新型コロナウイルスは中国・湖北省武漢市の研究所で作られたなどとするいわゆる“人工説”の証拠だとする論文を、アメリカに渡った中国人学者が発表した。
この学者はこれまでに、イギリスのテレビ番組で、ウイルスが人工であることの「科学的な証拠を公表する」と予告していて、日本のネット空間でも話題になっていた。
ハフポスト日本版では、この論文を日本のウイルス研究者に読んでもらい、評価を聞いた。
■告発者・閻麗夢氏とは
この「告発」を行ったのは山東省出身の中国人学者・閻麗夢(イェン・リーモン)氏。
閻氏は香港大学公衆衛生学院でウイルスに関する研究を行なっていた際、新型コロナのヒトからヒトへの感染を中国当局の発表よりも前に把握したものの、公表は許されなかったと主張。4月にはアメリカに渡り、アメリカ・FOXニュースなどの取材で「ウイルスは人工に作られたもので、意図的にリリースされた」と話すなど“人工説”を唱えていた。
一方で、所属していた香港大学は声明で、閻氏は新型コロナウイルスのヒト-ヒト感染の研究に従事したことはなく、主張も「科学的根拠はなく、伝聞に過ぎない」としていた。
閻氏の発言が再び注目を浴びたのは9月。イギリスのテレビ番組でインタビューを受け「武漢のウイルス研究所で作られたという科学的な根拠を公表する予定だ」と予告。
日本でも、この発言が注目され、Twitterでは「武漢研究所」がトレンド入り。彼女の発言を取り上げたまとめブログのツイートは3万回以上リツイートされた。
■「6カ月で完成できる」
その閻氏の論文が発表されたのは9月14日。共著者3人の名前とともにオンラインプラットフォームで公開されたもので、新型コロナウイルスが武漢の研究所で人工的に作られたものであることや、合成方法について説明する内容になっている。
人工ウイルスである具体的根拠として、新型コロナによく似たコウモリ由来のウイルスが大陸の軍関連の施設で見つかったことや、ヒトの受容体と相互作用を起こす部分がSARS(重症急性呼吸器症候群)コロナウイルスと似ていること、ウイルスの感染する性質を変える特有の変異があることの3点を挙げている。
さらに、今の新型コロナウイルスを人工的に合成するための作業手順も示し、おおよそ6カ月で完成できるとしている。
■ゲノム科学の専門家に読んでもらった
論文は専門家の目にはどう映っているのか。ハフポスト日本版では、ゲノム科学などが専門で、東海大学医学部の中川草(なかがわ・そう)講師にこの論文を読んでもらい、評価を聞いた。
「確かにウイルスに関する専門知識があり、全くのデタラメが書かれているわけではない」と中川さん。しかし、最初に論文の様式が気になったという。
「所属がファウンデーション(財団)とあり研究機関ではない。コレスポンデンス(責任著者)も個人名ではない。どの個人が責任をもって書いたかがあやふやで、この時点で一般の科学論文の体裁ではない」
科学よりも政治的なメッセージだとの印象を受けるそうだ。ちなみに、論文にある所属先は、アメリカで中国共産党への反対活動を展開しているとされる男性らの関わる財団だ。閻氏はすでに香港大学を離籍している。
では“人工説”の根拠となる記述はどうか。
軍関連の施設でウイルスが見つかったという点について、中川さんは「中国の研究事情には詳しくはないが、こうした施設でウイルス研究が行われるのは不自然なことではない。それは軍事的な意味合いのみではなくて、国防的な意味があるからだ」と話す。
「とくに中国は2003年のSARSコロナウイルスの流行のあと、コウモリを中心として自然界に存在する様々なウイルスの同定を行う研究を精力的に進めてきた」と補足する。
また、ヒトの細胞に感染するために受容体と相互作用する部分がSARSウイルスと似ている点については「この論文では触れていないが、センザンコウと呼ばれる哺乳類から見つかったコロナウイルスも、新型コロナウイルスのものとほぼ100%一致していることが知られていて、SARSコロナウイルスのものと似ていることは証拠には全くならない」という。
また、論文が根拠の一つとする、新型コロナウイルスがもつ他の近縁のウイルスには存在しない特有の変異についてこう話す。
「今年5月に、カレント・バイオロジーという科学雑誌に報告された、“RmYN02”というコウモリ由来のコロナウイルスにも類似の配列があったことはこの分野の専門家の中ではよく知られている。もし本当に新型コロナウイルスの起源について調べているのならばその論文について知らないとは考えにくく、それに恣意的に触れず、見たい情報を自分たちで取捨選択して書いている節がある」
では、新型コロナウイルスの人工合成の手順を示した点についてはどうか。
「ウイルスの人工合成について一般的なことを言えば技術的には可能。例えばインフルエンザウイルスは日本の河岡義裕教授らのグループがその合成技術を確立したし、SARSコロナウイルスや新型コロナウイルスも人工合成が可能だ。しかし、このような今まで報告されている人工合成技術は、基本的にいままで存在するウイルスを作ることを目的として、その設計図を描くような作業だ。一方で、この論文が主張する人工合成の手順について言えば、たしかに可能かもしれないが、どうしてそもそもこのようなコロナウイルスを作ろうと考えたのかということが全く書かれていない。コロナウイルスのゲノム構造は非常に複雑で、まだわかっていない性質も多い。合理性からするとほとんどありえない話で、無理筋だ」
論文は、閻氏の宣言するような「科学的な証拠」は明確に存在しないと考える中川さん。“人工説”については更にこのように話す。
「科学的に『ない』ことを証明することはほぼ不可能で、人工的に作っていないというのはまさに“悪魔の証明”。どのような証拠を示しても100%ないとは言い切れない。従って、この論文を否定しても、それは新型コロナウイルスの人工合成説そのものの否定にはならない」
中川さんは、論文全体への印象を次のようにまとめる。
「荒唐無稽なことをここまで一生懸命に書くのは、一体どんなモチベーションがあるのだろうか。科学的な議論ではなく、政治的な議論をしたがっている論文に思える」
■安易な“ウイルスの真相”に注意
では実際、新型コロナの起源をめぐる研究はどこまで進んでいるのか。中川さんに聞いてみた。
「一般的にはコウモリ、とくにキクガシラコウモリと呼ばれる生物に感染しているコロナウイルスが起源であると考えられている。それは新型コロナウイルス、そしてSARSコロナウイルスもその近縁なウイルスが中国のキクガシラコウモリから見つかっているからだ。一方で、新型コロナウイルスの直接の起源となったウイルスについては未だ報告はない。おそらく現在は起源よりも、新型コロナウイルスの性質や変異を明らかにしたり、またワクチン開発などの研究が最も精力的に行われているのだろう」
ウイルスの起源をめぐっては、中川さんが説明するように未だに解明されていない。ネットなどを介して“真相”が出回ってきたときには、安易に信じる前にひと呼吸おく必要がある。