テニスの大坂なおみ選手は、2020年の全米オープンに特別な思いを持って臨んでいた。
直前のウエスタン・アンド・サザン・オープンでは、黒人男性が背後から警察官に撃たれた事件に対する抗議として、準決勝のボイコットを一時表明した。
プレーしながら世に訴えかけていく。勝つことで自分の意志を貫く。
全米オープンは、それを体現する場となった。
用意した7枚のマスク。その一つ一つに、黒人に対する人種差別や警察による暴力の犠牲者の名前を遺した。
「7枚のマスクでは、多くの犠牲者の名前をつづるのに足りないのを残念に思う。決勝に行って、全てのマスクを見せたい」
決勝を含めて全7試合。大坂選手は、1回戦の勝利インタビュー語った言葉通り決勝まで進み、7枚全てのマスクを披露した。
大坂選手が身につけたマスクに記された犠牲者や、事件について振り返る。
1枚目(1回戦)
ブレオナ・テイラー(Breonna Taylor)
ブレオナ・テイラーさんは、ケンタッキー州ルイビルの26歳の救急救命士だった。
彼女の叔母はテイラーさんについて「活発で、少し抜けたところのある子だった」と振り返る。目標に向けて努力を惜しまず、家族を大事にする女性だったという。
テイラーさんが事件に巻き込まれたのは3月13日深夜。麻薬事件の捜索で自宅に押し入ってきた警察官に射殺された。麻薬事件の捜査対象は、テイラーさんではなくその場にいなかった別の容疑者だった。
その深夜、テイラーさんが恋人とベッドで寝ていたところに、ドアを叩く音がした。
令状を持った警察官がドアを壊して中に押し入ると、不審者と思った恋人が1発発砲。警官が応じて銃を繰り返し撃ち、テイラーさんに5発命中した。
その場にいた警察官の一人は、部屋の中めがけて、やみくもに10発放ったという。
テイラーさんは、撃たれてから5分はかすかに息をし、何とか生きながらえていた。恋人が緊急通報ダイアル(911)に助けを求めたが、テイラーさんは20分以上も治療を受けられず手遅れに。
現場近くに待機させていた救急車は、通常の慣習に反して、突入の1時間前に撤収させていたという。
自宅から麻薬は見つからなかった。
やみくもに銃を放った警察官は免職となった。他の2人は配置換えされただけで、誰もテイラーさん射殺の刑事責任を問われていない。
警察側は、アパートに押し入る前に身分を明かしたと主張しているが、この事件をきっかけに、ノックをせず予告なしに家宅捜査をすることを禁じる法律が成立した。
警察官による黒人の人たちへの暴力やこの事件に抗議する声が上がっている。
▽参考記事
・Breonna Taylor’s Death: What To Know - The New York Times
2枚目(2回戦)
エライジャ・マクレーン(Elijah McClain)
エレイジャ・マクレーンさんは、動物を愛する23歳のマッサージ療法士だった。寂しさを紛らわせてあげようと、里親に引き取られる前の動物たちにギターやバイオリンを弾いて聞かせていた。家族は「美しい心の持ち主」と振り返っている。
事件に巻き込まれたのは2019年8月24日夜。コロラド州オーロラで、コンビニからの帰宅中に3人の警察官に呼び止められた。
緊急通報ダイアルの911番で、顔の部分だけが出ているスキー帽をしている不審な人物がいるという通報があったからだという。
マクレーンさんは違法行為をしていなかった。帰宅したいと伝えても、警官は応じなかった。抵抗したとみなされ、警官から銃を奪おうとしたという理由で地面に押し付けられた。
マクレーンさんはけい動脈のあたりを押さえつけられ意識を失ったが、離すと再びもがいたという。15分後、到着した医療救急隊が鎮静剤ケタミンを投与。病院搬送中に心肺停止となり、数日後に死亡した。
3人の警察官は当初休職処分となったが、検察が起訴せず、再び職務復帰した。検察側は、警察官がマクレーンさんに対して力で制圧した際に、違法行為があったという十分な証拠が得られなかったと報告している。
警察側も、けい動脈を抑えることを含めた力で制圧する行為は「方針やトレーニングの内容と一致する」という見解を出した。
この事件は、5月に起きたジョージ・フロイドさん事件を機に再燃した。全米規模でBLM運動が叫ばれる中で、デンバーのデモ参加者はマクレーンさんや家族が求めた正義や公正さを強く訴えた。
マクレーンさん事件の新たな捜査を求める署名には、500万人以上が署名した。
▽参考記事
・Here’s What You Need to Know About Elijah McClain’s Death - The New York Times
3枚目(3回戦)
アマッド・アーバリー(Ahmaud Arbery)
アマッド・アーバリーさんは、ジョージア州ブランズウィックに母親とに住む25歳の青年だった。高校時代はアメリカンフットボールで知られた存在だったという。体型を保つため努力を惜しまず、よくジョギングしていた姿が家族や友人たちの記憶に残っている。
事件に巻き込まれたのは、2月23日午後1時ごろ。近所をジョギングしている最中に、白人の親子によって銃殺された。
親子は.357マグナム弾とショットガンを掴んでトラックでアーバリーさんを追いかけ、そして路上でアーバリーさんと口論した後に射殺した。
事件から2カ月もの間、容疑者は逮捕されなかった。5月に事件を撮影した動画が投稿され、話題となったことでようやく、白人の親子が殺人と加重暴行の疑いで逮捕された。その後、動画を撮影していた男も、重罪謀殺と不法監禁未遂で逮捕された。
動画には、車の横を走り過ぎようとしたアーバリーさんを2人の男が止めて、銃撃する様子がうつっていた。3発の銃音が鳴り響き、アーバリーさんがショットガンを奪い取ろうとしたが、撃たれて地面に倒れた。
逮捕された親子はアーバリーさんが撃った理由を「強盗だと思った」と主張しているが、アーバリーさんの家族の弁護士は「これは白昼に起きた現代のリンチ」と訴えている。
この動画が明るみに出た後、アーバリーさん殺害や2カ月も逮捕されなかったことに対して、大勢の市民が激しい抗議をしている。
なぜ逮捕が遅れたのか。
逮捕された父親は、2019年に引退した元警察官。アーバリーさん事件を最初に担当した検察で仕事をしたことがあった。検察当局側は、事件を扱う検察と容疑者の間に繋がりがあったため、担当替えがあったと釈明。逮捕しないように指示したことはないと否定している。
▽参考記事
・What We Know About the Shooting Death of Ahmaud Arbery - The New York Times
・Ahmaud Arbery Case Updates: Three Men Indicted for Murder
https://www.thecut.com/article/ahmaud-arbery-shooting-georgia-explainer.html
・Ahmaud Arbery: What do we know about the case? - BBC News
4枚目(4回戦)
トレイボン・マーティン(Trayvon Martin)
トレイボン・マーティンさんは、フロリダ州マイアミで母親と暮らす17歳の高校生だった。コンピューターゲームやスポーツ、ラップやヒップホップが好きだったという。
事件が起きたのは、これまでの3人よりも少し遡る。マーティンさんの死や事件が、Black Lives Matter運動として社会的な広がりを見せるきっかけになっている。
マーティンさんは2012年2月26日、父親を元を訪ねていた。コンビニで買い物をした帰り道、ヒスパニック系の白人の男性と遭遇した。口論となった末、胸を銃で撃たれて死亡した。
男性は、マーティンさんの挙動がおかしかったとして、後を付け、不審者がいると通報。電話口で警察に追跡をやめるよう言われたが、そのまま追いかけた。その直後に、発砲が起きたという。
男性は、マーティンさんに襲われ地面に押し倒されたとして、発砲について「正当防衛」を主張。男性は事件から1カ月以上も逮捕されず、警察の対応に抗議活動が起きた。
司法省とFBIは3月19日、マーティンさんの死について捜査を開始したことを発表。マーティンさんの両親が始めた逮捕を求める署名は、130万人を超えた。
男性は逮捕され、第2級殺人の罪に問われたが、その後の展開が更なる波紋を呼ぶことになる。
2013年7月、無罪評決が言い渡されたからだ。黒人に対する人種差別として、全米で抗議活動が広がった。
Black Lives Matter運動は、この時に生まれた。事件への抗議活動の中で、Black Lives MatterというTwitterハッシュタグや、人々の怒りのうねりが形となった。
▽参考記事
・Trayvon Martin Shooting Prompts a Review of Ideals - The New York Times
5枚目(準々決勝)
ジョージ・フロイド(George Floyd)
ジョージ・フロイドさんは、テキサス州ヒューストン出身の46歳だった。
高校時代はアメリカンフットボールやバスケットボール選手として活躍し、チームの州チャンピオンに貢献したという。ヒューストンでは、「ビッグ・フロイド」という名前でラッパーとして音楽活動をしており、DJ Screwの楽曲に参加したという。
その後、ミネソタ州ミネアポリスに引っ越し警備員として働いていたが、事件当時は新型コロナの影響で職を失っていた。
事件が起きたのは5月25日。フロイドさんは、偽造した20ドル札を使った容疑で拘束された際、警察官に膝で首を抑え付けられてその後に死亡した。
「息ができない」。
そう何度も助けを求めるフロイドさんの声は無視され、警察官は8分40秒に渡って膝で首を抑え続けた。
その様子を撮影した動画がSNSで拡散し、多くの人が、警察による暴力に対する怒りを表明した。黒人への暴力に抗議するBLM運動が再燃し、全米や世界、そして日本にまで広がった。
警察官は当初、第3級殺人容疑などで逮捕されたが、フロイドさん家族は不信感を示し、より重い容疑の適用を求めた。
その後、第2級殺人の容疑も加えられた。
ミネアポリス警察は、容疑者はアルコールか薬の影響下にあり、警察に「身体的に抵抗」したと主張している。
フロイドさんの死は、国中や世界を巻き込んで、数え切れないほど抗議運動に発展。このBLM運動の盛り上がりは、警察らによる暴力で黒人の人たちが犠牲になった過去の事件に改めて光を当てた。
▽参考記事
・亡くなったジョージ・フロイドさんはどんな人だったのか《黒人男性死亡事件》
・George Floyd, Houston’s Protests, and Living Without the Benefit of the Doubt | The New Yorker
・This is how loved ones want us to remember George Floyd - CNN
6枚目(準決勝)
フィランド・カスティール(Philando Castile)
フィランド・カスティールさんは、ミネソタ州に住むビデオゲームが好きな32歳だった。
セントポール学校で食事を提供する担当として勤務し、生徒には「Mr フィル」として知られていた。友人からは、いつも定職についてお金を稼いでいたため、お金を意味するスラング「チェダ(Chedda)」と呼ばれていたという。
事件に巻き込まれたのは2016年7月7日。
ミネソタ州ファルコンハイツ、セントポール郊外で、車を運転していたところ警察官に止められた。
運転席の窓越しにライトがついていないと伝えられ、免許証と保険の提示を求められた。それに対して、カスティールさんは銃を所持していることを告げた。
警察官は「(銃を)手に取らないように」と告げた後、「取り出すな!」と声を荒げた。そして、車内に向けて7発発砲し、うち5発がカスティールさんに命中した。
このやり取りの中で、カスティールさんや同乗していた恋人は警官に対して「取り出していない」と答えていた。車には4歳の子供も乗っていた。
警察官は、カスティールさんがポケットから銃を取り出そうとしたと思い、命の危険を感じたと主張した。
第2級故殺の罪に問われたが、陪審員による裁判で無罪評決が下された。この判断は波紋を呼び、多くの人が抗議活動で怒りを表明した。
カスティールさんの射殺される前日にも、別の黒人男性アルトン・スターリングさんが地元警察に射殺されたばかり。悲劇が繰り返された。
▽参考記事
7枚目(決勝戦)
タミル・ライス(Tamir Rice)
タミル・ライスさんは、オハイオ州クリーブランドに住む12歳の少年だった。学校が好きで、スポーツや絵を描くことを楽しんでいた。愛情に溢れ、思いやりがあり、冗談好きだったという。母親は、家族を笑顔にして、結びつける存在だったと振り返る。
事件に巻き込まれたのは、2014年11月22日。
ライスさんは、市内の公園で模造銃を手に遊んでいたところ、通報で駆けつけた白人警官に銃で撃たれて死亡した。
警察側は、ライスさんに手を上げるように指示したが従わず、腰に手を伸ばしたために発砲したという。
警察官がパトカーで現場に到着してから、発砲するまでほんの十数秒のことだった。
通報者は「おそらく偽物の銃だ」と伝えたが、警察はそのことが現場の警察官に伝わっていなかったと主張しているという。
事件の様子を捉えた監視カメラの映像が公開されると、世界中の関心を集め、ライスさんはBLM運動の象徴的な存在となった。
ライスさんの家族は事件について「避けることができたはず。タミルはいまも私たちのそばにいるべきだった。警察は行動に移すのが早急だった」という声明を発表した。
12歳の少年に対する警察の暴力に対して、激しい抗議活動が展開。タミルさんを撃った警察官に対する起訴が見送られ、さらなる怒りが広がった。
8月9日には、ミズーリ州ファーガソンで無防備の18歳の黒人少年マイケル・ブラウンさんが白人の警官に射殺された事件が発生していた。
▽参考記事
「7枚では足りない」
大坂選手が「7枚では足りない」と話していたように、黒人に対する人種差別や警察の暴力で命を落としたのは、7人よりもはるかに多い。
ジョージ・フロイドさんのように大きく取り上げられず、埋もれてしまっている被害者や事件もある。特に、女性やマイノリティに属する黒人の犠牲者が、そうした傾向にあるという。
2015年には、「アフリカ系アメリカ人政策フォーラム」(African American Policy Forum)が、「Say Her Name」(彼女の名前を伝えよう)キャンペーンをスタート。
ひとりひとりの被害者や事件に光を当て、黒人への暴力に抗議するBLM運動が、ジェンダーという観点も踏まえて人種間の平等を求めていくようサポートしている。