コロナ禍で見直された「モノが作れる力」。マスクが買えなくなった時、手芸が教えてくれたこと

手芸をするとモノが作れる。あまりに当然のことだが、多くの人はその大事さをわかっていなかった。とても重要な力だ。しかしほかにも「手芸の力」はある。

こんなタイトルがついているけれど、これからする話は「手芸」の話ではない。   

これからの私たちにはどんな「力」が必要なのだろうか、という話である。

 

コロナ禍で見直された手芸

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もしかしたら、あなたが小さい頃、お母さんやおばあちゃんが家でミシンを動かしたり、手編みのマフラーを編んだりする「手芸」をしていたかもしれない。

私はその「手芸」の関連企業に顧問としてアドバイスをする仕事をしたり、ワークショップで編み物の楽しさを伝えたりする活動をしている。

そんな私がとある変化を肌で感じはじめたのは今年に入ってからである。

コロナ禍に入ってから手芸が見直されているのだ。

SNSを見ていると、昔やっていた手芸を再開する人や新たにやり始めた人もずいぶんと目につくし、ネットのアンケートでもそのような結果が出ている。

業界側も、たとえばミシンなどは生産が追いつかなくなるほど売れたとのことで、それも昨今聞かなかった話である。

 発端はマスクの品不足だった。

今まで使い捨てることを省みもしなかったマスクが店頭から消えた時、多くの人が途方に暮れた。行列の末、ドラッグストアの店員さんを怒鳴る人もいた。

その時、手芸をやっている人たちは冷静だった。買えないとわかるや否や、布を縫い合わせたり編んだりしてマスクを作ってしまったのだ。

手芸をするとモノが作れる。

それはあまりに当然のことだったが、多くの人はその大事さをわかっていなかった。

どれだけ近代化が進みモノが普及しようと、感染症や災害などを前にすれば、実は「モノが買えない」状況と隣り合わせだということを認識できていなかった。「マスクを買えないなら作ればいいのだ」と考えられなかったからこそドラッグストアで怒号が鳴り響いたのである。

この「ものが作れる」というのはコロナ渦中で見直された一番わかりやすい「手芸の力」である。

とても重要な力だ。

しかし他にも「手芸の力」はある。

 

「手芸の力」をまったくわかっていなかった私

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ここで私が編み物で、東日本大震災の被災地を支援する活動をした時のエピソードを紹介したい。

 2014年の話である。

震災直後から私の母が始めた支援活動をサポートするため、私も活動場所の福島県南相馬へ手伝いに行くことになった。

数日間かけて仮設住宅で多くの人と一緒に編み物をする活動を終え、私が母と東京に戻ろうとすると、現地グループのリーダー格の女性がやってきてこう言ったのだ。

「……わたしはねえ、震災直後に横山先生(母)が来てね、『編み物やろう!』と、みんなの首根っこひっつかむみたいにして集めた時、『なんでこんな時に編み物なんか……』って思ったのよ、実は」

「だってさ、目の前で家族や友達が死んでいった、そんな後だったから、『編み物どころじゃない』って気分だったの」

それを聞いて、私は「やはり」と思った。もともと、現地の人たちのそのような胸中は予想していた。

人の死や生活に関わる深い問題のまえで、編み物になにができるのだろうか。支援活動をしながらも私は頭のどこかでそう思っていたのだ。

しかし、リーダー格の女性の話はそれで終わらなかった。その先を聞いて、私はぱくりと口を開けることになる。

「でもねえ、編み物するようになって、本当に助かった。編み物してると、その間だけでも嫌なことを忘れるものねえ。除染するったって、いつまでかかるかわからないし」

「編み物がなかったら、気持ちがどうなってたかわからない。やっていけなくなっていたかもしれない」

「本当に感謝します」

南相馬からの帰り道、私は打ちのめされていた。私はまったくわかっていなかったのだ。「編み物の力」「手芸の力」について。

そして、これからの私たちにどんな「力」が必要かについて。

 

問題と共生しながら元気でいる力

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何か問題が起きた時、まず私たちはその問題を解決しようとする。

しかし、たとえば東日本大震災や、コロナ禍などに付随する「解決の難しい問題」に対してはどうだろう。「問題の解決」だけが道であれば、その時は絶望しかない。

しかし、南相馬での体験は私にメッセージを与えてくれた。

「解決の難しい問題と共生しながら元気に生きていける力」というものも世の中にはあるのだ、と。手芸にはそのような力があるのだ。

もちろん、手芸が問題そのものを解決するわけではない。「手を動かしている間は辛いことを忘れる」ことができるだけである。

以前の私はそれが一種の「逃げ」であるように感じていた。「問題が解決されなければ意味がない」と思っていたのだ。

しかし、たとえば「急に家族が亡くなってしまった」とか「まだ特効薬が見つかっていない新しい病気が流行し始めた」などの「解決が難しい問題」について同じように考えたらどうなるだろうか。

解決ができず、途方に暮れてしまうだけだ。パニックになり、思考が停止し、最終的には「自分」を見失ってしまうこともあろう。

そんな時、必要なのはその問題と「心の距離」をとって、「自分」を取り戻すことであるが、それはなかなか難しい。長い時間や特殊な環境が必要なことが多いからだ。

しかし、手芸をする人たちは知っている。手を動かせば良いことを。

そうすれば自然と集中し、他のことと「心の距離」をとることができ、「自分」のリセットができることを。

手芸にそういう力があることは注目されていて、編み物が「鬱に効く」ことを学術的に証明した論文が国内外に存在する。

もちろん私も経験がある。

やるせなさに襲われて夜も眠れない時に編んでいると、どうにも落ち着かないような気分は消えていくのである。

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物と心をつなぐ架け橋を取り戻す

この「問題と共生しながら元気でいる力」は「心に効く力」とも言えよう。「心の世界」の話だからだ。

一方、先に述べた「ものが作れる力」は「物の世界」の出来事のように思える。

一見、これらは全く別ものに見えるが、しかし、実際には同じ力の表と裏なのである。

ものを作る行為というのは同じことの繰り返しなどの、忍耐を必要とすることも多い。しかし、「心に効く力」が発動して集中するとそれをなし得てしまうのだ。「ものが作れる力」は「心に効く力」によって支えられているのである。

一方で「心に効く力」については、手芸をする人たちから次のような言葉を聞くことが多い。

「我を忘れて作っていて、ふと見ると今まで自分のやったことが目に見えてそこにあるから『おお!』と感動する」

大袈裟ではない。

日々の中で「自分の成し遂げたこと」を実感する経験はそこまで多くないのだ。我々の行為や時間は近代的分業によって細切れにされ、お金にすりかえられている。そこにいきいきとしたものなど感じられ得ない。

そんな中で手芸をしていると、自分の行為の結果が実感をもった形で目の前に現れるので、そこに感動するのだ。

「ものが作れる力」自体が「心に効く」のである。

様々な人がそれぞれに感じ、各々の違う表現をするだろうけれど、手芸のこれら2つの力が同じものの表と裏であるということは間違いない。手芸をしていると「物」と「心」が表裏一体であることが身体に染み込んでいくのだ。

近代化の中で、私たちは「物」と「心」の架け橋を失ってしまった。必要だったとはいえ、科学や経済を偏重してきたせいであろうと思う。手芸にはその架け橋を取り戻す力があるのだ。

同じような「力」を持つ分野はもちろん他にもあるだろう。

願わくばそれらと並び、「手芸の力」を皆で楽しみながら体感していければ幸いである。

それが新しい時代の扉を開く鍵になるのではないか。

私は、そう思っている。

(文:横山起也 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)