ミルクピッチャーの水の動きをじっと見つめる男の子、ジェロ君。4歳。
「小さな子どもには天才と呼ばれる人たちと同じ、高い集中力がある」━━。この点に着目したイタリアの医師の名は、マリア・モンテッソーリ。
『モンテッソーリ 子どもの家』は彼女が考案した「モンテッソーリ教育」のドキュメンタリーだ。
主人公は2歳半〜6歳までの28人の子どもたち。棚に整えられたカラフルな教具に、穏やかな口調で指導にあたる教員。子どもたちは、切り花を生けたり、マッチで火をつけたり、文字を指でなぞったり、ありったけの力を集めてやりとげる。カメラは静かにそんな彼らの姿に密着する。観察映画だ。
日本でも「シュタイナー教育」や「イエナプラン教育」など、オルタナティブ教育への関心が高まっている昨今。モンテッソーリもその1つだが、日本では「モンテッソーリ教育」とネットで検索すると、こんな声をしばしば目にする。
「英才教育なの?」「向いている子と向いていない子がいる?」「実際、どんなことをするの?」「何歳からの幼児教育?」「協調性が育たなくなる?」…。
フランス最古のモンテッソーリ幼稚園を2年3カ月にわたって撮影した、本作のアレクサンドル・ムロ監督に、それらの質問を率直にぶつけてみた。
モンテッソーリは英才教育か
マイクロソフト創業者のビル・ゲイツもオバマ前大統領もイギリス王室の王子たちも、藤井聡太棋士も、つい先日退任が発表されたばかりのAmazon創始者ジェフ・ベゾスも。モンテッソーリ教育というと、天才と呼ばれる著名人と結びつけて語られてきた側面がある。
モンテッソーリは、英才教育なのだろうか?
ムロ監督は、(うーん、と少し考えて)「ある意味、そう思う」と切り出した。
意外な答えだった。映画のなかに出てくる子どもたちの様子と英才教育のイメージが結びつかない。
モンテッソーリ教育の原点は、イタリアの女性医師、マリア・モンテッソーリ。今から1世紀以上も前に貧困層の子どもたちのために設立した教育施設「子どもの家」がはじまりだ。
子どもの潜在的な能力を伸ばすために考案された教材は、モンテッソーリが学んだ知的・発達障害者教育の先駆者、セガンからもヒントを得ているという。モンテッソーリのメソッドは今では世界中で広がりを見せている。
監督の言葉に「なぜ?」と疑問を抱きつつも、インタビューが進んでいくうちに、そこに深い意味が込められていることが分かった。
フランスでは公立にも導入されているカリキュラム
日本には昔からモンテッソーリのカリキュラムを導入している保育園や幼稚園はあったが、近年、オルタナティブ教育への関心の高まりを受け、そのメソッドを取り入れた幼児教室も都心部を中心に増えている。
ムロ監督の住むフランスでは、国家レベルで導入が進んでいるという。
「フランスでは20年ほど前は30校ぐらいだったのが、今500校に増えているよ。私立の学校もあれば、国と契約を結んで教員の給与が国から出ている学校もある。私のこの映画も一翼を担っているといえるのだけど、カリキュラムを一部導入したケースも含めるとモンテッソーリのクラスはフランスに全国で2000程ある」
子どもが自分で考え、望み、行動する
「父親になって、友達からもらった教育本のなかでモンテッソーリを知ったんだ」
本作を撮るきっかけについてそう語るムロ監督は、撮影と並行して、研修を受け、モンテッソーリ幼稚園の教員資格も手にした。どこに魅力を感じたのだろう?
「やっぱり一番は、子どもが自分で考え、自分で望み、自分で行動することを助けるところだと思う。その子の速度で、その子の持つ能力を伸ばしていくのがモンテッソーリの考え方だよ」
確かに、本作を通して最も印象に残るのは、子どもたちのきらきらとした表情だ。
そのために教具があり、大人(教員)がいる。教具に取り組むことを“お仕事”(フランス語では“travail”)と呼ぶ。「没頭している子を大人(教員)が途中で止めない」のもモンテッソーリの流儀だ。自立を促し、自主性を重んじている。
だが一方で、「子どもの協調性が育たないのでは?」と心配する声については、どう考えるのだろう。
「映画のなかの、最後の方に出てくる始業式のシーンをとくに観て欲しいよ。年長になった子どもたちが、自発的に新入生の子たちの手伝いをしてあげているんだ。
それぞれの個性を伸ばすことで、決して自己中心的な人間の社会ができあがるのではないよ。小さな子どもたちが自分よりも小さな子を見て親心のような気持ちが育っているんだ。そういうふうに集団ができていく」
お盆にのせたガラス瓶を運ぶジェロ君が、それを落としてしまうシーンでも、近くにいた女の子がすかさず歩み寄って拾うのを手伝ってあげていた。子どもたちの小さな助け合いの精神は、本作の色んなシーンで見られるのだ。
“遊び”に価値を与える、“お仕事”
意外かもしれないが、マリア・モンテッソーリがこの教育プログラムで設定している年齢は、0歳から24歳までと幅広い。フランスでモンテッソーリ教育が受けられるのは保育園と幼稚園、そして小・中・高校だ。
モンテッソーリ教育は、幼児だけに特化した教育というわけではない。
実は筆者もモンテッソーリ幼稚園の出身だが、英才教育と言われていることなど当の本人は何も知らずに育った。普通の子だったと思う。強いていえば協調性に欠けるのかもしれないが、それがモンテッソーリ教育を受けた影響なのかは誰にも分からない。
マッチで火をつける“お仕事”のシーンを観ていたら、マッチの匂いの記憶が蘇った。教具にも見覚えがあった。色んな感覚を刺激される道具類だがそれぞれの置き場所が決まっていて、使い終わったら元に戻さなければ次へ進めないルールもあって、先生に諭されたことを思い出す。
この“お仕事”という独特な言い回しにも、モンテッソーリの考え方が裏打ちされている。
「私も最初は違和感があったけど、マリア・モンテッソーリは、子どもたちのしていることに“遊び”じゃなくて、価値を与えるために“仕事”という言葉を使ったんだ。
モンテッソーリは、子どもとどうやって接すればいいのか、つまり大人の役割の部分を熟考した人なんだ」
天才とは「自分で自分を知っている」人
「モンテッソーリ教育の特徴は、大人の果たす役割の部分にある」。子ども以上に大人の鍛錬が必要とされる印象を筆者も持っていたため、この言葉に大きく頷いた。
最初の問いに戻ろう。これは英才教育なのか? 監督の「ある意味、そう思う」にはつづきがある。
「英才教育、つまり天才を育成するということだけれど、私が思うに、必ずしもビル・ゲイツのような、企業や国のトップになる人や名の通ったアーティストを育てるためのものではないと思う。
私が考える天才というのは、たとえば自分で自分を知っている人、自分が何をしたいかや、何ができるかを判断できる人。私の解釈だけどね」
「自分で自分を知る」ことは、当たり前のようだが難しい課題だ。
マリア・モンテッソーリの言葉に、「身の回りのものから世界を知る」という言葉があるが、子どもたちは、“お仕事” をしながらあらゆる感覚を使って吸収している。その先には、「世界を知る」や、「自分を知る」があるというわけだ。
「身の回りのものから世界を知る、この考え方を実践している子どもは、国や宗教のちがいにしばられることはない。ちがっていることを理由に敵意や不信感を抱くこともない」
マリア・モンテッソーリ
もしあなたが「子どもにどう接すればいいか?」で迷っていたとしたら、この映画を観るといいだろう。そこにはたくさんのヒントがあるはずだ。
(文:堀あいえ 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)