「白ごはん.com」の冨田ただすけさんが、料理をつくる人になるまで。

料理ビギナーからベテランまで幅広い支持層をもつ料理研究家の冨田ただすけさん。どんなものを食べて育ち、どんな“食歴”をもつ人なのか、インタビューした。
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白央篤司

冨田ただすけさんという料理研究家をご存じだろうか。

 

「白ごはん.com」という和食中心のレシピサイトを運営し、

1日に約60万PV、年間で2億PVをゆうに超える人気を誇っている。

料理ビギナーからベテランまで、支持者は幅広い。

 

ファンの方々にその理由をたずねれば、

「どのレシピも確実においしくできる」

「わかりやすくて、作りやすいという点ではナンバーワン」

「私、料理上手になれたかも……と思わせてくれる」

そんな熱い声が、次々に聞かれる。

冨田さんって、どんな人なのだろう? 

どんなものを食べて育ったのか。どんな“食歴”の人なのだろうか。

会ってみたくてたまらなくなり、名古屋近郊にある彼のスタジオを訪ねた。


(聞き手:白央篤司)

冨田さんのスタジオは2階にあり、窓が大きくとられて、訪ねたときには秋の昼の光がたっぷりと差し込んでいた。料理スタジオだから食器や調理器具などはたくさんあるものの、整然と片づけられて、無駄なものがない。白が基調となって清潔感があり、スッキリとした空気が流れている。

「まるで、白ごはん.comのサイトそのものだな」と思った。

 

小さい頃につくった料理の思い出

――小さい頃の食とのつながりからお聞きしたいです。まず、冨田さんが生まれ育ったのはどちらなんですか。

山口県の下関市に18歳まで住んでいました。魚が安くて、おいしいところ。父方の実家は島の漁師町にあるんですよ。親戚が集まってると、よく漁師さんが「これ食べてー」と魚を持ってきてくれる。

父がよく素もぐりに連れていってくれて、ウニをとったり魚を突いたりしました。僕は全然泳げないんですけどね。いっぽう母方の祖父の家には畑があって、いつも野菜をくれて。一緒に野菜を収穫したこともあります。

――料理に興味を持ったのはいつごろでしょう。

母親の手伝いは小さい頃からしてたんですけど、小学校中学年ぐらいかな、僕は2歳上の兄がいるんですが、母親が「土日はふたりで作ってよ」って、お金渡されて、ふたりで相談して作るようになったんです。だんだんと「こういうの作りたい」って思うようになっていきましたね。

――どんなものを作っていたんですか。

うちは本当に魚と野菜ばっかり、和食ばっかりの家だったんですよ。子どもからしたらステーキやハンバーグに憧れがあるじゃないですか。遠足に行っても、僕の弁当すごく茶色いんですね。隣の子を見るとミニトマトなんか入って、キラキラしてうらやましくて。だから、「普段食べられないものを作ろうぜ!」って。 

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白央篤司

――お金を渡されて買い物からする、というのがいいですね。1食の予算は、どのくらいで?

全然覚えてないんですけど、そんなにもらえてなかったと思います。行きつけのスーパーで安いものをどう見つけるか、ぐらいのやりくりはしてたと思うんですけどね。

――料理研究家さんは親御さんが料理好きのケースも多いですが、冨田さんの場合はどうですか。

うちの母は、楽しんでやるタイプではないですね。兄にアレルギーがあったこともあり、手づくりしていたんだと思います。外食はほとんどしませんでした。

――学生時代はずっと料理を?

「料理が趣味です!」というほどじゃないですけど、高校生の頃は、遊びに来た友達を料理でもてなしていました。「お腹空いた? じゃあチャーハン作るわ」とか「最近豚キムチをうまく作れるようになったから、食べてよ」って。

――それはもうじゅうぶん趣味ですよ(笑)。好評でしたか。

「あのときの豚キムチはうまかった」って、今でも言われます(笑)。

 

そして19歳の春、

大学進学で冨田さんは、愛知県名古屋市へ移る。

アルバイト先は当然のごとく、飲食関係を選んだ。

 

――学生時代はどんなアルバイトをしていたんですか?

洋食屋さんや、お惣菜屋さんのキッチンで働いてました。その頃からだんだんと「将来も食関係の仕事をしたい」と思うようになって。自炊もしていましたが、家でひとり分作るのとは経験できることが全然違う。

20人分のハンバーグのタネをまとめて作ったり、おにぎりをずっとにぎりつづけたりして、次第にうまくなって、自分が改善されていくのが分かって、楽しかったです。ただ洗い物をしていたとき、「そんな遅い作業じゃダメだ」と怒られて。ショックでしたね。

しっかり洗って、よくすすいで、

「お皿がヌメヌメしてないか、きっちり確認して洗い終えたかった。

急がなきゃいけない、というのは分かるんですけど」

そう、冨田さんは言葉を続ける。

 

そのときの無念が、まだ胸にあるように思われた。

食に関しては譲れない部分が、ごく若いうちからあったのだろう。

 

就職して、飲食の世界へ

――さて、大学卒業後は『ロック・フィールド』に入社されるんですね。「RF1」「神戸コロッケ」など、デパ地下や駅ビルでおなじみの惣菜店を全国展開している企業。静岡県に引っ越して、磐田市の郊外に住んでいたとか。

お惣菜の会社を選んだのは、「もしかしたら将来、自分はお惣菜屋さんをやるのかな」という思いがあったんです。いずれは独立してやりたくなるだろうって、就職活動中から思っていました。

朝の就業は4時から。工場で大きな釜を3つほど担当して、だしを取ったり、ドレッシングを作ったり、野菜をゆがいたり。仕事はすぐに慣れました。でも料理のスキルや知識もまだまだ足りないぞ、という思いが同時に強くなっていって。言われたとおりにやっているだけではダメだ、って。

 

そんなとき、『きょうの料理大賞』というコンテストを知る。

NHKの名物番組『きょうの料理』の企画で、一般視聴者のオリジナルレシピを募集するものだ。

 

「自分なりにレシピを考えて発表する、というのはどういうことだろう?」

冨田さんは、応募を決意する。就職してもうすぐ1年が経とうとしていた。

 

――どんな料理を考案されたんですか。

「ぬか漬け生春巻き」です。ちょうどRF1で生春巻きがすごく売れていた時期だったんですよ。僕も工場で生春巻きづくりに駆り出されることもしばしばあったので、巻くのは慣れていましたし、巻くのにちょうどいい生野菜の量も分かっていました。その生野菜を一部ぬかづけに替えたらどうかな、と。

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白央篤司

最終的に、キュウリのぬか漬けに、納豆を合わせた生春巻きを創作。

審査員に好評を得て、冨田さんは準優勝となる。

 

当時のことを、制作の現場にいたNHKエデュケーショナル・矢内真由美プロデューサーはこうふり返る。

「冨田さんは2002年の『きょうの料理大賞」に応募され、私はそのとき事務局に関わっていました。とても印象に残る一人です。応募は3000通あまり、最終審査に残るのは12人ですから、すごい倍率を勝ち抜いてきた方。

男性で、ぬか漬けを愛し、それを若い感覚の料理に仕立てた生春巻きは斬新でした。受け答えも大変落ち着いていて、料理が日常だとわかる手つきで、まっすぐな情熱のあることがうかがえました」 

――収録で、何か記憶に残っていることはありますか。

番組の収録が終わってから打ち上げになって、審査員のひとり、(中華の料理人の)陳建一さんが「お前、明日空いてるか?」っていきなり声かけてくださったんです。「空いてたら、赤坂の店に来い」って。翌日訳も分からず行ってみたところ、コック服に着替えさせられ、厨房に連れていかれて。そこで陳さん自ら料理をするところを見せてくれて、「このあと雑誌の撮影があるから、それも見てみるか?」と誘ってくれたんです。

――それはすごい。「仕事としての料理」のいろいろな形を実際に見せてくれたんですね。

 

きちんと料理を勉強し直したい、という気持ちがどんどん強まっていた。

『ロック・フィールド』を1年勤めたのち退社し、

大阪・阿倍野の辻調理師専門学校へ入学する。

 

――在学中、いかがでしたか。

幅広く学ぶことができましたし、あっという間の1年でした。そして、自分は手先があまり器用じゃないことも分かったんです。餃子や肉まんを包むとき、うまい人はめちゃくちゃうまいのに、自分は練習してもそんなにうまくいかない。もっと器用だと思っていたのに(笑)。うまい同級生の存在はいい刺激になりましたね。あと、この時期にいろんなところで外食経験ができたのもよかったです。

――2004年に卒業され、大学時代を過ごした名古屋に戻るんですね。『金毘羅』という和食料理店(現在は閉店)に就職される。

大学の後輩のお母さんがグルメな方で、「とっても面白いお店ですよ」と教わったんです。昼夜の懐石はもちろん、弁当の仕出し、料理教室など営業形態が幅広くて。「ここならいろいろなことが体験できそうだぞ」と。

料理人は全員で僕含めて4人。味つけは上の方ふたりがやるんですが、お弁当の調理などは僕たちも担当させてもらえて、すぐ責任を持たせてもらえた。下働きだけじゃなかったのが、よかったです。何より勉強になったのは、あらゆる食材の下ごしらえや管理の仕方。今、サイトをやる上での大きな財産になっています。

大将は「凝った盛りつけをするな」という考えの人でした。季節感を出す上で、和食だと紅葉を飾ったりとかありますよね。わざとらしくではなく、「そこにたまたま落ちてきた、そんなふうに盛りつけろ」って。3年ほど勤めました。

――辞めると決めた理由は、なんだったのでしょう。

料理店にいた3年間は「仕事=自分の生活そのもの」で、体力的にも時間的にも他の事に向かう余裕がなかった。妻との結婚を考えたり、自分の仕事や料理との向き合い方を見直したりしたくなったんです。

妻とは大学時代からつきあっていて、就職してからずっと遠距離で。ようやく名古屋勤務で近くになったのに、朝から晩まで働き続ける日々。休みの日でも、ぬか床管理は僕の仕事だったので、出社しなくちゃいけない。それが苦ではなかったんですけど、相手はね……やっぱり。

 

将来設計を考える上で、料理店勤務を続けるのはむずかしくなった。

同時に、「食品の商品開発をやってみたい」という思いがあったと、冨田さんは言う。

 

ちょうど食品加工メーカーの『寿がきや食品』が社員を募集中。

応募して、採用と相成った。

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白央篤司

――東海地方を中心に絶大な人気のある『寿がきや食品』ですが、冨田さんは何をされていたんですか。

製造開発部門です。スーパーなどにおろすチルド麺(うどん、そば、ラーメン、パスタ等)の開発が主でした。自分で麺やスープを作るところからはじまって、配合と調味を考えて、まず研究室で作る。それを今度は工場での製造量に落とし込んで考えて。ビーカーでスープを作っては、次に1トン単位でどうなるか考えるんです。

飲食店さんとのコラボもあって、お店の大将に作り方を教えてもらい、濃縮スープとして商品化することもありました。営業から言われたことをやることもあれば、自分で起案することもできて。面白かったですねえ。

――和食店の板前から、まったく違う畑に行かれましたね。

懐石のお店で、原価の高いものをさわらせてもらっている間に、世の中で多くの人が食べている手軽なもの、加工食品の「味づくり」も知りたくなったんです。高級和食店で調理とサービスを経験するうちに、もっと家庭的なもののほうが自分のほうには合っているな、と。