未来の話は「タブー」だった石巻の小学生、大人になって今目指すもの【東日本大震災】

津波で被災した地域と、無事だった地域の両方から子どもたちが通っていた学校。「これから何がしたい?」なんて話はとてもできなかったからだ。
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2011年3月11日、大津波警報が発令された宮城県・石巻市。 

「怖いよ」。不安ですすり泣く声が聞こえてきた。

避難のため、学校裏の日和山を登っていた市立門脇小学校の子どもたち。

その中にいた、当時6年生の近藤日和さん(22)は、とっさに大声で歌い始めた。しかし、音程は外れていた。

「こんな時にやめて!ふざけないでよ!」

逆効果だったが、少しでも「みんなに笑って欲しい」と思った、近藤さんなりの正義感だった。

無事に日和山に到着。しかし、子どもたちの目の前で、津波は街や学校を押し流していった。

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日和山からみた石巻の街。2021年2月撮影
Jun Tsuboike/HuffPost Japan

いつもの白い波ではなく、それは、真っ黒な壁のように見えた。「あれが津波なんだ…」

そこから先は、よく覚えていない。

あの時、調子はずれの歌を歌っていた近藤さんは、今「石巻市子どもセンター『らいつ』」のスタッフ「どんちゃん」として、この街の子どもたちに、向き合っている。

目指しているのは、あの日から、真剣に自分たちの声を聞いてくれた「大人」だ。

 

学校の友達と、未来の話はできなかった。 

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近藤日和さん。石巻子どもセンター「らいつ」では、「どんちゃん」と呼ばれている。
Jun Tsuboike/HuffPost Japan

「らいつ」は、子どもたちの夢が形になった場所だ。

震災後、公益社団法人「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」によって、小学生〜高校生までの子どもたちが参加する「まちづくりクラブ」が結成され、その活動を元に誕生した。建設はサントリーホールディングスが支援した。

近藤さんも、震災後から「クラブ」の一員として活動していた。

津波で自宅は全壊。父親は当時、遠洋漁業の漁師で、海に出ていて助かった。家にいた母親と姉も、逃げて無事だった。避難所で約3カ月、その後は親類の家を借りて暮らした。

「私、喋るのが大好きなんです。でも、震災後は話したり、考えたりする場所が全然なかった。あの頃はやらなくちゃいけないことも多くて、楽しいことは何もなくて、退屈な街になったなぁと思いました」

仮設住宅は高台の空き地に作られた。友達の多くが住んでいたが、徒歩では行けない距離。放課後や土日にも、友達と遊ぶことは難しかった。

時間が経つにつれ、学校の友達とも、なんとなく災害の話はしなくなっていった。

「真面目、優等生ぶっている」と思われるのが、気恥ずかしい気持ちもあった。

加えて、学校には、津波で被災した地域と、無事だった地域の両方から子どもたちが通っていたからだ。でも、お互いの状況はわからない。だから、津波につながる未来の話は「タブー」だったのだ。

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石巻「らいつ」でインタビューに答える近藤日和さん
Jun Tsuboike/HuffPost Japan

「ある子は両親を亡くした、ある子は家が無くなった。でもほとんど被害が無かった子もいる。私は家族みんな無事だったけれど、友達はどんな状況なのかわからない。とても聞けない。そのことを考えると『これから何がしたい?』なんて未来の話は、とてもできる心境ではなかったんです」

代わりに親しい子とだけ話せたのは「もし津波が来てなかったら何がしたかった?」そんな「もしも」の話ばかりをしていたことを覚えている。

子供が遊べるような場所も、街にはほとんど無くなっていた。遊べる場所が欲しいと願っていたが、大人たちは生きることだけで必死なように見えて、誰に言えばいいのかもわからなかった。

「まちづくりクラブ」に参加したのは2011年の冬から。「立派な」動機は特になかった。同級生に誘われたのがきっかけだ。同世代の子どもたちの発表を聞き、漠然と「いろんな子が街のことを考えていてすごいな」と思い、参加を決めた。

それから、定期的に集まりがあった。

自分たちはこの街に何がほしいか、街に何が必要か。真剣に話し合った。

クラブの友達とは未来の話ができた。そこに参加する自分は、学校にいる自分とは少し違うと感じていた。

将来の街のこと、自分たちの思い。それを一生懸命発表すると、「大人たち」は真剣に耳を傾けてくれた。そこは、家でも学校でもない、第三の居場所となっていた。

 

子どもの夢を実現した「らいつ」 

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石巻市の中心部にある「らいつ」。
Jun Tsuboike/HuffPost Japan

そんな自分たちが考えた理想の街が、建物として形になると聞かされたのは、2012年だった。

「本当に実現するんだ!」近藤さんはものすごく驚いたという。

「夢のまち」を建物でどう表現するか、市職員や商店街の人々と一緒になって話し合った。その計画を元に2014年1月「らいつ」がオープンした。

「私たちも真剣に話し合ったし、大人たちがいつも話を真剣に聞いてくれた。その中でだんだん、自分の意見を言ってもいいんだという気持ちになってきた」

建物ができてからも「子どもまちづくりクラブ」は続いている。

シャッター街になってしまった商店街でハロウィンができたら楽しいのでは?そんな話題から、2013年秋からハロウィンパーティも開催するようになった。最初は少しの協力店舗から始まり、今は街ぐるみのイベントとして毎年恒例となっている。

「あなたたちは、私たちの宝だよ」。2015年にまちづくりクラブのメンバーが訪れた仮設住宅で、被災者は子どもたちにそう話した。

 

「子どもを一人の人間として」

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撮影中、「どんちゃん」と話そうと子どもたちが次々にやってきた。
Jun Tsuboike/HuffPost Japan

決して形ばかりの参加ではない。

「らいつ」は建設後に石巻市に寄贈され、2018年からは指定管理者制度で運営されている。子どもたちは指定管理者の選定でも「子ども委員」となり、意見を出した。

運営にも、子どもたちが参加している。例えば最近では、「らいつ」にWi-Fiが欲しいという提案が子どもたちから上がった。そこで、本当に必要か、設置するとしたらどんなルールが必要か、2年間に渡って話し合い、導入を決めた。

本当の意味で、子どもの意見を元に運営する。「らいつ」の姿勢は、そんなところにも現れている。 

震災から10年が経ち、「らいつ」に遊びにくる子の中には、既にその記憶がほとんどない子も多くなった。「復興ってどんなこと?」と感じている子たちも多いという。まちづくりクラブでは今後、街中を視察するツアーを開催し、まず街のことを知ってもらう計画を立てているという。 

「子どもたちの声を聞く大人がもっと増えて欲しいなとずっと思っていました。子どもも一人の人間として、その声を大切にしてもらえるように。自分で考えて決められる子どもがもっと増えるように。『らいつ』に来れば友達もいるし、大切にしてくれる大人もいる。そういう場所として、自分が今度は応援していきたいですね」

「大人」になった近藤さんは、そう語った。 

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「どんちゃん」の名札。ポケモンの「サンダース」が書いてある
Jun Tsuboike / HuffPost Japan