では、できません。心を分け合って、できることを目指すということ。心のシェアが必要なんです。

それがこれから村が目指していくべき「までいライフ」だと思います。