「プラスサイズじゃなくてデブモデルだろ」と言われたことも
私は、よくツイッターで誹謗中傷を受けています。
政治的意見をよく発信するので、ある程度の批判なら受けても仕方ないかと思うのですが、プラスサイズモデルをしている私の場合、特に「外見」についてひどい言葉を投げかけられることがよくあります。
でも、私はそこで黙って、スルーしたりしません。
戦います。言い返します。
「プラスサイズじゃなくてデブモデルだろ」と言われたときは「そんな職業はないのでなれません。デブという言葉は侮辱のための言葉です」と返しました。
「ブログ読みました。純粋に疑問なんですけど、デブって怠慢から生まれるものじゃないんですか? 太ったなって思ったら世の女性はダイエットをして美を高く維持しています。あなたはダイエットを怠り、欲望のままに食べた結果のデブなのではないですか? あなたはプラスサイズを超えてデブなのではないでしょうか?」という投稿があった時は
「デブは怠慢からではなく、人を差別して貶したい心から生まれるものですよ。デブはただ人を傷つける時に使う言葉です。健康的であるのはいいことですが、あなたが人に無理やり健康でいることを強制する理由はありますか? 私は痩せているタイプではないですが、今の自分で幸せで、私の体型が原因であなたに迷惑はかけていません」
と返したこともありました。
なかには「あなたに心ない言葉をかける私たちはあなたのことをあえて茶化して面白がってます。無視するのが1番ですよ」とまで言ってくる人もいるんです。
その投稿には「正しくないとわかってるのにやられてるんですね。今夜その罪悪感で悪夢を見ることを願っています」と返しました。
そして、ネット上に自分の画像がひどい誹謗中傷の言葉と共に投稿されていたり、酷いあだ名をつけられて笑いのネタにされていたりするものもたくさん見ました。
返しても仕方ないようなくだらない小さな誹謗中傷もたくさん来ていて、数えたらどれくらいになるのかと頭を抱える数です。
ほかにも、事実無根なことをまとめサイトにあげられたこともあります(サイトの管理会社に削除を依頼したら、法的に訴えないと消せないと言われました)。
私はアメリカで、フェミニズムに出会い解放された
私は、プラスサイズモデル、女優、コメディアンとして仕事をしながら、さまざまな多様な民族が共に暮らすアメリカ・ロサンゼルスに住んでいます。
さまざまな多様な民族が暮らしていることは多様性や人権について敏感でいなければならないということです。ニューヨークやロサンゼルスは移民の文化で栄えた都市です。
私は移住してきてから、アメリカの人権思想を学び、これは世界に誇れるものであると感じました。
私の信じる人権思想のベースには、フェミニズム(性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動)があるので、ここではフェミニズムと呼びたいと思います。
フェミニズムを取り入れたことにより、私自身、アメリカでは日本にいたときよりも暮らしやすくなり、生きやすくなりました。
それと同時に日本にいた時に自分がものすごく苦しんでいたことにも気づきました。今まで見えてなかったものが急に見えてきて、なんともなかった思い出が気持ち悪いものに変わってしまうこともありました。
フェミニズムを知って失ったものもあります。たとえば昔は普通に観ていた映画も男尊女卑な表現が露骨すぎると気づいて観るのも嫌になってしまう、また外見差別的な発言にゲンナリして好きだった芸能人を嫌いになってしまう。観たくないテレビ番組も増えました。
それでもフェミニズムから得るものは多いと感じています。たとえば、フェミニズムは私を自己否定から解放してくれました。
フェミニズムと出会って、多くの女性の苦しみを知り、自分1人で苦しんでいたのではないということがわかり、社会から孤立しているような気持ちも減ったのです。
だから私はフェミニストでいることを選びました。そして、過去の自分が苦しんだようにいま苦しんでいる人を救いたくて、Twitterでの発信を始めました。
そうしたら、自分が思っていたより私の発信を、前向きに受けとてめてくれて、サポートしてくれる人が多くて驚きました。嬉しかったです。でも冒頭で述べた通りの多くの批判も受けています。
中学時代に受けたいじめの発端は「発言したこと」
日本にいたときは、外見などについていろいろ言われても、不満のモヤモヤを抱えながら見ないフリをしていました。
なぜなら、私が中学時代に受けたいじめも発端は「発言したこと」だったからです。いじめられていた友だちをかばおうと、「いじめをやめよう」とクラスメイトに訴えたら、気づいたら、今度はその友達の代わりに私がいじめのターゲットになっていました。
だから、その後はずっと、何か言われても発言することを躊躇する人間になってしまったのです。
自分の意見をもっていることさえいけないことで、もしそれを言葉にしたら叩かれる。自分の中にある思いは言ってはいけないものだと、心からそう信じていました。今の私を知る人は信じられないかもしれませんが、モヤモヤや考えを口に出して言う人の事を「めんどくさい」と軽蔑していたほどです。
言葉は人を殺すこともできてしまいます
でも、今はそんなかつての私のような人に、「自分の考えやモヤモヤを発信するのは間違っていることじゃない」と気づいて欲しい、そして言葉にできないモヤモヤを言葉に変えるきっかけを与えられるような存在にもなりたいと思っています。
だから、今の私は反論します。もちろん、何も言わずにスルーすることもできなくありません。
人の考えは急には変わらないけれど、自分自身は変えることができます。日本で「自分の意見をもっていることさえもいけない“悪”で、もしそれを言葉にしたら叩かれる」と思っていた私は、アメリカ生活でゆっくりと今の自分へと変わっていきました。
周りの意見するフェミニストを見て、差別と戦う言葉を手に入れて、いろんな人が住むロサンゼルスで多様な人に出会い、他人を受け入れるための広い視野も手に入れました。
いまの私はきっと人より心が強くなってていると思います。なぜなら、私はこれまでも色んな辛いことを乗り越えてきたし、ひどいことをいう人がいる一方で、私を受け入れてくれる人をたくさん知ってるからです。そして、本当の私を知らず、ネット上だけで誹謗中傷して、私を傷つけてくる人の言葉に価値がないことは充分にわかっているからです。
だから私は強くありたいし、何を書かれても、今は全然平気です。
でも同時に、その強さが突然崩れることがあることも、私はわかっています。私は強いと同時に、自分の強さを過信しないようにもしたいです。人は誰でも、なにも感じないように生きること、一度投げかけられて傷ついた言葉をずっと忘れたふりをして過ごすことはできません。
私のように忘れたり流したりできるひとは、ほんの一部です。
傷つき、立ち直れなくなって、時には自らの命を手放してしまう人もいます。
そして、人を傷つける言葉を匿名で送りつける行為は許されてはなりません。
けれど本当は、誹謗中傷にまったく傷つかない人はいません。こんなに強い私であっても積み重なった言葉が重く感じる日もあります。いつか痛みに耐えられなくなるときがくるかもしれません。
権力やマジョリティ側にもの申すのだから叩かき返されても仕方ないと、Twitterなどで言われることもあります。でもこれは、私は日本にいたときいじめも経験していますが、「いじめはいじめられる方にも原因がある」というのと同じロジックですよね。私は、そういう考え方は真っ向から反対します。
誹謗中傷やいじめをしてもいい理由なんて絶対にありません。
誹謗中傷は許されることではないんです。
私たちの言葉は人を殺すこともできてしまいます。
殺さずとも、うつや摂食障害、醜形恐怖症などの精神疾患の引き金となり、人の長い時間を奪ったり、その言葉を背負って人生を生きなければならなかったります。
私は、とくにネットでの誹謗中傷を告発しやすくなる環境作りが必要だと思っています。誹謗中傷をネット上の“娯楽”にしてしまうような今のままの状況ではダメです。
人々がもっと発言をしやすくなり、誹謗中傷をする者がちゃんと「法で」裁かれる世界に近づくことを願います。
(編集:榊原すずみ)