「誰も傷つけない笑い」が、支持を集めるようになっている。EXITなど「第七世代」と呼ばれるお笑いの新世代にも、これまでの笑いの”常識”に流されない、新しい感覚を感じる。
そういうと、笑いに特有の毒っ気や反骨精神が足りないと指摘されることもあるだろう。しかし、日々変わりゆく社会の中で、現代の「毒」とは何なのだろうか。
時代の気分と合致する、ぺこぱやミルクボーイの笑い
「傷つけない笑い」の代表として見られるのが、M-1グランプリ2019で注目されることになったぺこぱだ。彼らの笑いは、今までのような突っ込み――「違うだろ!」とか「そんなアホな」とか「いい加減にしろ」と言いながら、胸や頭を叩いたりするような――スタイルを脱却したことが新鮮に受け入れられた。その突っ込みの内容にも否定形がなく、ものごとには様々な選択肢があることをうかがわせる。
同大会で優勝したミルクボーイもまた、おかんが思い出せないワードをあれやこれやと探っていく漫才で注目された。その「何か」を面白おかしくいじるなどして笑いにつなげるようなところもあるが、ぺこぱと同じように両論併記的で、いいところも悪いところも紹介するような性質がある。
よく現代は、選択肢が多くて選べない時代だと言われることもあるし、TwitterなどのSNSを見ても、あちらを立てればこちらが立たずという状態を避けようとする向きもみられる。彼らの笑いは、そういう時代の気分ととても合致しているように思うのだ。
そんな態度は、多様性を認めることにもつながるようなところもあるからこそ、彼らの笑いは「誰も傷つけない」「優しい」と言われるのだろう。
コンビの関係性にも変化
「優しい」という意味で言えば、第七世代をはじめとする若手芸人たちには、若いときに特有(と思われてきた)のライバル心のようなものも少ないように見える。現在、第一線で活躍するアラフィフ世代の千原兄弟や、「吉本印天然素材」のユニットで活躍していたナインティナイン、雨上がり決死隊、FUJIWARAの面々が大阪でしのぎを削っていた1990年代頃は、今よりも緊張感のある空気だったと聞く。それはそれで、その時代の空気感というものがあったのだろう。
また、かつてであれば、学生時代からの仲良し同士がコンビを組んだとしても、「お笑い」という仕事を始めたからには「仕事」を通じた仲間だとして、楽屋では一言もしゃべらないとか、プライベートで一緒になることもないというエピソードなどを聞くことも多かった。そういった逸話が独り歩きして、無理にそのセオリーに縛られようとしていたコンビもいたのではないか。
しかし、最近ではーーこれは世代というよりも時代性によるものだと思うがーー、第七世代に限らず、お笑い芸人にとっての「相方」は一番わかりあえる一生の友達と見ているようなコンビも増えてきた。仲良くするとかしないということにこだわるのではなく、相方ともニュートラルな関係性でいる人が増えてきた印象だ。『アメトーーク!』では、「相方大好き芸人」というテーマの回があるくらいである。
そうした時代の変化にフィットした、というよりも、むしろそれを通常の感覚として持っているのが第七世代なのかもしれない。
しかし、彼らをみて、私は「毒がない」とか「牙を抜かれている」とは決して思わないのだ。 なぜかというと、彼らは、これまでの因習にも、おかしいと思ったら“NO”と示す。先輩大御所芸人たちと共演するとき、先輩芸人が先輩だというだけで、よかれと思ってプレッシャーをかけてきたり、時代遅れなコミュニケーションを求めたときには、はっきりと「おかしいのではないか」と言える。以前であれば、先輩の言うことは矛盾があっても「絶対」と従っている芸人のほうが多かったのではないか。
笑いの「毒」は「イキり」と綿密に関係していた
以前は「尖っている」というとき、芸人に限らず、自分がなめられないための「イキり」をしてみたり「反社会的」な行動を面白おかしく肯定したり、女性蔑視的な発言をすることで男同士の絆を強めたり、また横のコミュニケーションを拒否することで孤高の存在になろうとすることが「美学」として捉えられることが多かったように思う。そのとき重要視されるのは、縦社会の強い絆であったのではないか。かつてのお笑いの「毒」はそうした「イキり」と綿密に関係したように思えてならないのだ。
しかし、現在はそうした縦社会の関係で下の者に有無を言わさない態度は、第七世代には簡単に拒否されてしまう。そう考えると、かつての縦社会に従順な人たちがその枠外の弱いものに向ける毒など、本当の毒だったのだろうかとも思える。むしろ私からすると、今の縦社会の人間関係に異を唱え、長いものに巻かれない態度のほうに「反骨心」を感じるのだ。
肉声を発信するEXITの2人
そんな現在の「毒」や「反骨心」を感じる芸人が、最近の人気芸人や、 特に第七世代には何人かいる。
例えば、前出のぺこぱであれば、これまでの「突っ込み」の常識を翻したという意味での「反逆者」だと思うし、チャラ漫才で時代を表す顔となったEXITもまた、これまでの「芸人はチャラくて女性にビジュアルで受けるのは反則」と思われていた常識を覆し、パシフィコ横浜という大規模な会場で、「魅せる」笑いを追求し、ときにはかっこいいグラビア取材を受けつつも、ネタの精度では先輩芸人をもうならせている(1980年代にもザ・ぼんちが日本武道館でのライブを成功させた例などもあるが、それは特例であり、そうしたアイドル人気は、お笑い芸人にとっての邪道であるという空気は現在でもあり、議論を要するところではある)。
現代のEXITは、チャラさはそのままに、AbemaTVの『報道リアリティーショー「ABEMA Prime」』では自らの頭で考えた肉声をりんたろー。も兼近も発信している。特に兼近は『ワイドナショー』にも出演。保守的な言説の人が多い中で、流されない姿勢には、個人的に希望すら感じている。それもこれも、彼がその場の優勢の空気に迎合するのではなく、また知識がないときにはそれを表明した上で、自分が考えていることを率直に語っているからではないか。
今までのバラエティ番組は、その場を仕切るものが作る空気にいかに早く応えるかが優れた出演者だと思われてきたが、これからは、違った方向に進むのではないかと思っている。
お笑い界にあるジェンダーの不均衡
こうした変化は、女性の芸人も同様だ。
これまでは、「いじりはありがたいもの」と思えという風習があった。それが少しずつ変化していく過程で、“女性芸人”としていじられないことが、自分たちの存在価値を弱めてしまうのではないかと心配する人もいるにはいるが、フォーリンラブのバービーなど、そんな因習に異を唱える芸人がちらほら出てきた。
女性の芸人の「毒」と言えば、今までは「女同士の戦い」を仕掛け受けて立つようなことを指していたかもしれない。しかし、冷静に考えれば、それすらも、その場の空気や、芸人という集団の要望にただ応えているだけではなかったか。それは、集団の強者の要望に従順であることの証であり、笑いの「毒」ではなかったのではないかと感じる。
2020年6月14日(13日深夜)放送の『ゴッドタン』には、松竹の女性芸人のヒコロヒーが登場。先輩男性芸人のみなみかわと、2019年のM-1グランプリのために組んだコンビ「ヒコロヒーとみなみかわ」のネタを披露した。それは、「男芸人みたいな女芸人」をヒコロヒーが、「女芸人みたいな男芸人」をみなみかわがするという、男女の日常を反転したネタで、今のお笑い界にあるジェンダーの不均衡な部分を浮き彫りにしていた。
「尖った」笑いとは何なのか
現代の「毒」というものは、こうした今までは当たり前であった悪しき習慣にメスを入れ、あきらかにすることだ。そこにこそ刺激的な笑いがあると感じるし、同じように感じている人も多いのではないか。「尖っている」とは、強いものに巻かれ、弱いものをいじるのではなく、「当たり前」を疑うことを言うのだと思った。
もちろん若い世代にも、今までのやり方と親和的なコンビも存在する。しかし、第七世代の多くは、本人を含め、あらゆる立場の人を傷つけず尊重しているし、尊重されていないことには異を唱える。そんな姿をみて「牙を抜かれている」とか「コンプライアンスのせいで表現が制限された」という人がいるが、むしろ表現の幅は広がり、深くなっているのではないか。
しかし、これまでの慣習に対して異を唱えるなど、ごく当たり前のことを発言するだけで「毒」や「反抗」になってしまう世の中のほうが私は心配だ。それは今の社会が多様性を認めていなかったり、差別的であったりするということを浮き彫りにしているということでもあるのではないだろうか。
(文:西森路代 編集:若田悠希)