「恐れ多い」「SNSで見てる人たちと比べて...」情報の大海に生きる僕らが無力感に溺れないためには?

画面上で指を滑らせれば、“雲の上”と思えてしまうものが次々と押し寄せる。広大なネットの海は、人をある意味で不自由にしているのかもしれない。

ここ10年で、すっかり世界に欠かせない存在となったインターネットやSNS。

あらゆる情報を繋いだ大革命は代償も大きく、ときとして人の生死に関わるほど、人間を乱暴な生き物へと変貌させてしまう。

一方で、文章を書く僕のような人間には、そこにはもっと静かな危険が横たわっているようにも思える。 

知らないうちに人の心に根を下ろし、気づいた頃には自尊心や勇気を食べ尽くしてしまう恐ろしい危険、

「“雲の上”が見えすぎてしまう」という危険が。    

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by nacoki ( MEDIA ARC ) via Getty Images

「あなたはアクティビストですか?」

この危険に気が付いたのは、新型コロナの世界的流行によりポツポツと開催されるようになった、オンラインでのシンポジウム(勉強会)やディスカッションのイベントがきっかけだった。

ある日、僕が参加したディスカッションイベントのテーマは、SDGs入門。国連加盟国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標のことで、環境問題やジェンダーギャップ、教育格差など、大きく分けて17個の問題解決がより良い世界を作り上げていくための目標として掲げられている。

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mikroman6 via Getty Images

その日のイベントの参加者は20歳前後の学生が多く、少し上の先輩の世代もちらほら。用意された資料に参加者全員で目を通した後、主催者が早速アイスブレイクの質問を投げかけた。

「あなたはアクティビスト(活動家)ですか?」

4人グループに分けられた参加者たちは、それぞれに質問の答えを話し合う。僕も割り振られたチャットルームに入り、簡単な自己紹介をして話が少し盛り上がったところで、本題を切り出してみた。

「えっと、皆さんの答えはどうですか?自分をアクティビストだと思いますか?」

これまで滑るようにして進んでいた会話が、急に錆び付いたように鈍くなる。

「う~ん 」という声が沈黙をなんとか繋いだ後、ジェンダーを学ぶサークルに所属しているという大学生が、自信なさげに口を開いた。

「アクティビストにはなりたいけど...。これといって業績も残せていないし」

すると他の1人が安堵したように大きく頷き、「僕も環境問題に関心があって、憧れてはいるけど知識が足りなすぎてアクティビストとは恐れ多くて言えない」と続けた。

2人に呼応するかのように残りの1人も、「私も、SNSで見るような人たちとは天と地の差 」と諦めたような声で胸中を明かす。

特に大きな活動をしている訳ではないけれど、ジェンダー問題に強い関心を寄せてきた僕は「YES」と答えるつもり満々でいたので、言葉に詰まってしまった。「ケイさんは?」という質問にも、適当なことを並べて濁してしまったのが、なんとも情けない。

イベントの最後は、参加者全員でオープンディスカッション。ここでも例の質問の答えは似たような感じで、「なりたいとは思うけど...」が枕詞の如く飛び交うばかり。

「恐れ多い」「SNSで見てる人たちと比べて...」という参加者の声色は謙遜というより無力感に近い響きがあり、もの寂しい気持ちになったまま、イベントは幕を閉じた。

 

「情報の大海」を生きる1人の当事者として

「YES」を用意していた僕だけれど、実はその無力感にも酷く共感できてしまう。というのも、万物が画面の中に収まり繋がったいまの社会は、その膨大な情報の大海に飲み込まれてしまうリスクと背中合わせでもあるのだ。

僕がこんな風にして公の場で文章を書き始めた頃、周囲に「ライターやってるんだよね?」と聞かれる度に、「そんなカッコいいものでは...」と足がすくんだのを覚えている。

そして、その背景にあったのが、ほかでもないSNSの存在だ。

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筆者提供

ブログやnoteなど、誰でも文章が書けるプラットフォームが溢れた今の時代には、美しい文章を無限に読める喜びがある。

一方で、書き手のプロフィールに目を移せば「普段は看護師」「どこにでもいる大学生」などという肩書きで、「絶対に自分なんかよりセンスがあるのに、自分は本当に『ライター』なんて肩書きを名乗っていいのか?」としょぼくれていたのだ。 

もちろん、ネットがない時代でも雑誌の公募コラムなどを覗けばそういったものはあっただろう。けれど、そんな風にして作品とわざわざ「出会う」のと、画面上で指を滑らせるだけで無限に流れてくる作品を「受け取る」のとでは、込み上げてくる気持ちも変わってくる。

手探りで小さな出会いや経験を重ねる前に、“雲の上”と思えてしまうものが次々と押し寄せる。その激しい流れの中で「負けていられないぞ」という気概を持ち続けることは、決して容易ではないのだ。

それは「ライター」であれ、「アクティビスト」であれ、他のどんな創造的「活動」にも同じように言えることではないだろうか。

 

「無力感」は、大海に出た者の証

とは言えど、ネットのない世界はもはや想像もつかないし、泣き言ばかり言っていられない。「アクティビストになりたいけど...」とただ俯いてしまうのは、やっぱり悲しい。

では、そうした大海で溺れることなく、力強く泳ぎ続けるために何ができるだろう?

答えは色々とあるかもしれないが、僕は「その無力感やコンプレックスは、そこに飛び込んだ者だけに与えられた証だ」と考えるようにしている。

...なんだ、月並みじゃないか。そう思うかもしれない。

けれど、複雑な世界で助け舟となるものは、あんがい単純なことが多いものだし、自らの意思で踏み出した1歩目はやっぱり尊い。

その先にある無知の知も、劣等感や無力感も、全ては「知ろう」と海に飛び込んだ者だけが得られる 対価 なのだ。そして、表立ったことなどしていなくても、1歩目を踏み出したこと自体が、そもそも胸を張るべき立派なアクティビズムなのだ。

「これをしてないなら十分にアクティビストとは言えないね」などと、個人の物差しで乱暴に測ることなど、誰にも出来やしないのだから。

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Alexmumu via Getty Images

 僕自身も、溺れそうになる度にそのことを思い返している。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、SNSとの付き合い方が分からずに苦しむ人が多い今の時代で、共にそれを思索して社会に話しかけるこの営み自体が、僕にとっては立派なアクティビズムの一貫だ。

「ピカピカの文章がとめどなく流れるネット世界に、こんな細々とした文章を出すなんて無意味だ」という気持ちが僕の自尊心を食べてしまいそうな時は、一呼吸して思い出している。

この「無力感」は大海に出た者の証なのだ、と。そうやって自分で泳いでいく先に待っている、同じように大海に飛び込んだ人たち、アクティビストたちとの出会いに胸を踊らせながら。