今から75年前の1945年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。昭和天皇が日本の敗戦を告げた玉音放送から15日後のことだった。
戦後日本に君臨し、民主化を進める諸政策を断行したマッカーサー。飛行機のタラップに現れたその姿は日本人に鮮烈な印象を与えるものだった。
当時の朝日新聞東京本社版(1945年8月31日付)によると、厚木に到着したマッカーサーはこう語ったという。
メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長いそして困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終息し、日本軍は続々降伏している。この地区(東京地区か)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。
日本側は非常に誠意を以てことに当たっているようで、不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであろうことを期待する。
(編集部注:読みやすさを考慮して、一部編集を加えています)
マッカーサーの人物像について、当時の朝日新聞(1945年9月1日付、東京本社版)は「仕事はてきぱきと」という見出しをつけた記事で伝え、ゴルフや映画、歴史本が好きだと紹介している。
そののち約2000日の間、戦後日本で諸政策を進めた。朝日新聞(1951年4月17日付、東京本社版)によると、帰国の途についた1951年4月16日、羽田空港までの沿道には20万人以上の都民が集まり、見送ったという。