「ブサイクいじり」と「女子アナ」。男性社会に適応し過ぎる2人のシスターフッドに希望を見た。

【加藤藍子のコレを推したい、第4回】『夢で逢えたら』(吉川トリコ著)の主人公たちは、あまり友達になりたくないタイプだ。しかし、女たちの最高の景色を見せてくれる。

「シスターフッド」という言葉がある。意味は、女性同士の連帯や絆。1960~1980年代のウーマンリブ運動の中でよく使われたが、近年のフェミニズムの広がりを受け、小説や映画のモチーフとしても再び存在感を増している。この社会で、女性同士の絆はとかく過小評価されがちだから、それが魅力的に描かれている作品に出会うと、私の心は否応なく熱くなってしまう。

「ああいう女とは、シスターフッドとか無理だと思うんだよね」

先日、女友達と食事をしていたら、テレビによく出る女性有名人の話題になって、そんな発言が飛び出した。その有名人というのは、一般的には「“女”を使ってうまく世の中をわたっている」と見られても仕方のないような人だ。私だって「友達になりたいか」と聞かれたら、あまり積極的な気持ちにはならない。

だけど、生きてきた境遇や考え方、立場が違う人間を簡単に「無理だ」とはねのけるなら、シスターフッド自体が土台は無理なのだという話になってしまわないか。「それでも連帯を志向すること」こそ、シスターフッドなのではないか。

必ずしも友情は結べないかもしれない、あるいは恋愛関係でもない女性同士が、共闘する。言うは易し、行うは難しではあるが、その可能性を示してくれるのが『夢で逢えたら』(吉川トリコ著、文春文庫)だ。

正直に告白すると、私はこのコラムで個人的にこの小説を薦めたいかどうかについて、少々悩んだ。面白かった、と思ったのになぜか。たぶん2人の主人公が、いわゆる「私があまり友達になりたくないタイプの人間」そのものだったからだ。

主人公の一人は芸人の真亜子。高校卒業と同時に地元・愛知から上京し、芸能プロダクションが運営するお笑い養成所に入所。なかなか芽が出ず、手あたり次第に相方を変えていたことから仲間内で「お笑いヤリマン」といじられるエピソードは、お笑い業界に男尊女卑が染みついていることを端的に示している。同じようにコンビの結成・解消をくり返す男の芸人もその言葉で呼ばれるらしい。「お笑いヤリチン」という呼称はない理由について「それはやっぱニュアンスだろ、ニュアンス」とニヤつく先輩芸人にモヤモヤしながら、真亜子は何も言うことができない。

そんな折、ド派手なギャルファッションに身を包んだ中学時代の同級生・美姫と偶然再会。コンビを組んだのが功を奏し、芸歴10年にしてようやく、世間に顔と名前を覚えられるようになっていく。だが、美姫は芸人たちからの容姿いじりに疲れて引退。真亜子はピン芸人となる。

もう一人の主人公は、アナウンサーの佑里香(愛称「かみぽん」)。名古屋で大手企業勤務の父と専業主婦の母のあいだに生まれた。厳しい採用試験を勝ち抜いて東京キー局のアナウンサーになった優等生だが、「将来の夢はお嫁さん♡」だ。

その出で立ちは作中でこんな風に描写される。「セミロングの髪をハーフアップにして前髪だけ斜めに垂らし、白いフレンチスリーブのてろんとした素材のブラウスにひざ丈のセミフレアスカート」「概念の女子アナをそのまま具現化したような女」。一時は視聴者から「お嫁さんにしたい女子アナNo.1」に選ばれる人気ぶりで、ワイドショーやバラエティ番組で引っ張りだこに。一方で、仕事中の「いやらしい妄想をかき立てる瞬間」が写真に撮られて低俗な雑誌に掲載され、落ち込むこともある。そして30歳に差しかかる現在はフリーで活動している。つい実在の人物を具体的に頭に浮かべてしまうくらいに、リアルな設定だ。

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『夢で逢えたら』(吉川トリコ著、文春文庫)
Aiko Kato / HuffPost Japan

どんなに素晴らしいとされる物語であっても、その中を一緒に旅することになる主人公の性格や振る舞いがどうにもこうにも気に入らなくて、結末まで完走するのにさえ苦労することがたまにある。この小説は私にとって、そのリスクがあったと思う。

真亜子と佑里香はまるで違うように見えるけれど、決定的な共通点があって、それは男性社会に「適応し過ぎている」ということだ。

美姫が真亜子に、「テレビでブサイクブサイクいじられとったら、そう思い込んでまうやん?」と涙を流し、芸人をやめると告げる場面がある。

そこで「真亜子は美姫をブサイクだと思ったことなんて一度もない。だけど、舞台の上ではそういうことにしなければいけなかった」という回想が入るのだが、私はそれを読んで簡単に「そうか、真亜子もつらかったよね」と思ってあげることはできなかった。

女子校に通っていた高校生の頃、ある友人がクラスの中で力の強い子たちと結託して、一人の子をいじめていたのを思い出す。その友人は、毎日のように「一緒に帰ろう」と誘ってきて「うちら親友だよね」なんて言ってくれていたのだけれど、私が思い切って「あの子のこと嫌いなのはいいけど、いじめるのはやめなよ?」と言った翌日から、露骨に距離を置かれるようになった。目の前の友を傷つけて、マジョリティーに同調することを選んだわけだ。

今さら彼女を責めたいわけではない。私も別の局面では、似たような振る舞いをしてしまったことがあったかもしれない。だけど、あの場では少なくとも男だとか女だとかいうことは関係なかった。ただ力が強い人と、弱い人がいただけだった。だから、真亜子のしたことに「男社会のせいだね」と共感してあげられない。事実、真亜子は「大切な友達」のはずの美姫が涙を流して限界を訴えるまで、「イジりっぱなし」のまま来たのである。

佑里香にも、別の種類の嫌な感情を引き起こさせられた。作中の佑里香の描写は、真亜子の視点が入り込むこともあって、ときどきかなり手厳しい。「いったいどこから声を出しているのか、頭を勝ち割ってたしかめたくなるような甲高い声」とか、「(『きゃっ、恥ずかしい』などと言いながら)身をくねらせる」とか。

そうしてうまくテレビ業界をわたっていた佑里香が、大御所芸人から酷過ぎるセクハラに遭う場面。私自身、男尊女卑が染みついていることで名高いマスコミ業界で生きてきた人間だから、その生々しさに胸が締め付けられるようだった。だが同時に、こうも感じてしまう自分を止められない。私は器用に甲高い声を出すこともできなければ、身をくねらせる方法も分からない。だけどたびたび「女子」としての振る舞いを求められた。男性社会に媚びてきた何人もの「佑里香」のせいもあって、私までそう扱っていい存在として見られたのでは、と。でも同時に、可愛げのある「佑里香」をふとうらやましく感じたこともあったっけ、なんて思い出してしまうから、余計に気分が悪い。

ここまでが、「現実世界」で真亜子や佑里香とすれ違ったとしたら、感じてしまうであろう感情――「シスターフッド」を妨げる感情だ。

だが、これは現実ではなく、小説だ。初見、「うわ~、なぜ私が密かに苦手とするタイプが顔を揃えているのだ」と衝撃を受けつつも、著者のリズミカルでユーモアあふれる筆致に運ばれるようにして、気が付いたら先を読み進めてしまう。

そして、知っていく。例えば佑里香は、母からは「自立した女性になれ」と言われ、父からは「女が仕事でトップ目指してどうする」と言われて育ったこと。女性としての母、男性としての父を少し引いた目で眺めて身の振り方を考える学生時代の佑里香は、私が学生だった頃などよりよほど聡明だと感心する。他人の言う手前勝手な「正解」に振り回されそうになって、だからこそ「自分に相応しいのかも」と遂に思えた場所で、求められることを生真面目に全うしようとしてしまう感覚もよく分かる。

真亜子に対しても同じだ。私は特に近年、「お笑い」をあまり見なくなった。だから、芸人の業界がどういう変化にさらされているのか、そこで女であるということは何を意味するのか、当初手に取るようには分からなかった。

だが、この小説では語られる。テレビが以前ほどの力を持たなくなったと言われても、これからは「誰も傷つけない笑い」だと言われても、スタンダードが変わるのには時間がかかる。そこで働く個人は器用に変化にキャッチアップしていけるほど変幻自在ではない。生き残らなくてはいけない。仕事を失っては元も子もない。作中で真亜子はある「放送事故」を起こす。「すれ違っただけ」の視聴者の多くは、おそらくそのニュースに首をかしげるか、眉をひそめるかするだけだろう。だけどこれは小説だから、私は真亜子を知っている。その内心がどんなに引き裂かれ、追い詰められていたのかを知っている。

現実なら、きっと一度や二度食事をして、ぎこちなく笑い合って「反りが合わないな」とすれ違っていったような2人のこと。もちろん架空の人物なのだけれど、小説を通して、ノイズを発するような異質な他者と時間や空間を共有し、言葉を交わせたような感覚に陥った。

作中の真亜子と佑里香も、ひょんなことから同じ名古屋のローカル番組で共演するようになり、「仕事」という時間と空間を共にすることでお互いを知っていく。2人はマジョリティーに過剰適応しているように見えて、実のところ、心は全く適応していなかった。自分を型にはめて懸命にキャラ付けしようとしても、自分自身は騙しきれない。収まりきらない何かが漏れ出てくるのをコントロールできない。

それを互いに発見し合い、面白い女だと笑い合い、「はみ出し者同士」として新たに育んでいくその絆には希望がある。彼女たちは私と全然違うけれど、同時にとても似ていた。「正しい」やり方かどうかは分からないが、主人公の2人を初めとした女たちが目配せし合って、番組放送中に「男社会のボス」的位置づけの大御所芸人に冷や水を浴びせかけるラストは痛快だ。そしてそれを支えた絆が、ことさらに「友情」と名付けられることがないのもカッコいい。

SNS上で、迷いやためらいが削ぎ落され、尖り過ぎた言葉が飛び交う昨今。シスターフッドは難しい、と打ちのめされそうな瞬間も確かにある。だが、この小説は見せてくれる。それでもたぐり寄せたい、「面白くて好き」と笑い合う女たちが紡ぐ最高の景色を。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko