「マイボトルを使おう!」だなんて手垢のついた言葉を、あらたまって綴る意味はあるんだろうか。
…正味そう思っていたのですが、書きたい理由ができてしまいました。
大学のキャンパスで漠然と感じた「環境を慮る=“意識高い系”」という雰囲気が、ほんの数年で世界的ムーブメントになるという激動。「飲み物を自分でこしらえる」という些細な習慣が、自分の価値観の根本に語りかけ始めた驚き。
プラゴミが出ないとか、ちょっぴり節約になるとか、そういう利点は(大切だけど)一旦隅に置いたとして、僕たちが小さなボトルで持ち運んでいるのは、飲み物だけではない気がしはじめたのです。
「環境がそろそろマジでヤバいらしい」
「マイボトルが欲しい」と思いたったのは今から約3年前、大学2年生(20歳)の冬頃に遡る。
「お弁当と部活のお供に」と巨大な水筒にお茶を注いだ高校生活は、大学生にもなると一転。金銭的にも生活様式的にも少しばかり自由度が増したことに味を占めた僕は、通学中にコンビニでコーヒーを買い、昼になるとキャンパス内のカフェでコーヒーを買い、帰路にてこれまた水やらお茶やらを買うという習慣がすっかり身についていた。
こうして振り返ってみると「流石に身の丈に合わぬ経済活動をしてたな」と苦笑してしまうけれど、気付かずにそういうことをしているのが人間であります。
そんな折、キャンパス内で「環境がそろそろマジでヤバいらしい」という声を耳にする頻度が増え始める。
外国語学部に所属していたこともあり、周囲には世界の風向きに敏感な人が多かった。そういった人たちを「意識高い系」として一笑に伏す人も少なからずいたし、キャンパスを出たアルバイト先で、ひと回り先輩の世代に「気候変動が」と口を開けば「Z世代っぽいねぇ」と流されることもあった。
ところが、事態はもう少し深刻らしい。
温暖化により崩れていく生態系の実態や、日本が排出しているプラごみの量など、どんどんと可視化されていく情報を前に、講義やディスカッションのクラスなどでは、先生の口からもその話題が日に日に出始める。そんなキャンパス内の“意識高い系”な雰囲気にかぶれた僕が、洗い易さや匂い付着の有無を調べたのちに吟味して買ったのが、今日も愛用しているこのボトル(左)だ。
「意識高い=イケてる」時代の到来
その後、環境保護へのアクションを目標に含む「SDGs」という言葉が身近になり、スウェーデンのティーネイジャーが火付け役となって温暖化対策を求める世界的なムーブメントが起きたりと、世界に新たな風がびゅうびゅうと吹き込んだ。
小声で囁かれていた「環境がそろそろマジでヤバイらしい」という“噂”は少しずつ鮮明なものになり、世界の隅々、とまでは言わずとも、かなり広い範囲に浸透した。ファッション業界をはじめ、多くの企業やメディアが舵を切り始めたこともあってか、環境を意識した暮らしを「意識高い系」として一蹴した冷笑も、少しずつ「イケてるね」という応援や鼓舞の声に変わってきているように思う。
そんな社会の風を背に、マイボトルの立ち位置もちょっくら変わってきた。今やマイボトルが会話をもたらす場面は、カフェやコンビニコーヒーの購入時に限ったことではない。社交の場や仕事付き合いでのぎこちない世間話、緊張で言葉に詰まる面接でも「マイボトルですか!良いですね」という何気ない言葉が、会話に素朴ながら素敵な花を咲かせることがある。
環境を慮ることは、もう「意識高い系」とラベリングをされて敬遠される一過性のトレンドではなく「これからずっとのスタンダード」になったのだ。
「楽しい」の先に感じた「美しい消費」
…と、まぁ大層な書き方をしてしまったけれど、世間の雰囲気がどうこうという以前に、僕がこうもマイボトルを気に入っているのには、単純に「楽しいから」という理由がある。そして、その喜びはいつしか、生活の根幹に据えた価値観に静かな天変地異を起こし始めたのだ。
選び抜いたボトルに好きな飲み物を選んで注ぎ入れるという営み1つにも、僕はえらく魅せられている。果実や生姜をえっちらおっちら準備して、それらを細かく刻んでお気に入りの紅茶に入れる。ポトポトと音を立てて嵩を増していくコーヒーの芳しさも譲れない。
そりゃ添加物や製造過程に目を瞑れば美味しい飲み物なんていくらでもあるけれど、忙しない世の中では、ちょっとくらい“のろま”な時間があってもいい。初めはむずむずと足踏みをしてしまったけれど、一度慣れてしまえば手間も一興だ。
それともう1つ、自分の口に運ぶものに凝ってみることは「人生の舵を自分で取るぞ!」という主体性にも、いつの間にか繋がっていたりする。この変化には自分でも驚いた。
「舵を取る」とはつまり「責任を取る」ということでもあって、あらゆるベクトルで自分の生活に責任を持つことに、美しさに似た何かを感じ始めたのだ(まさか自分にそんな日が来るとは…あんぐり!)
その美意識が色濃く出るのが「お買い物」。自分が手を伸ばす商品の背景にあるものに、いつからか強い関心を寄せていた。
これってどこで作られた商品なんだろう?
企業は環境や人権問題に取り組んでいる?
社内のジェンダー平等は進んでいる?
作り手にフェアな報酬は支払われている?
お気に入りの服に袖を通すと心が踊るように、お気に入りのペンで綴る言葉がどことなく凛とするように、お気に入りのマイボトルにこしらえた飲み物を口に含むと、いわゆる「サステナビリティ」への意識が体に染み渡る。
そして、その美意識はいつしか「イケてる消費者になろう」という自分の中での目標にもなった。自分が何を買い、何を買わないか。それはどうしてか。きちんと調べ、きちんと選ぶということを積み重ねる。
この目標設定は、なかなか完全無欠とはいっていないことも正直に白状したい。お財布やスケジュールと相談した挙句、「イケてる消費者」になりきれない時もあるのが現状だ。その都度、反省だけはちゃんとしなくちゃと思っているのだけど…(今晩は久しくお惣菜弁当に頼ってしまいました…夜遅くに値引きシールとか貼ってあるとつい...)。
マイボトルからは新時代が香っている
「SDGsとはなんぞや?」と初めて関連の本を開いた時、そこには「SDGsの入り口はどこでもいい」と記されていた。
あの時は「それってそれぞれの専門分野だけに偏っちゃうんじゃない?」と首を傾げていたけれど、社会課題は往々にして点と点でつながっているという構図がおぼろげながらも見えてきた今、その言葉が少しずつ腑に落ちている。
例えば、僕がマイボトルをきっかけに関心を寄せたプラごみ問題(目標14)ひとつとっても、その実情を探ってみると「過剰生産」や「ロス」という言葉に出会う(目標2,12)。そこで「物作りの労働環境はどんなものなのだろう?」と調べてみると、そこには貧困(目標1)やジェンダー平等(目標5)という課題が根を張っていたりする。そして貧困の原因には教育格差(目標4)や福祉面での課題(目標10)があり...といった感じで社会は繋がっている。目標番号を暗記する必要はないのだけど。
はじめは「環境を慮るって、なんかイケてるじゃん」と格好から入って買ってみたマイボトルだったけれど、それこそが、僕にとって新時代(エポック)を考える入り口の1つになったのだ。
少しドラマチックな言い方をすれば、僕たちがボトルに入れて持ち歩いているのは、飲み物だけではなく、新時代の礎となる価値観の欠片なのではないだろうか?
「個人の行動でどうにかなる問題じゃないでしょ」と煙たがられることもあるかもしれないけれど、企業や国際機関などの大きな傘と、その中で個人が繰り返す小さな選択が足踏みを揃えた時に初めて、社会課題へのアプローチはより力を発揮するものだ。
時代の転機を生きる1人の当事者として、この細やかな哲学を貫いていきたいと思う。草の根のエポックメイカーにも、きっと力はあるはずだ。