2011年3月11日。あの日、最も記憶に残っているのは、大きな地震の揺れでも街を飲み込む津波の映像でもなく、避難した後に「雪」が降ってきたことだという。
被災した方を取材していると、地震そのものよりもあの日の天候が印象的だったと話す人は意外にも多い。
出身地の仙台で被災した卓球の張本智和選手もその1人。当時7歳だった少年は17歳になり、今や日本を代表するアスリートとなった。得点を決めた場面で「チョレイ!」と気を吐くプレースタイルでその名を知る人もいる。
自分のプレーで被災地を勇気づけたいという思いを胸に、東京五輪で金メダルを取ることを目標としてきた張本選手。震災から10年、いま何を思うのか。当時の記憶や延期された五輪について本音を聞いた。
今でも印象に残っている、あの日の「雪」
2011年3月11日、午後2時46分に襲ってきた大地震。小学1年だった張本選手は当時のことをこう記憶している。
学校から帰ったばかりで宿題をやろうとしていました。そうしたら地震が来て。最初は机に隠れていたんですけど、揺れが長くて。物などが置いていないトイレに行って、揺れが収まってから近所の公園に避難したんです。
電気が使えず水道も止まり、それから数日間は車の中で寝泊まりをした。避難した当日、ふと空を見上げると思わず驚いた。
避難したら雪が降ってきて。3月の仙台では雪はめったに降らないんですけど、まさか被災の当日に降ってきて。大地震が来ると、もしかしたら天気も変わるのかな?と疑問に思ったことを覚えています。
筆者は震災後、仙台の放送局に勤務し5年ほど暮らしたが、確かに3月に雪が降ることは珍しい。3月11日に被災した方を取材していると、地震そのものより被災した後の天気が印象的だったと話す人がどの地域にもいる。雪が降ったことや星空が綺麗だったとを記憶している人もいる。
張本選手はその後、中国大使館の呼びかけに応じ家族と共に中国・四川省に避難した。中国は両親の故郷。だが、「中国に着いたときから、もう日本に帰りたいなと思っていました」と本人は言う。
卓球の練習もできず、宿題をこなす日々。当たり前だった友達と過ごす時間も失われた。この時、1度の地震が日常を変えてしまうことを痛感したという。
約1ヶ月後に仙台に戻ると、小学校の様子が大きく変わっていた。
張本選手が通っていた東宮城野小学校には被災した荒浜小学校の児童も通った。仙台市沿岸部の荒浜地区は津波で壊滅的な被害を受けたため、同地区の児童達は校舎を間借りするしかない状況だった。
荒浜小学校の児童とは基本的に授業は別だったんですけど、体育や校外学習は一緒だったので、休み時間に一緒に遊んで仲良くなりました。荒浜には津波で亡くなられた方が大勢いて、自分がそうなっていても不思議ではなかった。だからこそ、自分は精一杯生きて、卓球も全力で取り組まないといけないとあの時思いました。
「自分は生かされている」。そう思うと、卓球の練習にも自然と熱が入った。
その後の活躍は目覚しかった。2018年、15歳で挑んだワールドツアーのグランドファイナル・男子シングルスを大会史上最年少で制覇。勢いそのままに、日本男子史上最年少でシングルスと団体の東京五輪代表に内定した。
しかし、東京五輪は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で1年延期に。そうなったことで、図らずも東京五輪と「震災10年」という節目が重なった。アスリートとして、また1人の被災者として、このことには少なからず意味を感じているという。
「東京五輪で金メダル」という目標。あくまでも、これを変えることなく邁進する日々だ。
「復興五輪」から「コロナに打ち勝った証」に。五輪の意義の変化や中止を望む声、どう受け止めている?
東京五輪の中止や再延期を望む声が世間から出ていることは、もちろん耳に入っている。国はこれまで「復興五輪」を掲げてきた。そもそも元々、五輪と復興を結びつけることに疑問の声があがっていたという経緯もある。
そして、コロナ禍での延期を経て、五輪開催の大義名分は「コロナに打ち勝った証」と叫ばれるようになった。
被災地出身のアスリートとして、このことをどう捉えているのだろうか。本音を聞いてみた。
「中止すべきだ、延期すべきだ」という世の中の声に対しては、正直複雑です。ただ、最終的な判断については自分にはどうすることもできないので、今後の決められたプロセスでアスリートとして精一杯頑張っていくしかないかなと思います。今はコロナ禍で本当に大変な状況なので、多くの方が大会の中止を望んでいる。五輪の意味合いが「コロナに打ち勝った証」となってきた経緯も分かっています。
ただ、やはり自分は東北・仙台の出身。被災地で育った者としては、3.11のことを忘れないで過ごしてきた10年でした。だからこそ、「復興五輪」という思いは強く持ち続けています。震災、そして復興のことを忘れた日はありません。
コロナの影響で五輪に向けた意味合いがむしろ1つ増えたという感覚なんです。震災復興とコロナ禍、どちらにも共通しているのは大変苦しい時期や状況がそれぞれにあったということ。アスリートとして、そんな状況で何ができるのか。まずはやはりプレーで勇気を届けられたらと思っています。
震災で被害に遭われた方々のためにも、五輪のメダルという結果を残したい。「復興五輪」としての意味合いがどんなに薄れようが、張本選手自身はそれに対して強い想いを持っている。
代表のユニホームには「WASURENAI3.11」というメッセージが胸に刻まれている。毎年4月にユニホームを渡される時は必ず、自分がコートに立つ意味、アスリートとして存在する意味を噛み締めているという。
SNSでの発信、その理由
張本選手は近年、プレー以外でも意識していることがある。SNSでの発信だ。
Twitterは2018年の12月から始めた。ここ数年は、3月11日に震災について自分の言葉で綴ってきた。1月には被災地沿岸部へ花束を贈るというプロジェクトに賛同し、自身の考えとともにシェアした。積極的に発信する理由をこのように話す。
震災当時は小学1年生で、まだ無名の1人の選手でした。今は少しずつ実績を重ねてきて日本代表になることができた。それに伴って、少しずつ社会にもメッセージを発信できるようになったと思っています。あれから10年経って17歳になった自分は、アスリートである前に1人の被災者。だからこそ試合の結果だけではなく、震災のことを忘れないということを全国そして世界に伝え続けていく意味で、SNSでの発信は続けていきたいと考えています。
発信を強く意識するのは、震災の経験を伝え続けていきたいという思いがあるからだ。
発信で言えば、今年プロ野球の楽天に復帰した田中将大投手の影響が大きいと語る。張本選手が「憧れの存在」とするアスリートだ。
勝負の世界で結果を残せば、それに伴って社会に発信できる声も大きくなるということを田中投手を見て感じてきたという。自分も彼の背中を追いかけながら、世界を舞台で活躍するアスリートの仲間入りを果たした。
約1ヶ月前。2月に東北で起きた最大震度6強の地震では、遠征先の岡山から10年前の東日本大震災のことを思い出した。10年という年月を経た今、大切にしたい思いがある。
これからは一層、ただ伝えるだけではなく「思い出してもらうこと」がより重要になると思っています。もちろん、思い出すことで改めて辛い思いをするという人が大勢いることも分かっていますが、自分が発信を続けることで、東北のこと、被災地のことをせめてこれからも忘れないでいてほしい。そして、これからの未来に繋げていきたいという思いがあります。
張本選手は今後も発信をやめることはないだろう。5年後は22歳、10年後は27歳。未来をしっかりと見据えている。世界で戦うアスリート、かつ1人の被災者として、コートの外からも自らの役割を果たしていく。
(取材/文:小笠原 遥)