母親の「産後うつ」とも違う、娘0歳時の僕のうつ。父との関係からつくられた、強い父親像

女性の「産後うつ」のような症状は、男性にも起こりうることが知られ始めています。娘の誕生後、「父親は強くあらねば」と力みすぎてうつに苦しんだ、ライター・遠藤光太さんによるブログです。
|
Open Image Modal
筆者の父撮影
筆者提供

娘が生まれて半年も経たない時期に、父親の僕がうつになった。    

母親の「産後うつ」リスクの問題は近年特に顕在化しているが、父親もまた、子どもが生まれたばかりの時期に、うつリスクが高まることが報告されている。 

僕は、父親は強くあらねばらないと信じ、頑張っていたが、頑張りすぎてうつになってしまった。そして、勤務先の会社を長く休職することになった。元を辿れば、僕の父親の子育てが大きく影響していたように思う。父は、ずっと強く生きようとしてきて、その背中を見て僕は育った。

父は、僕のうつを認めようとしなかった。最も苦しい時期にかかってきた電話で、とうとうと自分語りをされ、「頑張れ」と言われた。早く電話が終わってほしかった。

「家族を持っているのだから、もっと頑張れ。君のためを思って言っている。俺は家族を養って頑張ってきた。愛情を持って育ててきた。だからまだまだやれるはずだ」

後に、父とは絶縁状態になった。僕は傷つき、彼から距離を取った。しかし3年後に和解した。その経緯は、この記事の終盤に譲る。

 

沖縄の小さな島から東京に出た父の“頑張り”

まずは、僕の父親について語っておきたい。

父は沖縄の小さな島で生まれ、6人兄妹で海とともに育った。7歳まではアメリカの統治下にあり、貨幣はドルを使っていたそうだ。彼が高校生のとき、不慮の事故で父親(僕の祖父)を亡くした。高専を卒業して航海士の仕事を始め、成人してから東京に出てきた。同じく沖縄から出てきた母との間に長男として僕が生まれ、以降3人の子どもを育てた。

周囲に頼れる人もほとんどおらず、自身の父親も世にいない状況にあって、父が東京で僕たち兄弟を養うためには、強くあらねばならなかった。慣れない陸地でのオフィスワークに転職し、住宅ローンを支払った。母は専業主婦やパートが長かった。今思えば、父は弱音を吐けるような人間関係を持っていなかったのだと思う。現代のようにSNSで誰かとつながれる時代でもなかった。孤独だが、「強く」生きてきたという自負がある。

しかし父もまた、根っからの強い人間ではなかったのではないかと僕は思う。時代や環境がそうさせた。ストレスは酒で発散させた。無理をしていたのだと思う。その「無理」があってこそ、僕たちは子ども時代を安心して暮らすことができたのは事実だ。

Open Image Modal
筆者が子どもの頃に描い た、航海士の仕事
筆者提供

「大学に行きたかった」と父は言った

成人してから、父と2人で浅草演芸ホールに落語を聴きに行き、そのまま近くの安居酒屋で昼から酒を飲んだことがある。「大学に行ってみたかった」と父は言った。東京で僕が生きてきた人生は、彼の生きたかった人生だった。

父は勉強が得意だった。しかし兄妹も多く、父親を亡くしたばかりの彼に、大学進学という選択肢はなかった。自分が働いて支えなければ、と思ったそうだ。当然のように、彼の父親と同じ「船に乗る」という職業選択をし、高専を出てすぐに国内外を運航する貨物船に乗った。

船に乗り、沖縄から世界のさまざまな国に出て、多くの人と触れ合った。彼にとっての「外国」の中でニュージーランドか東京が良いと考え、結果的には東京を選んで子育てをした。子どもたちの選択肢を増やすためだ。

そして僕は、東京で育った。父には叶わなかった「大学」を出て、結婚し、子どもが生まれたときには、強くあらねばならないと無意識に考えていたと思う。しかし僕は強くなかった。発達の特性による影響もあり、押し潰されてしまった。

そして衝突した。「頑張ればどうにかなる」と信じる父と、「もうどうにもならない」と追い詰められた僕とでは、一切の折り合いがつかなかったのだった。

 

平成の空気感を知った、ある人との出会い

僕が父のことをこうして客観的に書けるようになったのは、つい最近のことだ。

きっかけは、父と同世代のAさんと出会ったことだった。Aさんは生きづらさを抱え、職を転々としながら、新興宗教や自己啓発セミナーを渡り歩いていた。仲の悪かった父親の介護を終えて看取り、54歳で発達障害の診断を受けたタイミングで、僕は彼と出会った。

Aさんは博識で、話すことが得意だ。彼が生きてきた時代のことを多く教わった。僕の育った(かつ、僕の父が父親になった)平成初期から中期にかけての時代の空気感がよく見えてきた。バブルが崩壊し、それでもなお企業戦士として闘う人々の息吹が感じられた。小さな島から東京に出てきた父の“頑張り”が垣間見えた。

父に僕を傷つけることばを吐かせた環境や背景を、悔しいことに、僕は理解できてしまったのだ。父が、弱い僕を理解できなかったことも、僕は理解してしまった。そうして和解した。

Open Image Modal
父の育った沖縄の海
筆者提供

自分なりの父親像をつくる

父には父の父親像があり、僕には僕の父親像がある。ただそれだけの話だ。

しかし僕たちは、育った場所や環境の影響や期待を強く受けてしまう。父もそうだったし、かくいう僕自身もそうだった。僕は娘が生まれたとき、強く力んだ。父親になるということを過剰に意識した結果として、うつになり、自分のコントロールが効かなくなった。異なる社会環境や育ちの父親を、参考にしすぎていたのだろうか。 

僕は、頑張ることに逃げて、自分を見つめ直すことを怠っていたのかもしれない。逃げ切れる人もいるだろう。しかし僕は違った。頑張りすぎてしまう前に、自分を知って受け入れる必要があった。他人と自分を切り離して考えたほうがよかった。

「疲れた」と口に出す。「今日はがんばらない」とSNSに書く。そんな些細なことから訓練した。うつになってしまうこともある。しかし、うつになった自分も受け入れようと思う。弱くてもいい。

娘は小学生になった。寝る前に「今日いやだったこと」を互いに話したりして、弱さを共有している。僕はそうして、自分なりの父親像をつくっていきたい。

もしも今まさに小さな子どもと暮らして苦しんでいる父親がいたら、この文章がほんの少しでも生きる手がかりになってほしいと願う。

(文:遠藤光太/編集:毛谷村真木