暴力を振るう父と兄。冷たい母。家族に絶望していた私が、他人と共に暮らそうと思った理由

大人になってから知った、親と子の間に理解と思いやりがある家族関係。そういう家庭を作れるなら、私もチャレンジしてみたいという欲が湧いてきたのだ。
Open Image Modal
イメージ写真
Olha Khorimarko via Getty Images

父の機嫌をとるのに必死だった幼少期

私の育った家庭は、父が治める王国だった。アルコールに溺れていた父は毎晩のように酔っ払って帰宅し、母に暴言を吐き、時折殴った。私は真っ暗闇の寝室で両親が罵り合う声を聞きながら眠りについた。父は博打にもハマっていたので、家の家計はいつも火の車だった。

幼い私は父の機嫌を取るために必死だった。だから学校から帰ってきたら、父の革靴にクリームを塗り、ピカピカになるように磨いた。しかし、子供ゆえ、うまく磨けず、会社に行った父から電話がかかってきて「あの靴を磨いたやつは誰だ!」と怒られてしまった。私は「なぜ、もっと上手にできないんだ」と自分を責めた。

父に褒められたのは、肩揉みだった。小学生の私は父の大きな肩を一生懸命揉んだ。「うまいな、エリコ」と言われると嬉しくなって、手が疲れても揉み続けた。その一方で、私はストレスが高じて、子供でありながら酷い肩凝りに悩まされていた。肩凝り以外にも体の不調は多く、体の節々が痛くて、保健室に逃げ込むことが多かったし、不安に苛まれていた毎日から、授業中に突然泣き出すこともあった。

 

褒めてくれたことのなかった母

母は父の暴力と経済的DVから、感情が鈍ってしまっていたようで、いつも能面のような顔をしていた。子供の頃の母の思い出はあまりなく、いつも無口で不機嫌そうで、黙々と家事をこなしていたという印象が多い。

私が絵画コンクールでもらった賞状を渡しても飾ってくれたことは一度もないし、100点のテストを見せても褒めてくれないので、母の興味は私にないのだと悟った。しかし、家からお金が出ていくことに関してはとても敏感だった。

中学生の頃、私は仲の良い友達によく電話をしていた。兄も高校生になっていて、友達との電話が多かった。母は私たちに「電話を控えるように」と言うようになったが、私たちはいうことを聞かなかった。そうしたら母がNTTに依頼して、うちがかけた電話番号とかかった料金が書かれた紙を取り寄せた。

「自分がかけた分の電話料金を払いなさい」と、母は子供である私たちにお金を請求した。私たち兄妹は自分たちのお小遣いやお年玉から電話料金を支払った。

 

暴力は、父だけではなく兄からも

兄は私に暴力を振るうことで、家でのストレスを発散していた。子供の頃、兄はひどく私を殴り、冬の日に裸足のまま家の外に締め出し、鍵をかけた。私はドアの前でずっと泣いていたが、家の中にいる兄も母も助けてくれない。たまたま来た保険のおばさんがチャイムを押して「悪いことをしたのだろうけど、許してやって」と、母に言ってくれたおかげでやっと家に入れた。

兄は中学になると、ヤンキーになり、改造した制服を着て、髪の毛を茶色にし、色々と悪さをした。

 

両親が離婚したことで、すべてが好転した

そんな歪んだ家族で育った私は、幼い頃から病気がちだった。原因不明の腹痛、頭痛、耳鳴りに悩まされ、たくさんの大学病院に行き、いろんな種類の薬を飲んだ。

「お前みたいに体の弱いやつは中学生にはなれないだろう」と小学生の私に向かって父は言った。しかし、私の体が悪いのではなくて、私の家が病気だったのだ。その証拠に父と離婚してから、母は元気になった。よく笑うようになり、表情が豊かになった。

父はようやく自分で家事をするようになり、収入が減ったため、大好きだった博打をやめた。大酒を飲んで倒れてから、酒の量も減った。

兄はすんなりと結婚して、家庭を持ち、いつの間にか落ち着いた。

私は自立するまでに時間がかかったが、1人で稼いで生活するようになってから、ずいぶん元気になった。原因不明の耳鳴りや腹痛は一切なくなった。肩こりは相変わらずひどいが、運動やストレッチをして自分で対処することを覚えた。そして、子供の頃からずっと「死にたい」と考えていたが、それを考えることがずいぶん減った。

 

一人暮らしは自由だけれど、寂しさがつのる

私が幼い頃から結婚願望がなかったのは、家庭を作ったら、あの地獄のような生活がまた始まってしまうのではないかと考えたからだ。

母に「普通に結婚して欲しかった」と泣きながら言われたときは、本気で怒った。母のようにはなるまいと決意して生きてきた私の選択肢に「結婚」は少しもなかった。

 

自分で稼ぐようになり、一人暮らしも10年目に差し掛かろうとする頃、不安を覚えるようになった。死ぬまで、このアパートで一人きりで暮らすのだろうかと考えると恐ろしくなるのだ。

「ただいま」も「おかえり」もない生活は自由だけれど、寂しさがつのる。毎日のちょっとした愚痴や、些細な出来事を報告する相手が欲しいと思い始めた。友達と電話で話したいと思っても、仕事が忙しかったり、子育てで余裕がない人ばかりだったりで、気軽に連絡を取るのもはばかられる。

Open Image Modal
イメージ写真
Ponomariova_Maria via Getty Images

私が育った家庭とは違う家庭作りにチャレンジしたい

そして、大人になってから、この世の中に存在する家族が、私が体験したものと同じではないということも分かってきた。親と子の間に理解と思いやりがある関係も存在するのだ。

私の友人は実家を出て自立した後も数ヶ月に一回は実家に帰っているという。友人は学生時代、弁護士を目指しており、大学を卒業した後も、専門学校に通い、何年も試験を受け続けた。その間の生活費や学費を親御さんが出してくれたというのは、私からしたら信じられない話だ。見事試験に受かり、弁護士として働く彼女を見ていると、親の理解があるということは、子供にとってどれだけ救いがあることかと感じる。そして、彼女の姿を見て、自分の中の認識が間違っていたと気がつくことができた。私の家庭と似たような家庭もこの世の中には多く存在するけれど、そうでない家庭も確実に存在するのだ。そういう家庭を作ることが可能なら、私もチャレンジしてみたいという欲が湧いてきた。

 

1人で生きることに苦痛を覚え、恋人探し

そして、情けない話だが、お金の問題もあった。一人暮らしというものは、出ていくお金がとても多い。一人暮らしを始める際、家具や家電を揃えるのは一苦労だったし、毎日の食事も一人分を作るのはコツがいる。同じ食材を使いまわしたり、飽きないように工夫をしたりしなければならない。「1人口は食えぬが2人口は食える」ということわざがあるように2人で暮らした方が確実に経済的だ。

さらに、私はいまだに非正規のパート社員として働いている。当たり前だがボーナスをもらったことは一度もない。退職金ももらえない。年末年始やゴールデンウィークがあると、次の月の給料がぐんと減るので生きた心地がしないのだ。

私は1人で生きることに苦痛を覚えるようになり、どうしたらいいか悩んだ末、マッチングアプリに登録して、恋人を探した。ずいぶんたくさんの人に会ったが、誰ともうまくいかなくて、結局マッチングアプリは退会した。もっと違う人脈から出会いを探そうと思い、日替わりで店長が変わる形式のお店を借りて、一日店長をやり、いろんなお客さんと会った。その中にいたお客さんの1人と仲良くなり、2人で会うようになった。その後、交際することになった。そして、その一年後、同棲を始めた。

それはあくまで同棲であり、結婚を見据えた「お試し期間」ではない。「結婚」となると、足踏みをしてしまう自分がいまだにいる。私の中の「結婚」のイメージはそれくらい良くないものなのだ。

 

お金が生む、家族間の力の不均衡をなくしたい

同棲を決めたけれど、自分が育った家族のことを忘れていたわけではない。少しの甘えや、気の緩みで、家庭という場所が帰りたくない居心地の悪い場所になるということは理解していた。

「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」が口癖の父の元で育った私は、お金を稼ぐものが一番偉いのだと叩き込まれていた。もちろん、父が稼ぐことができるのは、母が家事と育児を全てやってくれているからだが、目に見えるお金を稼いでくる父に反抗することは難しかった。

お金が家族の間に力の不均衡を生むのなら、それをなくしたいと私は考えた。そこで、私は彼氏と暮らす際、生活費はきっちり半分にすることにした。一つの口座にお金を入れて、そこから家賃や光熱費を支払うことにした。そして、2人で共用の財布を作り、そこから食費や生活用品を買うことにした。こうすればお互いの間に力関係が生まれないだろう。

父も母が生活費を半分出していたら、もう少し優しい男になったのだろうか。そんなことを考えてみたが、私の親の世代で共働きをしていた人は少ない。男女の労働環境の不公平が今よりも強い時代なのだから当然だろう。

 

仲良く暮らすために、最悪の時のことを考えておく

引越しをして一週間ほど経った時、これからの生活の仕方について、彼氏と話し合いをすることにした。私はポストイットをテーブルの上に出した。

「ここに思いつく限りの家事を書こう」

『料理』『ゴミ出し』『部屋の掃除』『洗濯』『買い物』『トイレ掃除』『布団干し』『風呂掃除』・・・・

机の上はあっという間にピンクのポストイットでいっぱいになった。

「こんなものかな」

私がいうと、彼氏もうなずく。

「じゃあ、自分がやりたい仕事をとっていこう」

私は料理が得意なので、『料理』のポストイットを手に取る。料理をするなら買い物もやったほうがいいので、『買い物』もついでに自分の手元においた。彼氏は『ゴミ出し』と『部屋の掃除』を手にとった。

「掃除は週に何回すればいい?」

彼氏が聞いてきた。

「最低でも週に一回かな。部屋の汚れが気になったときは私もやるよ」

そう答える。

家事の仕分けをしながら、お互いの認識を確認し合う。ちゃんと言葉で確認しないと、思っていることは伝わらない。

「何か、不公平だなって思った時とか、言いたいことがあったときはすぐに言ってね」

私は彼氏に念押しした。

当たり前だけど、私が育った家庭では家事の分担なんて一つもしていなかった。ただ、全てを母がしていた。でも、それは間違いだったのだ。一緒に生活をしているのに、家事を1人に押し付けるのはおかしい。私が作る新しい家庭では、前の家のような不公平なルールは適用したくない。

 「あと、新生活を始めたばかりになんだけど、これも話し合っておきたい。別れたくなったらどうするか」

私はなるべく平静を装って口を開いた。当たり前だけど、彼氏のことは大好きだ。別れたいと思ったことはない。しかし、永遠や絶対というものはこの世に存在しない。それが、私があの家族から学んだことの一つでもあった。

「どちらかが浮気をしたら、慰謝料を払って別れるんじゃないの?」

彼氏が答える。

「それは、結婚っていう契約をしている場合でしょ?その場合は契約違反だから、慰謝料を払うだろうけど、結婚していない私たちだと、少し違う気がする

口を開かない彼氏の代わりに私が続けた。

「こういうのはどう?他に好きな人ができたり、別れたくなったほうが、次に住むところの引越しの代金を全部出す。相手の新居の電化製品とか、家具も」

私が提案すると、彼氏はうなずいた。

「ああ、それならいいかも。そうしよう」

私は決まったことを手元の紙に書き込んだ。すべて決まったらほっとして、2人して笑い合った。

「仲良くやっていこうねえ」

別れた時の話をしたけれど、この言葉に嘘はない。仲良くやりたいからこそ、最悪の時のことを話し合っておくのだ。

Open Image Modal
イメージ写真
ilyaliren via Getty Images

家族より、他人の彼の方が私に優しくしてくれる

私は機能不全家族で育った故に、せめて自分の家の中だけでも、平等で平和な世界を築きたいと願っている。そもそも、家庭というものは安全で安心できる場所であるはずだ。だからこそ、幼い頃経験できなかったそれを、これから経験していきたい。

暮らし始めて一ヶ月余り経ったが、喧嘩は一度もしていない。私が料理を失敗してしまっても、怒りもせず「美味しいよ」と言って食べてくれる。私に言われなくても自分の担当の家事を率先してやってくれるので、とても助かっている。

一人暮らしの時は料理に洗濯、掃除と忙しかったけれど、負担がぐんと減った。血がつながっていない他人の彼の方が、私のことを気遣ってくれるし、私に優しくしてくれる。私は両親に愛されないことを恨んでいたけれど、それを求めていたのがバカバカしくなった。血の繋がっていない他人の方が血の繋がっている家族よりうんと優しい。私は愛を家の中にでなく、外に求めるべきだったのだと、やっと気がついた。

仕事が遅くなった時、自分の家に明かりが点っているのを見ると気持ちが嬉しくなる。子供の頃は自分の家に帰るのがとても嫌で、公園のジャングルジムに登って時間を潰していた。街の高台にある公園のジャングルジムからは自分が住んでいる街が一望できて、街明かりがキラキラと揺らめいていた。こんなにたくさん家があるのに、自分が帰る家がないのが悲しかった。

今は街明かりの中に自分の家を探すことができる。それはとても大きなことだ。

家族に絶望した私が、家族を再建するのは、とても壮大な実験だ。この実験の成果が良いものになることを祈る。

(編集:榊原すずみ)