新宿二丁目は、孤独だった大学生の私を救ってくれた。 #SAVEthe2CHOME を願う、あるゲイの人生

私がこうして、私らしく毎日を過ごせているのは、新宿二丁目という街が存在したから。新宿二丁目が救ってくれたから。

新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐ外出自粛要請を受けて、世界に誇る新宿二丁目(二丁目)はいま、まさに深刻な危機に瀕しています。

東西約300m、南北約350mという区画の中にある小さな街。だけど、LGBTQ・アライのコミュニティにとっては、とても大きな存在である街です。

「自分にできることが何かないか、この街のために」

いま、誰も想像さえしていなかった事態に対して、もがきながらも、手を取り合い、抗おうとしている二丁目の人たちがいます。

その真摯な思いに触れ、ゲイの私自身もできることをやりたいと、記事を書くことに決めました。なぜなら、私がこうして、私らしく毎日を過ごせているのは、新宿二丁目という街が存在したから。新宿二丁目が救ってくれたから。

私だけでなく、本当にたくさんの人が、それぞれ経験してきた道のりは違えど、振り返れば、同じ気持ちなのではないかと思います。

きっかけの一つとなればと願い、前編に続いて、私と新宿二丁目の出会いと歴史とともに、「#SAVEthe2CHOME」を掲げ、奔走する方々の署名アクション(※5月10日に終了)を共有したいと思います。仲間がひとりでも多く増え、次のアクションに繋がることを祈って。

一人ひとりに新宿二丁目との物語がある

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筆者の松中権。NPO法人グッド・エイジング・エールズ代表 / プライドハウス東京代表 / ゲイ・アクティビスト
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ひとりのゲイの私が、二丁目に対してできることって、なんだろう。

二丁目と出会い、二丁目での繋がりや出来事を通して、今こうして存在していられる、ひとりのゲイの当事者としての気持ちを届けること。

それをきっかけに、別の誰かが、自分と二丁目の物語を思い出したり、大切な人に思いを馳せたりするような、輪を広げていくことに尽きるのではないかと思っています。

SNSが普及しようとも、二丁目はいまもなお、LGBTQの当事者にとっての居場所のひとつであり、二丁目が奪われることは、大きな居場所を失うということ。

一朝一夕でできる街ではありません。

その時代を生きた、様々な人たちの思いが繋がり、多くの人たちを救い、形を変えながらも、いまの二丁目として存在しています。

一人ひとりの二丁目との接点や物語は、それぞれ違います。LGBTQ・アライと括ることがベストだとも思っていません。それでも、新宿二丁目が、いま助けを求めているなら、救えるのは「私たち」しかいないのです。

 

高校生、新宿二丁目との出会い 

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最近、譲り受けた往年のゲイ雑誌など
Gon Matsunaka

ここでは、ゲイの私と、新宿二丁目の出会いと歴史をお伝えしてみたいと思います。

私が二丁目のことを初めて知ったのは、高校まで過ごした金沢でのことでした。

同年代のゲイの皆さんと同じように、私自身も、男性のことが好きかもしれないと気づいた時期と、保毛尾田保毛男が嘲笑の対象としてお茶の間を賑わしていた時期が、ほぼ重なっていました。辞書には、「ホモ=異常性愛、性倒錯」と記述されていた時代です。

家では明るい次男坊、学校では男子とも女子とも仲良しの優等生、そんな自分を演じながらも、自分のことを知られ周囲から拒絶されてしまうことへの恐怖と、親なのか社会なのか、何に対するものなのかも分からない罪悪感が、心臓や肺の辺りを蝕んでいるような、“酸素の薄い”毎日を過ごしていました。

ある日、同級生たちとノンケ(異性愛者)向けの「エロ本」を買いに行った本屋で、偶然見つけたゲイ雑誌。もちろん、その場は素知らぬふりを通しましたが、彼らと別れた後に本屋に戻り、周囲を何度も確認して、その雑誌を恐る恐る手にとってみました。

初めて見る男性のグラビアやイラストにも興味津々でしたが、同時に、日本のどこかで密かに暮らしている「異常」な生態の人たちのことを、覗き見している感覚が襲ってきました。パタッと雑誌を閉じ、全速力で家まで走って帰ったことを覚えています。

そのうち、風邪だと嘘をついて学校を休んでは、本屋でその雑誌を買うようになり、家の向かいのアパートの屋上で漁るように熟読。読み終えたら、自転車で遠く離れた町まで捨てにいく。その繰り返しでした。

新宿二丁目は、時折、雑誌に登場する夜の街。私の想像のなかでは、性に溺れてしまい、学業や仕事を放り出して、夜な夜な男から男へと徘徊するような、一度足を踏み入れたら二度と「ふつう」の生活には戻ってこれない、危険な街として存在していました。

大学に入るために上京したあとも、ただただゲイ雑誌を読み、イマジネーションを膨らませるだけで、新宿二丁目に行きたいと思ったことは、一度もありませんでした。

大学生、「ARTY FARTY」での出来事 

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大学時代。体育会フィールドホッケー部の仲間たちと。
Gon Matsunaka

1998年12月、大学4年生の冬。フィールドホッケー部を引退し、年明けの2月からは、オーストラリアのメルボルンへの留学が控えていました。

部活やゼミの男友達と適当に恋バナをこなし、合コンを楽しむフリをする、そんな嘘で塗り固めた毎日を生きる自分への嫌悪感が、限界値に達しようとしていた頃です。

ゲイでも楽しく暮らせるオーストラリアに期待を膨らまし、インターネットで調べるうちに、東京で働くゲイの人が運営するホームページに辿り着きました。

ゲイとしての他愛ない日々のことが綴られている内容に安心感を持ち、サラリーマンをしているという管理者さんに、ちょっとした憧れも抱いたのでした。

留学してしまえば身元がバレることもないだろう、と勇気を振り絞って、ホームページのお問合せにメールを送ってみたのです。

ゲイ雑誌を読む以外に全く何のアクションも起こしたことがなかったので、短いメールなのに、何度も推敲。更に下書きBOXに3日間保存。かなり熟成されてからの送信となりました。

「実は、自分はゲイなのだけど、ひとりも友達がいないので、どうしたら良いでしょう? 二丁目も気になってます......」という旨を送ると、すぐに返事が来ました。

「次の週末に、大きなゲイのクラブイベントが新宿歌舞伎町であるから、そこに行くと同年代の友達をつくりやすいよ。連れて行ってあげるから、新宿二丁目のお店で待ち合わせよう」という内容でした。

「でも新宿二丁目は怖いから」と伝えると、「カフェみたいにカジュアルなお店があるから、そこにしよう」と、『ARTY FARTY』というゲイバーが待ち合わせの場所に決まりました。

1993年にオープンした当時の「ARTY FARTY」は、新宿三丁目から御苑大通りを渡り、ちょっと進んだ路地裏のコーナーにありました。

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移転した現在の「ARTY FARTY」の看板
Gon Matsunaka

極度の緊張と、体育会仕込みから、待ち合わせの1時間前くらいには到着。入り口の玄関マットを小さなライトが照らす以外に外灯はなく、古びた山小屋のようなイメージ。全然、カフェみたいにカジュアルに見えない……。

誰に見つかっても言い訳ができるように、たまたま二丁目に迷い込んだ人を演じながら、店の前を何度も往復。恐怖心と、ゲイの人に直接会ってみたいという好奇心で、心臓がはち切れんばかりに。小さな話し声が聞こえ、視線を扉に戻すと、同年代らしき二人組が入ろうとする姿。今しかない。すかさず、長縄跳びに飛び込むように、二人組の後ろに続き、なんとか店内に入ることに成功しました。

「ARTY FARTY」は、入り口で飲み物を注文するショットバーのスタイル。前の若者のオーダーを真似して、モスコミュール、と言って、ポケットから現金を出します。身バレが怖くて学生証や免許証が入った財布は、下宿でお留守番。

お揃いのギンガムチェックのウェスタンシャツを着た店員さんの一人からグラスを受け取り、さらに奥へ。薄暗くて、顔ははっきり見えませんが、かなり混雑しています。壁際に立ち、顔も上げずに息を潜めながら、しばらくチビチビとグラスに口をつけていました。間が持たず、携帯を見るのですが、さっき見てから数分しか経っていません。待ち合わせまで、30分以上。

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(写真はイメージ)
Yagi Studio via Getty Images

ホモフォビア(同性愛嫌悪)からの解放

突然、誰かにトントンと肩を叩かれました。驚いて顔をあげると、さっきとは違う、同年代の男子二人組が目の前に立っていました。

「ひとりですか?」「大学生?」みたいなことを最初に聞かれた記憶はありますが、とにかく、マシンガントークでいろいろと話かけられ、質問され、店内の音楽もうるさく、あまり内容は覚えていません。

おそらくゲイであろう人たちと直接話をするのは初めてで、何をどのように、どこまで話して良いのかわからず、ただ聞いて、頷いていました。

ひとりから「どんな人がタイプなの?」という質問が飛び、我に返りました。

沈黙。そして、とっさに、「スポーツとかしてる人。サラリーマン」と、自分の口が答えたのです。すかさず、「ボクも、ボクも〜」と笑顔がかえってきました。

言えた!!!

嘘つかなくていいんだ!!!

今でもはっきりと覚えています。その瞬間は、胸につかえていた何かがスーッと溶け、新鮮な空気が大きく肺に飛び込んできて、全身に一気に酸素が行きわたるような感覚でした。

大げさに表現しているわけではありません。自分が話そうとする一言一句を、発話前にいちいち自分で検閲するでもなく、ありのままの気持ちを、目の前の二人に伝えられている自分の存在が、本当に嬉しくて、愛おしくて、自然と涙が溢れていました。

目が慣れてきていたせいか、さっきより店内が明るく見渡せるように感じました。

そこには、想像していたようなモンスターの姿はなく、学生から社会人、年齢層も見た目もバラバラで、おしゃれな男性やカッコいい男性、優しそうな男性、お笑いタレントのように盛り上げる男性、そして、どこにでもいるような普通の男性たちが、数人ずつのグループで集まり、本当に楽しそうに語り、お酒を飲んでいました。

ほどなく到着した、ホームページの管理者の方ともご挨拶。初めてできたゲイの友人たちのことを紹介すると、とても喜んでくれました。

二人が歌舞伎町まで一緒に行ってくれることになったとお詫びし、「ARTY FARTY」を待ち合わせ場所に選んでくださったお礼を伝え、人生初のゲイクラブイベントへ。

信じられないくらいの数の男たちが、巨大なフロアに、まさにすし詰め状態。1000人以上いたかもしれません。心から楽しく、朝マックの時間まで三人で過ごしました。

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「ARTY FARTY」で留学直前に友人二人と。10年後、一人はNPO立ち上げメンバーに。
Gon Matsunaka

翌日から、留学前日まで。週に三日か四日、二人の友人と夕ご飯を食べ、同年代の仲間たちと「ARTY FARTY」に集合。まさに、新宿二丁目に通っていました。

訪れるたびに本当にいろんな出会いがあり、いろんな人たちを受け止めてくれる安心感もありました。

一晩で数軒はしごをしながら、高校時代までの恋の話、家族との関係での悩み、仕事や結婚の可能性、理想の将来像などを語り明かしました。友人の誕生日ケーキをお店に持ち込み、当然ながら叱られ、新宿公園の近くでお祝いしたこともありました。

恋人ができ、別れもありました。

留学前夜は、心からこの街を離れたくないと思っていました。

誰にでもあるような青春の時間。ゲイだと気づいてから、黒いマジックで機械的に埋めてきた思い出帳を、まるで最初のページから、1ページ1ページ 丁寧に色鉛筆で塗り替えていく作業です。しかも、4倍速とか8倍速とか16倍速で。

それでも、時間はいくらあっても足りませんでした。

友人ができ、喧嘩もし、恋をして、恋に破れ、悩みを語り、未来を語る。


ただそれだけ? と思われるかもしれません。

ただそれだけ、なのです。


ただそれだけのことが、当たり前にできない社会だから。

新宿二丁目が必要だったし、今も必要なのです。 

もし、あの夜、二丁目に行っていなかったら。自分自身のことを否定したまま、殻のなかに閉じこもり、自分のことを受け止めることも、守ってあげることもできていなかったかもしれません。留学先のオーストラリアでカミングアウトした生活を送ることもなかったでしょう。

二丁目が、私の人生を救ってくれたと思っています。

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「ARTY FARTY」があった場所は大きな駐車場になった
Gon Matsunaka

二丁目という街自体がコミュニティ

NPO活動を通して、ゲイ以外のレズビアン、トランスジェンダーの人たち、最近ではアライの人たち、飲み屋やクラブという単位ではない主体との関わりも増えました。

街自体がコミュニティに近い存在へと感じ方も変わってきました。私にとってのホームのような、関わるひとたちが、ゆるやかに「私たち」としてつながっている感覚です。

もちろん一人ひとりの二丁目との接点や物語は、それぞれ違います。LGBTQ・アライと括ることがベストだとも思っていません。それでも、新宿二丁目が、いま助けを求めているなら、救えるのは「私たち」しかいないのです。


大変な今こそ、二丁目に恩返しを

長くなりましたが、ここからは具体的なお願いとなります。

二丁目を救うために、「私たち」にできることを、有志の仲間たちが立ち上げています。

ひとつは、「#SAVEthe2CHOME」の動きを後押しすることです。

新宿二丁目振興会のトシさんたちが、新宿区長あてに「新型コロナ感染拡大防止のために営業を自粛・休業する飲食店などの事業者に対する補填を求める」嘆願書を提出することを目指し、店舗経営者からの署名を集めています。

同様のオンライン署名が、change.orgにてスタートしました(※5月10日に終了)。ぜひ、サインをお願いします。

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change.orgのページより
HuffPost Japan

もうひとつは、具体的に「#SAVEthe2CHOME」することです。

オンライン営業やオンラインチケット販売、クラウドファンディングを立ち上げているお店もあります。少額であっても、お店との繋がりやエールを伝え届ける良い手段です。

また個店が生き残るだけでなく、街そのもの存続させていくための支援の仕組みも、有志の方と検討しているところです。

「私たち」とは誰か? それを定義したいわけではありません。ご自身が「私たち」のひとりだ、と思う人に届いて欲しいなと思っています。

二丁目は「私たち」という傘が嫌いな人も、ゆるやかに受け止める街でもあります。自分にとって大切な人を辿ると、必ず、誰かは二丁目とつながっています。

できるだけ多くの方に届けられるように、ぜひ思いをシェアしていただけると嬉しいです。あなたが、もし「新宿二丁目が救ってくれた」と思われたことがあるなら、ぜひ、小さなエピソードも添えて。


【編集追記】(2020/05/11 13:40)
#SAVEthe2CHOMEを呼びかけている新宿二丁目振興会は5月8日、新宿二丁目のお店や企業の経営者や従業員らの署名754名分と要望書を新宿区役所に提出した。change.orgの署名キャンペーンは5月10日に終了。今後、2738名の署名を新宿区に提出する予定だという。

》前編:新宿二丁目を救うために、奔走する人たちがいる。老舗バーの“ママ”になった私の想い

(文:松中権 編集:笹川かおり)