SOSは、太平洋を越えて寄せられた。
「えっ?ペルー?」
2020年3月。西日本新聞社・クロスメディア報道部の坂本信博は、手にしたスマホの画面を二度見した。
読者から困り事などをLINEで募る「あなたの特命取材班」に届いたメッセージ。送り主は、ペルーに滞在中の大学生だった。
「日本に帰れなくて困っている」
そういう趣旨の情報提供だった。
読んでいくと、学生が大変な事態に陥っているのが分かった。
大学院の准教授、先輩の院生とともに、学生はペルーに研究に赴いていた。その最中、新型コロナウイルスの感染が拡大した。
日本政府は彼らの保護のため、チャーター機を準備した。だが、学生はこの便への搭乗を断られた。
彼が日本国籍を持っていなかったからだ。
日系3世のペルー人だが、5歳から日本で育ち、永住権もある。納税の義務も果たしてきた。それでも、搭乗は認められなかった。
准教授や先輩院生は帰国できる。自分ひとり、ペルーに取り残されるのか…。
途方に暮れた時、読者の困り事について取材を検討してくれる窓口の存在を知った。
SOSを受け、「あなたの特命取材班」はさっそく動いた。彼が帰国できず困っている様子を記事にした。
すると、事態はすぐに動いた。外務省は方針転換。学生は日本政府のチャーター便で、帰国を果たした。
”台湾の恩人”も発見。記事の力とは…
同じ時期、海外にまつわるSOSを”取材班”が解決した例が、他にもあった。
窓口としているLINEアカウントに「台湾旅行の際に、落とした携帯を拾ってくれた人にお礼を言いたい」という相談が届いた。
あなたの特命取材班はすぐに取材して記事にした。するとこれが台湾でも反響を呼んだ。ついには拾った人が見つかった。
「ここまで来たか、という感慨はあります」
坂本はしみじみとそう語る。
あなたの特命取材班、通称「あな特」は2018年1月、社会部遊軍キャップの坂本の音頭で立ち上がった。
読者からのSOS、相談を、西日本新聞社が「LINE@」を使って受け付け、記者が状況を取材する。
こうした座組みでできた記事が、大きな反響を呼んだ。
記事が社会を動かし、大きな問題を解決した。そして市民の悩みを追った先で、非常に大きな「不正」を暴く事例が出て、さらに話題になった。
不正も暴く。現代の”駆け込み寺”
「かんぽ不正問題」も、あな特の報道がきっかけで明るみに出たものだった。
2018年8月。郵便局員からの「暑中・残暑見舞いはがき販売のノルマがきつすぎる」というSOSがきっかけだった。
これを記者が取材し、記事にしたところ、堰を切ったように多くの郵便局関係者からの告発が寄せられた。
その中に「保険のノルマのきつさから、不正販売に手を染める局員が多い」というものがあった。
高齢者をだますような手口で販売しているケースが横行しているというのだ。記者が事実確認を慎重に進めると、不正営業の証拠となる多くの内部資料が出てきた。
2019年3月18日、西日本新聞は朝刊一面で「かんぽ不正販売問題」を報じた。
さらなる取材で、同年7月には保険料二重払い問題というスクープも飛び出した。これらを受け、金融庁と総務省は日本郵政グループに行政処分をするに至った。
読者の悩みに応える。社会の矛盾、不正をただす。
存在感を増す「あな特」はいまや、西日本新聞の販売網の範囲である九州地方からだけでなく、世界中から悩みが寄せられる場になった。
まさかの不採用
今でこそ、新聞業界でもSNSの活用が一般的になった。
「でも、私の若いころは特に『ネットや電子メールは記者の足腰を弱くするから安易に使うな』と言われていましたね」。坂本はそう振り返る。
記事のネタは自分の足を使って稼げ。そんな文化の新聞業界の中でも、社会部は特に「硬派な集団」というイメージが強い。
そこで育った坂本が、業界の常識を覆す「SNSで記者が読者とつながって取材する」という形をつくり得たのは、いったいなぜだろうか。
大学時代、坂本は西日本新聞の「海外遊学生」という企画で、東南アジアに旅に出た。100万円の資金で世界各地に渡航し、自分の興味があるテーマを自由に取材する、というものだった。
落語研究会の部長だった坂本は「アジアの笑いを求めて」という企画を提出し、採用された。
その旅先、マレーシアで「この国は必ず伸びる」という話を聞いた。「人口も資源も潤沢なマレー系、中国系、インド系の多民族国家で、中国やインドに続く存在になる」と。
東南アジアでイスラム教徒が増えている現実も目の当たりにした。
これからのアジアを考えるために、イスラム国家のことをもっと知っておきたい。坂本はマレーシアの国立大学への留学を決めた。
社会制度を学ぶためにイスラム法を専攻。そして学費や生活費を稼ぐためにバイトを始めた。日馬プレスという在留邦人向けの新聞で、ルポを書く仕事だった。
「いずれ新聞記者になりたい、という思いがあったので。ただお金を稼ぐより、血肉になる仕事をしたいなと」
世のため、人のために取材をしたい。記事を書く中で気持ちは強まっていった。
帰国するとすぐに、縁のある西日本新聞の入社試験を受けた。だが、結果は不合格だった。
就職浪人をする余裕はなかった。坂本は商社に入社した。「またいつか新聞社を受けます」と宣言する学生を面白がってくれた上司がいた。
現地で学んだことを生かし、東南アジア向けの貿易ビジネスに取り組んだ。
そして2年後、もう一度西日本新聞を受けた。中途採用の枠で合格。1999年のことだった。
「世のため、人のための仕事」と思ったのに…
坂本は社会部に配属された。
最初の仕事は「電話番」だった。
当時の西日本新聞の社会面には「社会部110番」というコーナーがあった。
社会部に電話の窓口を設けて、読者に困り事を寄せてもらう。聞いた話をフックに取材を始め、解決の糸口を探し、最終的には紙面記事にする。
まさに「あな特の源流」のような企画だった。
公園を歩いていたら、木が倒れてきてけがをしてしまった。補償をどこに求めればいいのか…。
そんな「どこに持ちこんだらよいのかすら分からない悩み」を、新人記者の坂本は電話で聞き続けた。
これこそ世のため、人のための仕事だ。やはり、新聞記者になってよかった。
そう思った。ただ、電話で話を聞き取るまでに30分近くかかることが珍しくなかった。
悩み相談はえてして長くなる。
ご近所トラブル。家庭内での悩み。学校でのいじめ。寄せられる悩みの大半は、取材から解決の糸口を見出すのが難しいものでもあった。
坂本がデスクに報告し「これは取材してもよさそう」だと判断されると、自分が取材するか、社会部員の誰かに取材が割り振られる。
だが、そこまで話が進むのは、電話30本のうち1本あるか、ないか。
「労災が認められなかった、裁判をしてもダメだった、というように揺るがしがたい結論が出てしまっているように思えるケースもありました。『お気持ちは分かります。ただ、記事化は難しいです』と言うほかありませんでした」
坂本はやがて社会部から長崎総局、宗像支局と異動を重ね、社会部に戻った。
その間に、自分の原点とも言える「社会部110番」は企画が終了していた。
新人時代、抱きかかえるようにして通話をしていた「社会部110番」専用の電話機からは、電話線が抜かれていた。
「グレーでもいいじゃないか」
「記者の負担が増えすぎるということで、社会部の記者が『社会部110番』に対応する形はなくなっていました」
社会部の記者の仕事は多岐にわたる。仕方のない判断だと、坂本も思った。
読者との窓口は「お客さまセンター」に移されていた。新聞社として、読者の悩みに向き合う、というスタンスは取られ続けてはいた。
でも「記者に読者の声が直接伝わる」という形の方が、本当はいいよな…。
根っこの部分で、そう感じていた。悩みに直接触れて「これは何とかしたい」と強く思う。あの動機づけこそが、新聞記者の持つべきもの。そんな確信があった。
「困っていること自体がニュースなんじゃないか、という思いもありました。解決の糸口が見えているとか、白黒はっきりしている状況とかの方が記事にしやすいところはあるのですが、すぐに答えが出なくても、グレーでもいいんじゃないか、と」
それを記事にしていけるのが、社会部110番。
いつかはこれを復活させたい。そのために、何らかの方法で「記者への負担」を減らせないか。
社会部での仕事に打ち込みながら、坂本はずっとそう考えていた。
形にしたかった「思い」
「電話番」の仕事から17年。
2016年、東京支社での国政取材などを経て、坂本は社会部に復帰した。
社会的なテーマについて掘り下げることが主務の社会部遊軍の中でも、特に時間をかけたキャンペーン報道の企画を任されるようになった。
坂本は着任早々、急増する外国人労働者をめぐる問題を取り上げる「新 移民時代」という企画を立ち上げ、翌年の「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」を受賞した。
この企画は、かつて「移民」としてマレーシアで暮らした坂本が、入社以来長年抱えていた思いを形にしたものだった。
そして坂本にはもう一つ、形にしたい「長年抱えた思い」があった。
2017年の秋。「新 移民時代」に続くキャンペーン報道の企画会議で、ついに切り出した。
「社会部110番を復活させたい」
成否をわけた、2つの提案
電話を窓口にする、では同じ轍を踏むことになる。
やるならネット、SNSだ。坂本は、検討段階からネット担当と企画を一緒に練っていこう、と考えた。
企画会議の日。社会部の記者、総勢15人が坂本に連れられ、編集局を出た。
エレベーターに分乗し、西日本新聞のネット部門を担うグループ会社「西日本新聞メディアラボ」のフロアに向かった。
珍しい光景だった。
ネットも大事だが、やっぱり紙面が第一。今も多くの新聞社がそういう文化を持っている。
その紙面をつくる中で「ど真ん中」にいる記者が、大挙してネット担当部門の元に赴く。
ヤフーとの交流人事を行うなど、西日本新聞社は業界の中ではネットシフトが早い会社だった。
そんな社にあっても、フロア違いということもあり、双方の交流は少なかった。歴史的な転換点と言っても、大げさではなかったかもしれない。
会議の中で、メディアラボのメンバーから企画の成否を分けた提案が、2つあった。
「窓口にするなら、LINE@がいいですよ」
坂本はSNSを窓口にするなら、TwitterかFacebookではないか、と考えていた。
だがその担当は「この企画ならLINEの方が向いてます」と言い切った。
他のSNSと違って、LINEのアカウントはスマホ1台につき1つしか持てない。
そこがすごく大事だと、担当は強調していた。その場で理由にピンと来たわけではなかったが、餅は餅屋だとも思った。坂本はその提案を受け入れることにした。
(※LINE@は現在はLINE公式アカウントと改称)
「その名前だったら、最初から頓挫してましたよ」
もう一つは企画の名前だ。坂本は思い入れもあって「社会部110番NEO」というタイトルを提示した。
すると、メディアラボのメンバーからすぐに「異論」が挙がった。
「社会部、と言ってピンとくるのは新聞社の人間だけ。読者のことを思うなら、誰にでも分かる企画名の方がいいのでは」
頭をガツンと殴られたような衝撃があった。坂本はしみじみと振り返る。
「社会部愛が強かったので、ショックでした。でも、指摘の通りだなと。読者にこの企画を自分ごとにしてもらう、というのが大事なのに、読者に分からないタイトルでは話にならない」
みんなで100個ほど候補を挙げた。その中から、タイトルが決まった。
それが「あなたの特命取材班」だった。
「今も後輩から言われますよ。社会部110番NEOにしていたら最初から頓挫していただろう、って」
苦笑いをさっと収め、語気を強めて言う。
「窓口としてLINE@を選んだこともそうですし、タイトルもそう。社会部の中だけで話していたら、間違った選択をしていたかもしれない。最初にして、最大の岐路はあそこにあったと思っています」
「迷惑メールにマジレスしてみた」
2018年1月。ついに「あな特」がスタートした。
「パンドラの箱を開けてしまった。正直、そう思いました」
それほどの反響だった。
読者に悩みを寄せてもらう窓口にしたLINE@のアカウントには、あっという間に数千人のフォロワーがついた。
Twitterなどのフォロワーと違うのは、悩みを伝える前提でフォローしていることだ。すなわち、数千の悩みが寄せられる、ということになる。
なぜ、最初からそれほどまでの反応があったのか。
それは情報提供から記事化に至るまでの流れを読者に伝える「サンプル記事」がバズったからだと、坂本は分析する。
どんな記事になるのかも分からないのでは、読者も情報提供しようとは思わないだろう。
そう考えた坂本ら「あな特」メンバーは、硬軟織り交ぜた7本の仕込み記事を準備していた。
いずれも、市民の悩みを独自にリサーチし、それをフックにした記事だ。
その中で「迷惑メールにマジレスしてみた」という記事が、ヤフーニュースのトップに掲載され、1000万PV超と爆発的に読まれた。
これで「あな特」の存在が、広く知られた。
狙い通りの呼び水効果。アカウントのフォロワーが増え、情報が一気に寄せられた。
命じられたからやるのではなく
量だけではない。提供される情報の質が高いというのも「あな特」アカウントの特徴だった。
「悩みをテキスト化する中で、読者の方がかなり考えを整理されるんだと思います。それから、捨てアカウントからの投稿がないのもよかった。LINEはスマホ1台に1アカウントしか持てない。匿名アカウントで虚偽の投稿をするために、わざわざスマホを買うような人はなかなかいないでしょう」
提供された情報を、アカウント閲覧権を持つ取材班の誰もがすぐに見られる、というのもよかった。
読者自身によってある程度要点がまとめられた相談を見て、取材したいと感じた記者が手を挙げる。電話が窓口だった時では考えられないくらい、手順の簡略化、そして省力化がはかれた。
電話時代は、30本に1本記事にできるかどうか。
それが何百倍も情報提供を受け付けられる上に、記事にできそうな内容である確率も3~4本に1本程度に高まった。
何より、LINE@が可能にした「挙手制」という形が、本来あるべき仕事の形であるようにも感じた。このツールを使えば、取材班の誰もが提供された情報にアクセスでき、自分の意思で取材を始められる。
命じられてではなく、「この問題を世に知らしめたい」という強い思いから取材する。そのスタンスは「読者との距離」を記者側から縮めていくことにつながる。
実際、「あな特」が世に送り出す記事は、問題を丁寧に掘り下げ、熱を込めて書き上げられたものになった。どれも世の中を変え得るエネルギーを内包していた。
パンドラの箱は無数の「災厄」が噴き出した後に、最後に「希望」が出てきたとされる。
だが「あな特」は、開けた箱から出てくるすべてを「希望」に変えてしまった。こうして、快進撃が始まった。
思わぬ場所から情報が届いた
かんぽ生命の不祥事を暴くスクープを始めとして、「あな特」の座組みからは数々のヒット記事が生まれた。
読者の困り事を取り上げているだけに、広い層から共感を得られるのは自明。
記事をきっかけに、携帯電話の大手キャリア各社が「キャリア決済」の問題点をあらためる、といった事例も出てきた。
あそこに相談すれば、何かが変わる。
そんな機運が生まれ、さらに情報提供が増えた。主戦場がネットだけに、西日本新聞社の販売範囲にとどまらない読者が悩みを寄せた。
「社名が『西日本新聞』なので、一般的に“西日本”と呼ばれるところにお住いの方々も情報提供くださるようになった。九州だけでなく、中国、四国、そして関西と。これは何とかしないと、と早い段階から感じていました」
「あな特」の成功を見て、同じようにLINE@を使って情報提供を募る新聞社が、ポツポツと出てきてもいた。
いっそ、各地の新聞社で連係したらよいのではないか。そう考えた坂本らは、あな特の仕組みを説明する会を新聞社向けに設けることにした。
「私もそういう仕事がしたかった」
JOD(ジャーナリズム・オン・デマンド)研究会。
立ち上げから半年後の2018年6月、「あな特」は地方紙9社を招いた勉強会を、福岡で開催した。
「おそらく、何か変わったことをやっているから見てこい、くらいの感じでいらっしゃった方もいたと思います。よく分からないけどとりあえず、と」
坂本はメンバーを代表し、あな特に込めた思いを熱っぽく語った。
世のため、人のために取材をし、記事を書くことこそが新聞記者の仕事。それができるから、私たちはあな特に熱くなっている。
そしてこの輪を広げることで、もっと世界のためになる記事を世に送り出せるはず。
参加者に、そう訴えかけた。
仕組みの話だけなら、そこまで響かなかったかもしれない。
志の話だったから、その場の誰もが共感した。「私もそういう仕事がしたかった」。2次会、3次会と酒を酌み交わすうちに、みんながあな特のメンバーに訴えかけるようになった。
福岡からそれぞれの新聞社に戻った参加者は、すぐに動き出した。
2カ月後。「あな特」は琉球新報、東京新聞の2社と提携することが決まった。
新たな「全国ネット」が誕生
坂本はあな特メンバーのひとりとして活動する傍ら、社内の仲間と全国を行脚するようになった。
ノウハウを全部教えてくれるという噂が広まり、「うちにも説明してほしい」という声が日本中の媒体から寄せられた。
「あそこが、2つ目の大きな岐路だったかなと思います」
最初の勉強会を開催する際、社内からは「これだけのノウハウには対価を求めるべきじゃないか」という声が上がった。
だがあな特のメンバーは「ここで少しばかりのお金を稼ぐよりも、ローカルメディア同士が対等な立場で連携するネットワークができれば、もっと大きなことができる」と対価なしでノウハウを広めることにこだわった。
「このノウハウは50万円で、などとやっていたら、これだけ多くの人に興味を持ってもらうことはできなかった。他の新聞社さんと対等の関係で提携、ということにもならなかったと思う」
他社からの反響が大きかったことも、西日本新聞の「あな特」拡大路線を後押しした。
2018年の年次企画として立ち上がったプロジェクトだったが、その年の夏、当時の編集局長が「あな特は、編集局全体の取り組みとして息長く続ける」と宣言した。
全国の媒体の間でも「あそこが西日本と組むならうちも」という余波を生んでいった。
年が明けるころには、提携の輪は全国に広がっていた。
読者から提供された悩みについて、一番近くで取材できる新聞社を選んで記事にしてもらう。
さらには、ひとつの悩みについて、各地方紙でリレー方式に記事にしていく。地方に根差して取材する新聞社による、より強力な「全国ネット」が、あな特を中心としてでき上がろうとしていた。
「幕末ってこんな感じ?」
2019年6月。第2回JOD研究会。
広島で行われた会合には、30社近くが集まった。
「世のため、人のための仕事をあな特で」
「地方紙の未来はここにある」
誰もがそんな希望を持って、広島を訪れていた。
高揚。熱気。使命感。そうしたものに包まれた会場を、坂本は感慨深げに見ていた。
幕末ってこんな感じだったんだろうかー。
そんなことを思った。
「最初にあな特に興味を持ってくれたのは、みんな新聞社の現場の方たちです。私自身もそうですが、いわば下級藩士。そういう人たちが『世の中を良くしたい』という同じ志を持って、全国各地で動いた。各新聞社の社内で提携の必要性を訴えて、当時の雄藩連合のような形に持っていった」
一方で、坂本本人も記者人生の転機を迎えていた。
中国・北京に特派員として赴任をという内示を受けたのだ。
しばらくして、編集局長から提案された。「新聞協会が訪中団を結成する。赴任に備えて、お前も行くか?」
中国の新聞社の悩み
中国のメディアの現状を視察する。
そのために訪中団が向かった先の一つが、浙江省の省都、杭州市だった。
地元紙「浙江日報」が、一行を迎えてくれた。
自己紹介で坂本は「あな特」のことを話した。すると先方のスタッフが強く反応した。
「それはうちでもやっている座組みです」
そう言うと、坂本らを編集局のフロアへと案内した。
中央に超大型のモニターが据えられている。細かく動き続ける数字と文字。スタッフが説明した。
「ここには読者から寄せられている相談件数がリアルタイムで表示されています」
あな特と同じように、浙江日報にはWeChat、WeiboといったSNSを通して、読者からの相談、情報提供が寄せられている。
記者はみなそれらを閲覧でき、記事にできるという見通しが持てる情報に対して反応し、取材に着手する。
モニターに映し出されているのは、その一連の動きを可視化したもの。
提供される情報と、それに対する記者の反応とが一目で分かる。つまり、今後出てくる記事の質、量がある程度見通せるということだ。
スタッフいわく、中国では新聞離れが進んでいるということだった。
政府系の情報しか読めないので、つまらないと若い人々から読まれなくなっている。そんな現状を打開しようと「浙江版あな特」は始まったのだという。
いかに読者の信頼を取り戻すか。
世界のどこで取材をしていても、記者が目指すところは同じ。そう感じた。
「インスタは中国で投稿できますか?」
訪中団の一員として滞在した北京で、坂本は「あな特」向けの記事の準備を始めた。
ちょうど、北京旅行を考えている読者から「現地でInstagramの投稿はできるのか」という調査依頼が届いていた。
現地でネットをつなぎ、日本とのやりとりを試みる。各種SNSは通じない。では、VPN接続した上でアクセスしたらどうか…。
拍子抜けするほどあっさりと、FacebookにもLINEにも、YouTubeにもアクセスできた。
一方で「新疆ウイグル自治区」など、中国当局にとってセンシティブな単語を入れると、メールですら日本に届かなかった。
そうした現状を、帰国後にあな特の記事にした。
これは読者の要望に応えただけでなく、中国への赴任後を見据えた「テスト」でもあった。
「細かすぎる悩み」に答えられるのは誰?
2020年8月。坂本は中国に赴任した。
まずは大連のホテルに2週間の缶詰状態。新型コロナ対策の「隔離生活」は、あな特のこれまでを振り返る機会にもなった。
「正直、始めた頃はすぐに全国紙に駆逐されると思っていました」
SNSを使って読者の声を集めること自体は、言ってみれば誰にでもできる座組みではある。
それは坂本が一番よくわかっていた。浙江日報が同じような取り組みをしていることからも明らかだ。
「だから、読売、朝日が大量の戦力を動員して、それこそコールセンターでもつくってきたらかなわない、と覚悟していた。米軍に竹やりで立ち向かうようなことになるかもと」
ただ、実際にはそうはならなかった。
それは坂本と仲間たちが「地方」に根差した記者だったからだ。
「福岡にしても、全国紙の記者はそんなにたくさん配置されていない。一番記者が多いのはうちです。その土地その土地で言ったら、一番の取材戦力を持っているのは地方紙です」
だからこそ、読者の細かすぎる悩み、相談にも応えることができる。
そしてさらに、地方紙同士で連係を取ることで、深く、幅広く取材ができるようになった。
そして最近では、あな特取材班が福岡の公共施設に取材を申し入れると、すぐに「あな特か」と聞かれるようにもなった。
この記者は、問題意識を抱えた市民になりかわって、ここに立っている。そう知っているから、取材対象はみな緊張感を持って接してくる。
「頼りがいがあるからこそ、情報も寄せてくれる。読者が頼りにしてくれることは、記者にとって何よりの力なんだなと、あらためて思います」
自分もあな特取材班の一員として、読者の手足になって働きたい。
中国に赴任しても、坂本の思いは変わらない。
LINE@で寄せられた「北京でインスタ投稿は可能か?」という読者の声は、大事なヒントだったと思っている。
自分が中国にいるからこそ、日本の読者の疑問に答えられる。そういう事象は多いのではないか。
ホテルの窓から中国の街並みを眺めながら、そんなことを思った。
もう一度、「力」を信じてもらいたい。
警察取材や権力の監視、骨太の調査報道…。
たとえ紙からネットに表現の場がシフトしていったとしても、新聞社が長年培ってきた「取材力」に裏打ちされた記事の価値は、これからも変わらない。
一方で新聞社は「記者と読者の距離」という課題を突き付けられてもきた。
その昔、新聞社には街の顔役などが気軽に出入りをしていた。記者にも、街をぶらついて歩くくらいの仕事の余裕があった。
そうやって読者の声が記者に届き、市民が求める記事が自然と生み出されていった。
記者ひとりあたりの仕事も爆発的に増えた。抜かれていた「社会部110番」の電話線は、抗いがたい時代の流れを示すものでもあった。
その中でも、何とか読者との密接な関係をつくろうと、全国の新聞社の間で努力はされてきた。西日本新聞社も「地域版」をより細分化したり、記者たちが社屋から飛び出して読者の近くに臨時の取材拠点を置く“移動編集部”のような取り組みもしてきた。
だがネットの隆盛と、それに伴う若い層を中心とした「紙離れ」の波が業界を飲み込んだ。
読者にとって新聞は、いよいよ遠い存在になってしまった。いまや「不信の対象」とされることすらある。
だから今、あな特はツールの力も使って、読者と記者を再びつなぐ。
記者はもっと、読者のために働ける。もう一度、新聞社の「力」をみんなに信じてもらいたい。その一念で。
「あな特のオンデマンド報道と、従来の調査報道を車の両輪とすることで、必ずや明るい未来が開けてくるはずです」
坂本はそう思っている。
(取材・文:塩畑大輔 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko)