広島と長崎に原爆が落とされた1945年8月から、この夏で75年。被爆者の高齢化が進む中、被爆者の祈りを次世代に語り継ぐ映画『いのちの音色』が制作されている。
被爆体験を語り続けた沼田鈴子さんが亡くなる前の映像メッセージとともに、被爆者に生きる希望を与えた広島の被爆アオギリの木が、全国に広がる様子を描いたドキュメンタリー映画だ。
監督・制作・プロデュースをする「ミューズの里」の中村里美さんは2021年春の公開に向けて、クラウドファンディング「A-port」で、制作資金や宣伝費などへの支援を呼びかけている。
新芽を出した「被爆アオギリ」が与えた希望
広島平和記念公園には「被爆アオギリ」と呼ばれる、被爆したアオギリの木がある。原爆で焼け焦げた幹から新芽を出し、被爆者たちに生きる勇気と希望を与えたという。
その被爆アオギリの木の下で、「自分と同じ苦しみを世界中のどんな人にも味わわせたくない」と、核なき世界の実現を願い、修学旅行生らに自らの被爆体験を語り続けたのが、語り部・沼田鈴子さんだ。
「沼田さんは22歳の夏、爆心地から約1.3キロ離れた勤務先の旧広島逓信局で被爆されました。崩壊した建物の下敷きになって左足を失い、婚約者も戦死。絶望した沼田さんは自死(自殺)も考えたそうです」と中村さんは説明する。
そんな沼田さんに生きる希望や勇気を与えたのは、旧広島逓信局の中庭にあった被爆したアオギリの木だった。
「焼け焦げたアオギリから芽が出ているのを見て、沼田さんは自死を思いとどまったとお話しされていました。『どんなことがあっても生きるんだよ』と、被爆アオギリが語りかけて来たと」
沼田さんは米国から返還された記録映画フィルムに自らが映っていたことをきっかけに、被爆アオギリの木の下で自身の被爆体験を伝える「アオギリの語り部」として活動を始めた。
被爆アオギリは1973年に広島平和記念公園に移植され、現在も生き続けている。そして、その種から「被爆アオギリ2世・3世」が育ち、広島市は「平和が続くように」との願いを込めて、苗木を全国に無料配布。その思いに賛同した国内外の学校や団体などによって「被爆アオギリ2世・3世」が植樹されている。
「地球に生きるひとりの人間として伝えることが大切」と教えてくれた
中村さんが沼田さんと初めて会ったのは1986年。中村さんが22歳、沼田さんが63歳の時だった。
中村さんは、当時のことをこう振り返る。
「当時、私はアメリカの学校や教会で日本文化を紹介しながら、沼田さんが出ていた映画『にんげんをかえせ』を上映する日米協力のボランティア活動に参加していました。渡米前、『にんげんをかえせ』に登場する被爆者の方々と広島で会う機会をいただいたのですが、その中に沼田さんがいらっしゃいました。
それまで、私にとってヒロシマ・ナガサキは教科書の中の過去の出来事でした。被爆者のお話を聞けば聞くほど、戦争も原爆も体験したことのない私に一体何が伝えられるのだろうと、不安が募りました。
私の住む東京・町田市にも当時380人の被爆者の方々が住んでいることがわかり、私の家から歩いてすぐのところにも被爆者の方がおられて、お話を伺う中で、だんだんヒロシマ・ナガサキが身近に感じられるようになっていきました。
そんな私に、『戦争を体験していないからこそ感情的にならずに伝えられることがある』、『どんなに小さくても、地球に生きるひとりの人間として伝えることが大切』だと教えてくださったのが沼田さんでした」
沼田さんに背中を押された中村さんは、その後、アラスカ、オレゴン、ネバダ、ニューヨークなどの学校や教会をまわり、約1年間で280回のプレゼンテーションを行い、“ヒロシマ・ナガサキ”を語り伝えた。
「生きて伝えなきゃ」と、沼田さんは言った
アメリカでのボランティア活動を終えて帰国した中村さんは、その後しばらくは“ヒロシマ・ナガサキ”を伝える活動から離れていたという。
しかし、年を追うごとに被爆者がひとり、またひとりと亡くなっていくのを目の当たりにし、「何かしなくては」と、再び活動を始めた。
「被爆者の方が亡くなるたびに過去のこと(20代前半のボランティア活動)を思い出して。込み上げてくる思いや忘れられない被爆者の言葉をノートに書き留めながら、自然に湧き起こる音にのせて、歌を作りはじめました。もともとシンガーソングライターではなかったのですが、気持ちの整理ができないまま、その時の思いを歌にしたものを、たまたま気に入ってくださったプロデューサーの方がいて歌い始めたという経緯です」
中村さんは2008年、ギタリストの伊藤茂利さんとともに1000回ライブを目指し、歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝える活動をスタート。
その土地土地で出会う人々や、「いのちの大切さ、平和の尊さ」の思いを被爆アオギリ2世・3世の苗に託して植樹する人々の姿に感動し、その様子を1人でも多くの人に伝えようとカメラをまわし始めたという。
そして2009年、広島で開催したライブで久々に沼田さんと再会を果たした。
「ちょうどオバマ大統領が『核なき世界』の演説(プラハ演説)をした年だったんです。それを聞いた沼田さんは『100歳まで生きて、核なき世界の道筋を』と力強くお話されていました。
この再会をきっかけに、被爆アオギリと沼田さんのドキュメンタリー映画を制作することになり、2011年6月には沼田さんのメッセージをもらおうと広島まで会いに行ったんです。
その3ヶ月前に起きた東日本大震災の原発事故に大きなショックを受けた沼田さんは、体調を崩しながらも、強い危機感をもって被爆者としての思いを伝え続けていました。車椅子での移動さえ辛そうなご様子に、とてもカメラを向けられる状況ではありませんでした。
でも沼田さんは、力の入らない握りこぶしを膝に立てて『死ぬのは簡単だけど、生きて伝えなきゃ』と言ったんです。その言葉は今でも忘れられません」
沼田さんに尋ねた。「一番大切なものは何か?」
その1ヶ月後の2011年7月12日、沼田さんは亡くなった。 87歳だった。
「沼田さんは子供達の未来を考えながら、ご自身の被爆体験と被爆アオギリのことを伝えていらっしゃいました。そして、その思いは『被爆アオギリ』に託され、日本全国に被爆アオギリ2世・3世を植樹するという形で広がり続けています」
「私は沼田さんに、『色々な体験をしてきた中で、一番大切なものは何か?』と聞いたことがあります。その答えは、『優しい心』でした。国や人種、文化などの違いがあると時に憎しみが生まれますが、そうではなく、思いやりや優しさを持ってヒロシマ・ナガサキを伝えていくことが大切だと感じています」
厚生労働省は2019年、被爆者が2018年末時点で全国に14万5844人、平均年齢は82.65歳であると発表した。被爆者の高齢化が進んでいる今、被爆体験を次世代にどのように伝えるかが問われている。
これから先、戦争経験者はいなくなり、被爆体験のない世代が次世代にヒロシマ・ナガサキを語り継いでいくことになる。
そういう時代が必ずやって来る中、今を生きる私たちが忘れてはいけない過去からのメッセージとは何か?
そのヒントが、映画『いのちの音色』にはあるだろう。
中村さんは映画化に当たって、以下のようなコメントを出している。
「沼田さんをはじめ、これまでお世話になったヒロシマ・ナガサキの被爆者の方々の平和への思いを伝えていくことの出来る作品となるよう全力で挑みます。皆様のご支援・ご協力を何卒宜しくお願い申し上げます」
『いのちの音色』はスポンサーのない自主映画であるため、追加撮影と編集費用の一部、映画の上映に向けてかかる宣伝費用などへの支援をクラウドファンディングで呼びかけている。
支援の受付は8月20日まで。詳細はこちら。
(取材・執筆=岡本英子)