日本ではステイホーム週間が始まっている。新型コロナの感染を広げないためにできる、せめてもの社会貢献は、「家を出ない」というシンプルなことのはずだが、「いつまでか」が見えてこないと、心穏やかに過ごすのはなかなか難しい。
私は夫で指揮者の大野和士とともに、普段は欧州を拠点にしているが、2月中旬に日本に戻った後、感染状況が悪化の一途をたどるスペインにもベルギーにも入国できなくなった。今は日本のホテルで過ごしている。この間、東京、バルセロナ、パリで予定されていた夫の演奏会は、当然ながら全てキャンセルになった。
音楽会や展覧会、演劇、ライブなどを以前のように楽しむことができるのは、社会が日常を取り戻したその先である。その日が再び、いつ訪れるのか、そのために今、何をするべきなのか、アートに関わる人間が、日々抱えている問いだろう。
ただ、災害など、被災が1つの地域に限定される場合と違い、困難と課題を世界で共有し、アイディアをシェアできるのが、コロナ危機の唯一の救いだ。
巣ごもり生活が日本より3週間ほど「先輩」であるヨーロッパで、アーティストがどのように過ごし、発信しているのか——。
欧州に目を向けると不毛に見えるコロナ危機の中で、花を開かせる準備をしている芸術家たちの芽吹きを垣間見ることができる。
ステイホーム週間に、その萌芽を日本の皆さんとぜひシェアしたい。
《絶対に覚えていよう》
感染者数に慄く日々の中で、欧州メディアがホッとするニュースとして伝えたのは、デイヴィッド・ホックニーという82歳になる巨匠の画家の話題だった。
ホックニーは1937年にイギリスで生まれた画家で、明るい陽光を感じさせる、鮮やかな色彩の作品を描く。作品は彼が住むアメリカや祖国イギリスをはじめ全世界で愛され、イギリスのロイヤルオペラハウス、アメリカ・ニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場などの舞台作品も手がけている。
フランスのノルマンディー地方に滞在する間に移動ができなくなったホックニーは、周りの自然の風景を静かに観察して、インスピレーションの源にした。
彼は冬から春へと季節が移る中、鉛色の空が次第に生気を取り戻し、林檎の木が白く香り高い花をつけ、うつむき加減だったラッパ水仙が、すっくと顔を上げて咲き誇る様子を描いた。iPadも使いこなしながら制作に没頭したという。彼は作品群に、こんなタイトルをつけた。
《絶対に覚えていよう。春だけはキャンセルされることはないのだ》
戦渦に向かう時代に生まれ、思い通りにならない時代に青春を過ごした巨匠は、
「私は83歳だから、そのうち死ぬことになる。生まれてきたのだから、当然、死ぬわけだ。生きる上で本当に必要なことは、食べ物と、愛情だけ。私の飼い犬と同じようにシンプルだ」
と、英『BBC』のインタビューに答えている。
ホックニーの作品は、休館中のロンドンの美術館ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツが、「スクリーン上の展覧会」と題して、2012年、2016年に行われた彼の回顧展を、解説付きで無料公開しているので、ぜひご覧いただきたい。
明るい「虹」がモチーフ
コロナ危機で展覧会やアートフェアは中止になり、どのアーティストの生活も楽ではないが、
「アーティストなら、危機ですら霊感にできるはず」
と、外出禁止の中で生まれた作品の投稿を呼びかけたのが、「Covid Art Museum(コロナアート美術館)」と言われる、インスタグラムを使ったプラットフォームである。
ここでは、医療関係者をヒロイックに描いた肖像画や、1人で過ごす孤独、家の中から出られない苦悩など、コロナ危機に関わるアート作品が1000以上発表されている。
心が折れた人にアートを役立ててもらいたい、と作品を無料でダウンロードできるようにしたのは、ダミアン・ハースト(54)という、英国の有名な現代美術家である。現在生きている美術家の中で、オークションでつけられる作品の値が、最も高価なランクの作家の1人であるとも言われている。
父親が家を出て行った12歳から、荒れた生活を送ったハーストは、建築現場で働きながらロンドンの大学で美術を専攻、学生の時に仲間と自主企画した展覧会で、大手広告代理店社長である美術コレクターに見出され、一躍、現代美術界の風雲児となる。
死んだ牛や羊をホルマリン漬けにし、巨大なガラスケースで展示するなど、生と死をテーマにしたグロテスクな作品は、今まで数々のスキャンダルも巻き起こしてきた。
しかし、今回ダウンロードできるポスター作品は、明るい「虹」がモチーフだ。
コロナ危機の最中、虹の絵を描いて窓に貼る運動が、イタリアからヨーロッパ中に広がった。「虹」は災難が過ぎ去っていくという、お守りのシンボルである。
旧約聖書の中で神は人間の堕落を嘆き、正しい人間ノアとその家族、つがいの動物たちを除いて、大地を洪水で滅ぼすことにした。40日40夜、洪水が続くが、神の怒りはやがて溶け、二度と人間を滅ぼさないという約束の印として、神は空に「虹」をかける。
ヨーロッパ人にとって虹は「希望」を表す象徴なのだ。ハーストは、
「多くの人々が不安を抱き、心が折れている。アートがそんな時に役に立てば」
と語り、医療関係者への寄付金も呼びかける作品も同時に作っている。
窓に貼るポスターは、私たち日本人にももちろんダウンロード可能である。
「日常」を極めて芸術に
巨匠がそのネームヴァリューで社会に貢献しようとする一方、若いアーティストたちは、ソーシャルメディアを「舞台」に作り変えている。
ダンサーにとっては、日々の身体の鍛錬が何よりも重要だが、外出禁止のため、いつものように劇場に出かけて身体を動かすことがままならない。そこで何と、自宅のキッチンや、バスルーム、庭という「日常」を舞台に変えてしまったのである。
鍛え上げられた肉体と、考えに考えられた振り付けが表情豊かで美しい。キッチンでの調理やテーブルでの盛り付け、洗い髪をタオルで乾かすという日常も、極めれば芸術になるのだと感心する。
スペインが外出禁止に入ったのは3月14日。実はこの1週間前ぐらいまでは、ムードはそれほど緊迫してはいなかった。
そのため、外出禁止になっても外に出ようとする人の意識を高めようと、広告業界の若いアーティストは、「おうちへ帰そう」というキャンペーンを考え出した。
人物が登場する名画や映画のポスターから、フォトショップを使って人物だけを画面から消し、
「描かれている人物をおうちに帰そう」
という呼びかけである。
例えば南仏アルルの風景を描いたフィンセント・ファン・ゴッホの《夜のカフェテラス》をモチーフにした作品では、通りを歩く人々や、カフェで注文を取るボーイ、テーブルで談笑する人々が、2枚目で姿を消し、星空の下、通りは静まり返る。
「この外出制限を楽しもう」
まさに、「コロナ危機の落とし子」と言えるような名声を、思いがけなく手にしたシンデレラボーイたちもバルセロナにいる。
外出制限が始まった時、たまたま同じアパートに住んでいた20代のミュージシャン3人は、一緒に何かやろう、と「ステイホーマス」というバンドを結成した。
彼らのライブは全てキャンセルされて仕事はない。この先、収入の目処もなかったが、時間だけはある。そこで1日に1曲、外出制限下の暮らしを歌詞にして新曲を作る、というミッションを自分たちに課すことにした。
朝起きると歌詞やメロディーを考え、曲ができた夕方に屋上に上がって、3人で新曲をソーシャルメディアで披露する。
映像では、「外出禁止何日目」と最初に伝え、来る日も来る日も、バルセロナの青空の下、鍋のフタやバケツなど、そこら辺にあるものを楽器に見立てて、ある時はボサノヴァ風、ある時はレゲエ風と色々なヴァージョンで、陽気に新作を発表し続ける。
こうしてステイホーマスは、口コミで評判を呼んでいった。やがて南米の有名人がコラボを呼びかけ、あっという間に米メディア『ニューヨーカー』や『CNN』から取材を受けるほど有名になったのである。
当初はお母さんに聞かせたい、というぐらいの気持ちでメディアにアップしたそうだが、一歩も家から出られないうちにスターとなってしまった。7月末、バルセロナのホールで初ライブが決まり、チケットが発売されたところ、20分で全席が完売してしまったという。
ステイホーマスの曲の中で特に人気が高く、4月30日現在で51万回以上再生されている「Gotta be Patient」をご紹介しよう。
外出制限6日目にできたこの曲の歌詞は、
「また友達に会いたいよ また通りを歩きたいよ でも辛抱しなきゃ この外出制限を楽しもう 君の愛を感じたいよ インスタだけじゃ物足りない でも辛抱しなきゃ この外出制限を楽しもう」
スペインではうっかり気がつくと、この歌詞を口ずさんでいる人も今や多いと聞く。
しかし彼らが、「外出制限」のつもりで使ったサビの歌詞「confination」という単語は英語には存在せず、正しくは「confinement」。それでも『ニューヨーカー』や『CNN』は、「歌の素晴らしさは変わらない」と伝えている。
日本の皆様、長期戦を乗り越えるためには、真面目さだけではなく、ラテンの、どこかゆるい感じも参考になるはずです。
Gotta be Patient!
この外出制限を楽しみましょう!
大野ゆり子 エッセイスト。上智大学卒業。独カールスルーエ大学で修士号取得(美術史、ドイツ現代史)。読売新聞記者、新潮社編集者として「フォーサイト」創刊に立ち会ったのち、指揮者大野和士氏と結婚。クロアチア、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランスの各国で生活し、現在、ブリュッセルとバルセロナに拠点を置く。
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(2020年5月2日フォーサイトより転載)