民主化を求めて北京の天安門広場に集まった学生や市民らを、人民解放軍が武力で鎮圧した「天安門事件(六四天安門事件)」から、2020年6月4日で31年になる。
いまだに全容は解明されず、中国では公に語ることもできないこの事件。いったいどのようなものだったのか、振り返る。
■一体何があったのか
いわゆる六四天安門事件は、第二次天安門事件とも呼ばれる。第一次は1976年、周恩来(しゅう・おんらい)首相の死を悼もうと天安門に集まった市民が、政治勢力を増していた毛沢東の側近グループ「四人組」への批判を展開したものだ。
第二次天安門の発端となったのは、リベラル派で親日家としても知られた胡耀邦(こ・ようほう)元総書記が1989年4月15日に心筋梗塞で亡くなったことにある。胡を悼むために学生たちが天安門広場に集まると、要求は胡の名誉回復などから、中国の民主化を求める声に変わっていった。
当時の中国のリーダーは趙紫陽(ちょう・しよう)総書記と、保守派の李鵬(り・ほう)首相。そしてその裏には、趙を抜擢した鄧小平(とう・しょうへい)がいた。共産党は当初、この運動を黙認していたが、4月25日に鄧小平が学生の運動を「計画的な陰謀で動乱だ」と認定。これを受けて翌日の共産党機関紙・人民日報には「動乱」を批判する社説が掲載された。
これを受け、学生たちの反発は強まる。学生たちが目をつけていたのは、5月15日に予定されていたソ連のゴルバチョフ書記長の訪中だ。中国のみならず世界のメディアの目が北京に注がれるタイミングで、自分たちの要求をアピールする狙いがあったのだ。
ゴルバチョフ書記長は予定通り中国にやってきた。すると、比較的運動に寛容だった趙紫陽が「重要な問題は依然、鄧小平同志が舵を取る」と、鄧小平が未だに影で実権を握っていることを明かしてしまう。学生たちは翌日、鄧を「独裁者」などと直接非難する「五・一七宣言」を発表。その後、共産党政府は戒厳令の発出に踏み切るなど、両者の溝は決定的に深まっていくことになる。
この時点で、天安門広場には知識人やマスコミも加わり、およそ100万人が集まっていたとされている。
ゴルバチョフ書記長の帰国後、趙紫陽は天安門の学生たちの元へ足を運ぶと「来るのが遅かった」という言葉を残し去った。趙はその後、2005年に亡くなるまで公の場に姿を見せることはなかった。
そして、人民解放軍が武力鎮圧に踏み切ったのが6月4日未明だ。戒厳部隊は市民や学生に発砲を加えるなど武力による鎮圧に出た。事件後の当局の発表でも319人が死亡したとされた。
だがその数字は過小に報告されていると指摘されている。数千人との推計もあるが、BBCによると、イギリスが2017年に公開した外交文書では、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が死者数を「少なくとも1万人」と報告するなど、振れ幅がある。
この惨劇の過程で英雄と呼ばれる男性が生まれた。戦車隊の前に、武器を持たずに立ちはだかった男性だ。男性は迂回しようとする戦車の前に回り込み、行く手を阻んだ。そして、戦車によじ登ると中で操縦している兵士を説得しようとしたのだ。
結局男性は、駆けつけた仲間とみられる人たちに連れられ戦車隊の前を離れたが、武力鎮圧に非暴力で立ち向かうその姿は、今も「タンクマン」として語り継がれている。
また、のちに中国の民主化を目指すとした「08憲章」を起草し、ノーベル平和賞を受賞する作家の劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏なども、学生リーダーの一人としてこの運動に参加していた。
■その後
天安門事件後、中国は国際的な孤立に陥ることになる。日本を含む西側諸国から激しく批判されたためだ。各国は経済交流などを一時停止し、中国に経済制裁を課した。
日本が手を差し伸べたことで、結果的に中国は国際社会への復帰を果たすことになる。しかし鄧小平が提唱した改革開放路線は、天安門事件を契機に大きな壁にぶち当たることになる。
中国では、天安門事件は今もタブーとされる存在。検索最大手・百度(バイドゥ)で「天安門事件」と検索すると、出てくるのは第一次天安門事件のことばかりで、武力鎮圧のあった「六四」は消し去られている。
参考文献・出典:
中華人民共和国史 新版 天児慧(岩波新書/2013年)
独裁の中国現代史 楊海英(文春新書/2019年)
NHK「天安門事件 知られざる50日」(2019年)