伝承が難しい災害、どうすれば? 三陸津波の歴史を伝え続ける「リアス・アーク美術館」副館長に聞く【東日本大震災】

サイクルが長期間のため、伝承が難しい津波災害。例えば、お祭りのような地元の文化的な行事に落とし込むことで、防災・減災につなげることができるのではないか。
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宮城県気仙沼市にあるリアス・アーク美術館副館長/学芸員の山内宏泰さん
撮影:鈴木省一

未曽有の大災害といわれる東日本大震災だが、津波に関していえば、三陸地方を大津波が襲ったのは初めてのことではない。1896(明治29)年に三陸大海嘯(※)、1933(昭和8)年に三陸大津波が発生。それぞれ約2万2000人、約3,000人の犠牲者が出ている。

さらに古い記録によれば、1611(慶長16)年から、1896年までに少なくとも6回の津波が襲来。約40年に一度の頻度で三陸地方は大津波に襲われてきたことになる。

※海嘯(かいしょう)とは、河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象。昭和初期までは、地震による津波も海嘯と呼ばれていた。

その被害の歴史を伝えようと、東日本大震災の前から警鐘を鳴らしてきたのが、リアス・アーク美術館(宮城県気仙沼市)だ。震災からわずか2年後の2013年4月には、「東日本大震災の記録と津波の災害史」と題した常設展示もスタートしている。 

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リアス・アーク美術館「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示
撮影:鈴木省一

「東日本大震災を表現するにあたって、未曽有という表現は適切とは言えない。なぜなら、三陸沿岸部において、同様の津波被害は頻繁に繰り返されてきたからである」「同じ被害を繰り返さないために、全て必然と考えた方がいい。津波の被害には物理的な根拠がある」など、展示が伝えるメッセージは鋭く、私たちの心に刺さるものばかりだ。

リアス・アーク美術館は2006年にも明治大津波に関する展覧会を開催している。さらに2008年には、現副館長/学芸員の山内宏泰さんがその明治大津波の被害を克明に描いた小説『砂の城』を出版。

震災以前から、なぜこのような取り組みを続けてきたのか。山内さんに話を聞いた。

 

明治大津波を記録したとの偶然の出合い

宮城県石巻市で生まれ育った山内さんは、小学生の頃「宮城県沖地震」(1978年)を経験しており、また「チリ地震津波」(1960年)を経験した担任が毎年初夏になると繰り返しその怖さを語っていたことを記憶しているという。

その後、リアス・アーク美術館への就職を機に気仙沼市に移住。視察で訪れた唐桑町が運営する唐桑半島ビジターセンターで、偶然、明治大津波を記録した“絵”を見つける。

津波に巻き込まれながら、子どもを片手に必死に木にしがみつく男性、風呂桶ごと流される女性などが描かれた古い絵だ。出典等の説明はなかったが、山内さんは直感的に「似たような絵がほかにもあるのではないか」と思ったという。

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『風俗画報』
撮影:鈴木省一
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『風俗画報』
撮影:鈴木省一

後に、それが明治時代の雑誌『風俗画報』の一部で、大船渡市立博物館が所有していることがわかる。

75点ほどの図版をもとに、2006年、同美術館で特別企画展「描かれた惨状~風俗画報に見る三陸大海嘯の実態~」を開催した。当時、国の研究機関によって99%の確率で30年以内に大津波がくると公式発表されていたが、来館者は1000人超。山内さんは、さらに明治大津波を描いた小説『砂の城』を出版し、2011年3月、遂にあの日を迎える。 

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「東日本大震災の記録と津波の災害史」の展示物。「気仙沼魚市場の屋根の下にある時計、3‎時33分で止まってだね。(中略)気仙沼では、最大波が上がったのはその時間なんだね。俺はね、2時46分でなくて、3時33分に黙とうすんだよね。気仙沼ではその時間に亡くなった人が一番多いはずだからね」
撮影:鈴木省一

同館の常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」では、自身も被災した学芸員らが発災後2年間にわたって調査・収集した被災物が展示されている。それぞれ持ち主の言葉と思われるキャプションがついているが、実はすべてフィクションだ。 

いつ誰が見ても、その悲しみや恐怖を普遍的に想起することができるように、このような表現手法をとったという。

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「東日本大震災の記録と津波の災害史」の展示物
撮影:鈴木省一

津波から人々を守り、文化として定着させるには?

「いずれ『砂の城』の続編を書きたいと思っています。次は未来を舞台にして、復興後の町の行く末を書きたいなと。おそらく良い結果にはなっていないでしょう。私は自然と戦うという発想をそもそもやめましょう、とずっと訴えてきました。自然と喧嘩して勝てるわけがない。そんなことは本当に身をもって思い知らされていますから」 

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リアス・アーク美術館副館長/学芸員の山内宏泰さん
撮影:鈴木省一

山内さんは気仙沼市が抱える問題について、こう切り出した。

現在、沿岸部で建設が進んでいる防潮堤だ。気仙沼市内では復興事業の一環で、計104カ所の防潮堤計画が進む。ただし、住民との協議の末、建設を見送った地区もある。防潮堤の整備については、賛否があり、地元の分断を生んだとも言われている。

「10年前が過去最大規模の津波ではなく、今後もっと大きい津波がくるでしょう。現在建設中の11m級の防潮堤でさえ、津波が超えることを前提に作られています。

でも、名前が“防潮堤”で、さらにその向こうに街を再建してしまっているので、世の中ではあれは津波を防ぐものだと思われています。違うんですよ。一時的な直撃波と浸水を食い止め、1分1秒でも長く避難する時間を稼ぐために作っているので、根本的に津波を防ぐものではないんです」

防潮堤の目的が正しく伝承されないことで、また同じ被害を繰り返すのではないか。山内さんはそう懸念する。

「私たち日本人は時代が変わっても、米や味噌、醤油が好きですよね。それは我々の文化だからです。

一方で、数十年しかもたないものは、俗にサブカルチャーと言われますが、それも繰り返していくことで、ひとつの文化として定着していくことになります。そうして伝承されていくものが文化です。一過性ではなく、常に必要だと認められたものが文化になっていきます」

「津波災害はどうしてもサイクルが長期間のため、防災の必要性が薄れやすく、なかなか伝承がうまくいきません。だとすれば、別の必要性を生み出すしかない。

例えば、お祭りに昇華するのはどうでしょう。

年に1回、海から身体に泥を塗った大人が子どもたちを襲う。捕まると泥だらけになるから、高台に逃げる。そのとき老人や小さな子をちゃんと一緒に連れていかなければいけない。それを毎年お祭りとして繰り返していけば、いざ津波が来たときは、お祭りと全く同じことをすればいいだけです」

このように文化的な行事の中に落とし込んでいくことで必要性を生み出すことができるのでは、と提唱する。実は日本にはそうした目的で始まったと思われるお祭りが少なからずあるそうだ。

伝統文化を守るだけではなく、それを生み出す権利も私たちはもっている。 

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リアス・アーク美術館の内観
撮影:鈴木省一

リアス・アーク美術館は今年、東日本大震災から10年後の被災地を記録した展覧会を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により延期になった。

現在、2022年の開催に向けて取材や調査活動を続けており、いずれ地域の人たちがこの町の10年間の変化を見つめながら、あらためて振り返ることができる機会をつくりたいと考えているという。

未知の感染症と闘いながら始まる次の10年。日本ではこれからも大きな災害が起きるだろう。明日かもしれないそのときのために、私たちはいま何ができるだろうか。

(取材・文:杉本有紀 編集:毛谷村真木/ハフポスト)

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撮影:鈴木省一