想像してほしい。
目隠しをして、数十メートル全力疾走した後、思い切り跳ぶ。暗闇の中、頼りは指示役が送る声と音だけ。
パラ走り幅跳び高田千明選手は、その状態で、4メートル69センチ跳ぶ。もっとも重い視覚障害クラスの女子日本記録だ。
リオパラリンピックに続いて、東京パラリンピック代表に内定している。
自身が持つ日本記録更新を続ける高田選手も、過去には、大会の本番直前練習で踏み切りができないこともあった。“跳べない恐怖”をどう払拭していったのか。
その先に、砂場はあるのか
高田選手は“遅咲き”だった。
20歳を過ぎてから短距離選手として競技を始め、ロンドンパラリンピック後に走り幅跳びも始めた。
最初の4年間は、「競技として成り立たせること」に取り組んだ。
短距離では、ガイドロープで繋いだガイドランナーと一緒に走る。一方、走り幅跳びは1人。コーラー(指示役)の声や音だけを頼りに、助走から踏切までをやり切らなければならない。
「スタートからゴールまで何の心配もないという安心感の中で走っていた競技から一変、合図や音だけを頼りに、五感すべてを使って1人でやらないといけない恐怖がすごくありました」
走る先に本当に砂場があるのか。真っ直ぐに走れているのか。頭の奥には常に不安がある。
思い切り跳ぶためには、コーラーを務める大森盛一コーチとの信頼関係が欠かせない。ぶつかりながら信頼関係を築いていった。
大会の本番直前練習で、不安で身体が拒否反応を起こしたこともあった。まっすぐに走れているのに、踏み切り姿勢に入れずそのまま砂場を走り抜けた。
「なぜ跳ばないんだ」
分からないもどかしさやお互いの理解のズレから、大森コーチの口調も強くなり、言い争いにもなった。
「お互いの言葉のイメージの取り方が違います。大森さんにとっては、そう言われればできることも、私には絶対できないものもある」
「見えていればできるかもしれないけど、見えてなかったらできない。もっとこう言ってくれないと分からない、ということは必ず起きるので、お互いに言い合うことも必要でした」
競技中、コーラーが声や音で距離感やタイミングを知らせている。
高田選手の場合は、踏み切りまでの歩数「15」を大森コーチがカウントダウンし、合図を送る。信頼関係の強さがそのままパフォーマンスに直結するという。
「大森さんがダメと止めなければ絶対に跳んでも大丈夫、という信頼がないと思い切り走って跳ぶことは難しいです」
「なぜそうなる?」
誰かの跳び方を見て、お手本や真似できないため、一つの動きやフォームの習得に人一倍の時間や努力を要する。
例えば走る動作。言われた通りに高田選手が身体を動かしても、大森コーチが意図する動きにならない。大森コーチも「なぜそうなる?」と理由が分からない。
次に、大森コーチにその動作を再現してもらい、高田選手が身体に手で触れて確認してみても、イメージが湧かない。そこで今度は、高田選手の足を大森コーチが持って正しい位置に動かす。ようやく、動作のイメージをつかめるのだと明かす。
「幅跳びの動作だけに限らず、すべての動きに関して、イメージを描いて身体に刷り込む作業には時間がかかります」
何千枚のパラパラ漫画
大森コーチは400メートルリレーの元日本代表。走りのプロでも、幅跳びの経験はなかった。それでも2人は模索しながら、リオパラリンピック出場をつかみ、8位入賞した。
東京大会を見据えて上を目指すために、走り幅跳び女子北京オリンピック代表で、日本記録保持者の井村久美子さんにも指導を頼んだ。
手足や肘、股関節の位置、顔の向き。
踏み切りから着地までの一連の動作を、ひとつひとつ身体に染み込ませていく。
高田選手は、その作業を「何千枚のパラパラ漫画」と表現する。
「(井村)くみさんに踏み切りの瞬間からスローモーションで再現してもらい、それを手で触って、全ての関節の正解の位置を確認します。頭の先から足先まで1本の棒のようにまっすぐな状態で踏み切る姿勢が正解で、久美さんがしているであろうその姿勢を自分で跳んでみる」
「『前に突っ込みすぎ』『後ろに反りすぎ』という言葉の指導や、身体を触らせてもらって角度を確かめ、もう一回やってみる。本当にちょっとずつできるようになっていくんです」
井村さんの指導もあり、高田選手は自身が持つ日本記録の更新を続けている。
自国開催のパラリンピックでは、「全く見えない真っ暗な状態で、音やパートナーとのコミュニケーションを頼りに真っ直ぐ走り、砂場に全力で跳んでいく姿を見てもらいたい」と語る。
「障害を持っている人でも、本当にやりたいと思う力があれば何でもできるというのを見てもらいたい」と期待している。
カルチャーショック.... 盲学校での体験
高田選手は、5歳の時に目が見えづらくなる病気が発覚した。幼い頃から弱視で、目が見えづらい状況で育った。
中学校で盲学校に通い始めた時に、“カルチャーショック”を受けたという。
「周りの先生や他の親御さんで、生徒たちに手取り足取りやってあげている人もいました。『動かなくていいよ。見えない・危ないでしょう』という親御さんもいて、『うちが違うのか』とびっくりしました」
高田選手は両親から、見えなくてもできることは自分でするよう口すっぱく言われていた。
例えば、指さされたものが見えづらくて、「どこか分からない」と伝えた時。指を触って方向を確認したり、言葉の説明を元に探り当てたりと、考えて工夫するよう言われたという。
「親はずっと一緒にいてあげられない」
それが両親の口癖だったという。
「死ぬまで囲ってあげることはできない。自分でできることは基本、自分ですべてやりなさい。見えないなりに工夫してできることを考えなさい」
まだ視力があった子どもの頃は、その言葉の意味がよく理解できなかった。
そのおかげで、20歳前に全盲になってからも「自分で何でもやろう。できないことは無理してやらなくてもできる人に頼めばいい。見えなくても喋れるから何とかなる」という感覚が身に付いた。
自分に障がいがあることを、ネガティブに捉えないよう育ててもらったことを、親に感謝している。
耳の聞こえない夫とのコミュニケーション
高田選手は夫妻ともに日本代表。
夫の裕士さんは耳が聞こえない。聴覚障害者のオリンピック「デフリンピック」日本代表で、400メートルハードルの日本記録保持者だ。
言葉や音に頼る高田選手と、主に視覚から情報を得る裕士さん。お互い、相手に伝わりやすい方法で会話している。
「基本的に夫は全く聞こえてないのですが、言葉や声の訓練をすごく小さい頃からしてるので、喋れます。夫が私に何かを伝える時は言葉で説明して、私から伝える時は簡単な手話と指文字、口を大きく開けて話すといったコミュニケーションをしています」
“聞こえない世界”への関心から、高田選手が手話を習い始めた際、講師役として裕士さんを紹介された。
幅跳びのように、裕士さんの言葉や手話の指の形を触らせてもらいながら、50音や単語を覚えていったという。
なぜ怖がる?当事者からみた不思議
東京パラリンピックは、競技だけのために開催されるのではない。大会を契機に集う様々な障害を持つ人を目にしたり、触れ合ったりする機会でもある。
高田選手は、大会に向けて日常生活での変化を感じている。
「以前は駅を歩いていても、声をかけてくれる人はほとんどいませんでした。最近は『どこまで行きますか』『コロナの時期なので声をかけようと思いました。何かお手伝いしましょうか』という方がすごく増えたり、駅アナウンスで『困っている人、障害を持っている方を見かけたら積極的に声をかけてあげてください』と流れたりするようになりました」
東京オリパラ開催を契機に、2018年にバリアフリー法が改正され、駅利用者が障害者・高齢者へ声かけすることが努力義務となった。2020年5月に再改正され、優先席や障害者用トイレの利用の仕方など、一人ひとりの行動を促す取り組みが進められている。
周りの人はどんなことができるのか。高田選手にアドバイスを求めると、「怖がらずに声をかけてもらうのが一番」と答える。
「視覚や聴覚、車椅子など障害によって困ることに特徴はありますが、できる・できないことや、『こうしてほしい』というのはひとり一人違います。『手伝いますか?』というコミュニケーションがすごく大事です」
一方で、「断られて怖くなった」「声をかけちゃけいけないと思った」という人たちに向けて、こんな場合もあると紹介する。
目が見えない人は、自分の歩数や白杖を叩いた反響音で「何歩」と数えている人もいる。声をかけられ瞬間的に道が分からなくなることも時にはあるようで、悪気なく「ああ、大丈夫です。ありがとうございます」と言い方が少しきつくなってしまう人もいるのでは、と説明する。
もちろん、行き先が分かっていて、自分で行けるので困っていないという人たちもいる。
「例えば困っている健常者の人がいて、それが友達でも知らない人でも、声かけて『大丈夫です』と断られても、次から声かけるのをやめようと思わないですよね」
「『次は声をかけちゃいけない気がする』と思うのは、もともと障害者は特別で、助けてあげなきゃいけない存在という感覚がある。それを断られたから『怖い』『よくなかった』となるのは、そもそも壁があるように思います。もし断られても、『大丈夫なのか』ぐらいに思ってもらえたらいいなと思います」
パラリンピックをきっかけにこうした“すれ違い”が解消されることを、高田選手は願っている。