「お金」で幸せになるのは悪いことじゃない。日米の金銭感覚の違いはどう生まれるのか。

日本とアメリカで異なる金銭に対する価値観。その違いを生むのは何だろうか。日米の金銭観がどのように培われるのか、考えてみた。
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plusphoto via Getty Images

弁護士として、約10年日本に住んで

私は約10年、日本企業が保有する知的財産を生かして日本企業の利益を上げようと様々な形で訴えてきた。10年前は知的財産を保有することはある意味で企業の勲章のようで、その価値を最大限に活かそうという意識はあまりなかったように感じている。しかし、この10年で日本企業や大学の活動もグローバル化が進み、特許庁も知的財産の収益化をウェブサイトで周知する等、最近では保有する知的財産権の収益化に積極性が見え始めた。

また、知財収益化を守る一つの手段でもある訴訟提起に対して、日本企業や大学の抵抗感が薄れてきていると感じている。

日本において争うことが好まれないことは知っているが、訴訟という行為はそれとは別物で、ビジネス上の活動として根付きはじめているのではないだろうか。

そんな流れの中で私は弁護士として、世界の市場で日本企業が活躍するのを手伝えることがうれしくてたまらない。

 

お金の使い方に教育の違いは?

こうした日本企業と共にする活動を通じて、私は日本の価値観が変化していると感じている一方で、金銭観はいまだ日本らしさが残っているように感じる。 

例えば、現金の扱い方だ。

日本では祝儀のようにお礼を渡すときには新札の向きを整えて封筒に入れるが、アメリカではそのまま手渡しする。

お金を尊いものだと日常でも表現しているのが日本である。

この感覚はビジネスにおいても感じることがある。例えば、アメリカではこの仕事の報酬はいくらかと直接尋ねることは当然だ。一方で、日本では遠回しな言い方をすることがあるし、お金の話を切り出していいかのや、尋ねるタイミングを窺うのも、異なる点ではないだろうか。

このような違いは、文化や価値観の違いであると言えばそれまでだ。だが、文化や習慣の違いは、収益化の手段である訴訟に抵抗感を示す企業があるようにビジネスの習慣にも及び、国力にも関係するようにも思う。

こうした違いを生むのは何だろうか。私は追究したくなり、アメリカの金銭観はどのように培われるのかを考えてみた。

私は両親からお金を稼ぐことについて特別な教育を受けた記憶はない。しかも、アメリカの義務教育で金銭観について教える科目はない。ただ、アメリカはチェック(小切手)を支払いに利用することから、高校時代にチェックの書き方を勉強する時間はあった。どこに違いがあるのか絞り出すように考えてみても、実感としては大きな違いがあると言えることがないのだ。

 

異なるのは金銭感覚ではない?

ところが、職業観や労働観に関する調査では金銭観に影響を与えるであろう価値観が見えた。

例えば、仕事を選択する際、収入と余暇のどちらを優先するかという問いに対し、日本もアメリカも収入を優先している人が多いのは共通している。しかしアメリカは約6割で、日本は約5割であった。就職の第一条件はアメリカが給料だったのに対し、日本は達成感であった。しかも、給料と答えた割合は日本はアメリカの半分である。

また、別の投資信託の目的についての調査では、投資信託をしている大半の日本人は目的はないと答え、アメリカ人のほとんどが老後の資産形成を目的としていると答えていた。

両国の制度も経済状況も違うから単純に比較することはできないが、やはり違いはあったのだ。

しかし、文化や価値観に違いはあっても「経済を良くしたい」という思いはどの国も同じだろう。経済というと自分からは遠い話に聞こえるが、コロナ禍にあって、困窮するレストラン等をサポートするために料理をテイクアウトしたことはないだろうか。企業のトップはコロナ不況下で従業員を大切に思い、解雇せずにすむよう必死になって利益を追求してはいないだろうか。これも経済をよくするための行為だと私は考える。加えて、気の合う仲間との食事や旅行等は豊かに生きるために必要なことだし、我が子が少しでも良い暮らしをできるように貯金することも大切なことだ。

 

自らが「お金」で幸せになるのは悪いことじゃない

これらすべてが「お金」によってもたらされていることではないだろうか。先の調査や日頃の付き合いから、日本人はアメリカ人に比べ、利他的、日常生活においてほかの人の役に立とうという気持ちを優先しているように感じる。利他的な価値を優先するのであれば、企業は株主のために様々な形で収益化する活動に励めばいいと思う。さらに言えば、税金の使われ方や仕組みを教える機会を義務教育に組み込んで、労働は社会貢献につながっているのだと、次世代の若者たちがより現実的に理解できる仕組みを作ってもよいかもしれない。

しかし、これら利他的な信念を充足させる取り組み以前に、私は自らが幸せになってよいと思う。自らの幸せを追求することは悪いことではないのだから。

(編集:榊原すずみ