「どうしてフツーのことができないの?」
「もっとフツーにしてなさい!」
「フツーじゃないとダメでしょ」
漫画家・イラストレーターの細川貂々(てんてん)さんは、日々の生活で周りから「フツー」を求められ、社会にうまく適応できないことに「私がダメ人間だからだ」と感じていたそうだ。冒頭の言葉は、『空気が読めなくても それでいい。非定型発達のトリセツ』(細川貂々、水島広子著/創元社)のはじめに描写されている。
ベストセラー『ツレがうつになりまして。』(幻冬舎)でも知られる貂々さんは、この本によって「面倒見の良い妻」「健気な妻」とのイメージを持たれたことに戸惑いを持ちながら、自らの「非定型発達」の特性と付き合ってきた。
精神科医の水島広子さんによれば、「非定型発達」とは、脳の発達の特性に凸凹があるタイプの人々を指す。社会生活に支障をきたす場合は「発達障害」となるが、「障害」とは言えない程度の「非定型」の人々が社会には存在しているという。
近年では「非定型発達」のほか、「発達障害グレーゾーン」、「AS」「ADH」(※1)などのさまざまな表現で、狭間にいる人々の存在が知られてきている。
(※1)本田秀夫著『発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち』(SB新書)より。「ASD(自閉スペクトラム症、アスペルガー症候群)」「ADHD(注意欠如、多動症)」から、「Disorder(障害)」を除いて「AS」「ADH」と表現したもの。
もし「自分も非定型発達かもしれない」と思ったとき、私たちはどう考え、行動することができるのだろうか? 周りに「非定型発達」の人がいるとき、どのように付き合っていけばいいのだろうか? そして「フツー」という掴みどころのない概念をどう捉えたらいいのだろうか? 細川貂々さんと水島広子さんに、話を聞いた。
「普通でないなら、もう漫画家はやっていけない」
「最初は自分が普通だと思っていたので、びっくりしました。それで、普通でないならもう漫画家はやっていけないんじゃないか、読者が共感できるものを描けないんじゃないかと思いました」(貂々さん)
「非定型発達」は、精神科医の水島さんから貂々さんへの指摘だった。2人は共著を通して出会い、4年来の付き合いである。
「昔は『発達障害』しかなかったのですが、『障害』という言葉が持つネガティブなイメージは強いですし、みんなを『発達障害』と呼ぶのは正確ではないと思います。そもそも脳の発達の偏りであって、治るものではありません。
『障害』とつかない『非定型発達』と表したほうが正確で、見通しをつけやすいと思います。もちろん、障害年金や福祉の制度を利用するときには『障害』という概念を用いることで正当性が出てきますが」(水島さん)
世の中は「定型用」にできている
世の中は「定型用」にできている。例えば、非定型の人は「衝撃に弱い」特徴があるため、大小さまざまな衝撃があふれる日常生活は、それだけで疲れやすいのだと水島さんは言う。
「私も日々、衝撃を受けてばっかりです。うちの家族は、突然背後にいたりするんですよ。それでしょっちゅう大声で叫んでます」(貂々さん)
「真面目」「空気が読めない」「嘘がつけない」なども非定型の特徴だ。
「非定型の人の目線で1日生きると、疲れるんですよね。衝撃はもちろん、なんだかよくわからないルールの中に放り出されるようなもので、常に脳を動かすことになるので。
そう考えると、やっとの思いで1日生きているという人も多いことがよくわかります。臨床では、患者さんに『あなたは酸素の薄いところで頑張っているのだから』と声をかけることもあります」(水島さん)
しかし「定型」と「非定型」に違いはあっても、優劣があるわけではない。非定型から見えるのは、定型とは異なる景色だ。
「非定型から定型を見ると、ぎょっとする人たちなんですよね。いわゆる『要領がいい』や『空気を読む』というのは、必要なときに嘘をついたりルールを破ったり、計算して動いたりするということです。非定型の人たちにとっては、その『計算』がわからないのです。
それゆえに、『計算しない』非定型の人には人間として信頼できる部分があります。例えば、『洗濯物畳んで』というときちんと畳んでくれる。畳んだものを片付けることはしないかもしれないけれど、とにかく畳んでくれる。非定型の特徴を一つひとつ見ていくと、『嘘をつかない』『ルールを守る』『裏表がない』など、いわゆる『美徳』と言われるものなんです」(水島さん)
1人の人間には無理なことを要求してしまっていないか?
非定型の人々は、しばしば人間関係の悩みに直面する。貂々さんもまた、「ツレ(夫)からは『ちょっと前の君はひどすぎた』と言われるほど、以前は相手を追い詰めるようなことを言っていたらしいです」と打ち明ける。
水島さんが専門とする「対人関係療法」は、現在進行形の対人関係と、症状や気持ちとの関連に注目する。ここでは、「重要な他者」という概念が用いられる。
「対人関係は、ストレスのもとになる一方で、自分を癒すものにもなります。
身近にいるいろいろな人が『重要な他者』と呼べます。例えば以前出版した『夫婦・パートナー関係も それでいい。』(創元社)のなかでは、『私、世の中で一番夫が嫌い』という人が実際に存在していて、貂々さんが驚いていました。
重要な影響を与えうる他者だとしても、大切な人とは呼べない関係性も多いので、『重要な他者』が正確なのだと思います」(水島さん)
同書のなかでは、1対1のパートナー関係に閉じるのではなく、「甘いものを一緒に食べにいくのはこの人」「失恋したときに話を聞いてもらうのはこの人」というように、複数の人たちと文化を共有して「パートナーズ」を形成することが提唱されている。
「継続的な関係を築いていくために、パートナーとしての要素を1人の人に求めるのをあきらめていくプロセスです。やっぱり合わないところは合わないし、趣味が違うところは違うし、一番重要だけれども、完全にぺったりとした『1対1』の関係は難しい。
対人関係療法では『役割期待』という言葉を使います。相手にストレスを感じるのは、何かの期待が満たされていないからです。『じゃあ自分は相手にどういう役割を期待しているんだろう』と振り返ると、『1人の人間にはとても無理なことを要求してしまっていないか?』と気づくのです。
そこで『パートナーズ』と捉えて、『この話はこの人』『この分野はあの人』と人間関係を広げていくことが大切になります」(水島さん)
親と子もまた、互いに「重要な他者」である。水島さんは著書の『「毒親」の正体―精神科医の診察室から―』(新潮新書)などで親子関係についても記してきた。
「いわゆる『毒親』と言われている人たちのすべてを書いたつもりはないですが、臨床で非常に目立つのは親が非定型というパターンです。
例えば、複数の大人で子育てをしている場合、できれば、しつけやダメ出しの役割は定型の人が担うのがいい。非定型の人は、一緒に遊ぶなど、楽しみの時間を子どもと共有するのが向いている傾向にあります」(水島さん)
貂々さんは、息子という「重要な他者」との関係を良好に保ってきた。その要因はまさに、水島さんの指南通りの役割を担っていたからだった。
「子育てはツレがしてくれていて、私は褒める係です。朝起きたら『よく起きたね、えらいね』と褒めるし、もう何でも褒めます(笑)。私がしつけに深く関わっていたら息子は振り回されていたと思うので、この役割分担でよかったなと思いました。ツレが息子をしっかりと支えてくれたし、私が仕事中心で子育てに深く関わっていなくても、そんな私のことをうまく説明してくれました」(貂々さん)
定型が非定型を理解する方向でしか、関係は成立しない
非定型の人たちの人間関係の要点を、水島さんは鋭く言い切る。
「定型が非定型を理解する方向でしか、おそらく関係は成立しないんです。まずは優劣ではなく、役割の違いとして納得すること。もうかなり開き直ったほうがいい。鍋と蓋も入れ替えたら成立しないように、組み合わせはできるかもしれないけれど、入れ替わりはできない。
血液型のA型とB型は、どちらが劣っているということはありません。ただの違いであるけれど、知らずにA型をB型に輸血してしまうと死んでしまう。同じように、非定型も、(その特性を)知ることによって役割分担することが必要なのです。決して劣等感を持つことではありません」(水島さん)
非定型の貂々さんは、周囲の人には「おおらかに」接してほしいと考える。
「私たちの当事者研究(※2)では、私がやっているからかもしれないんですけど、非定型の方が多いです。『家電屋さんに入ると光が眩しくて辛いんです』と一般の人には『何それ』と思われるような話でも、『あ、その悩み私もわかります』と。同じ人がいるんだなと言ってホッとしたりしています。優しい目で、おおらかに見てもらえたらと思います」(貂々さん)
(※2)当事者研究とは、「困りごとを抱えた人・本人」が「仲間と一緒にその苦労のメカニズムや意味を考える」こと。貂々さんの著書『生きづらいでしたか?: 私の苦労と付き合う当事者研究入門』(平凡社)に詳しい。
貂々さんが、かつて団子屋さんのアルバイトの向かない接客業でパニックになっていたことも、ベルトコンベアーの流れ作業でプレッシャーを感じ、焦ってミスをしていたことも、まだ自身の特性がわかっていなかったことが原因だった。水島さんとのコミュニケーションを通じて、貂々さんは思い直した。
「『普通』に縛られているのはすごく辛かったんだな、と気づきました。非定型という考え方をきちんと知って、『もう普通にしなくていいんだ』『普通でなくても漫画家をやっていていいんだ』と思えたとき、世界が金色に変わった感じがして、ぱーっと開けました」(貂々さん)
優劣ではないかたちで違いを知り、役割分担をすること。ときにぶつかることがあっても、向き合い、ときには距離を取って、関係を結んでいくこと。そうした営みは、水島さんいわく「ひとりでも、ふたりでも、だれとでも」。
いま、まなざしを向けたいのは、「フツー」ではなく「違い」だ。