「英語ができるの?かっこいいね!」
そう言って向けられる眼差しには正直、言葉に詰まる。
日本で生まれ育ち、公立高校の普通科に通っていた僕は、3年前までパスポートさえ持っていなかった。遠く離れた地にルーツがあるわけでもなければ、留学の経験があるわけでもない。
そんな僕が、「翻訳アシスタント」だなんて響きの良い肩書きでインターンをして、英語で大学の卒業論文を書き、異国の地で生まれ育った人たちとパソコン越しに雑談をしているのだから、少し不思議な話ではある。
けれど、僕にとって英語は「かっこいい」どころか、コンプレックスなのだ。
英語は、奏でるもの、聴くものだった
物心がついた頃から、僕の世界には2つの言葉があった。
1つは家族が話したり、読み書きをする言葉。幼稚園の先生も、野菜をおすそ分けしてくれる近所のお婆ちゃんも、周囲の人たちは皆んな、この言葉を使っていた。
もう1つは、父の部屋でレコードの針が奏でる呪文のような言葉。この言葉の意味はこれっぽっちも分からなかったもけれど、僕はその心地良い呪文を聞こえるままに口ずさんでいた。
その音に身を委ねてソファで眠る僕を見て、母は「ケイにとっては、これがお昼寝の定番曲だね」と笑った。それが「ハード・ロック」と呼ばれる音楽だと知ったのは、だいぶ後の話だ。
この言葉に「英語」という名前があると教わったのは、英会話を習い始めたとき。「習う」と言っても、当時の僕はとても幼かったので、覚えているのも「ぐっない」や「はーわーゆー」を合言葉のように繰り返したことくらい。それを「会話」と呼ぶにはあまりにも可愛すぎる。
それでも、殆どレコードからしか耳にしたことのない言葉に包まれて過ごす毎週金曜日の夜は、喜びと憩いの時間だった。先生に合言葉を伝えて、みんなと呪文を唱える。それだけで僕の心は満たされたのだ。
英語は読むものでもなければ、書くものでもなかった。
話すものでも、聞き取るものでもない。
僕にとっての英語は、奏でるもの、聴くものだった。
それから何年もしないうちに両親が離婚して、父のレコードたちとも、僕は突然のお別れを迎える。母と僕ら兄弟、新しい街での3人暮らしに備えて、英会話教室も辞めてしまった。
驚いたことに、生活の中に当たり前にあったはずの言葉がない世界で、僕は何事もなかったかのように着々と日常を営んでいった。子どもとは、なんと身勝手でしなやかなものだろう。
懐かしくも新しい言葉
英語と思いがけぬ再会を果たしたのは、それから4年ほどの月日が経ってからのこと。
中学生になった僕の時間割表に、「英語」の文字が姿を現した。
とは言えど、文法や単語という未知の鎧を身に纏ったその言葉は、僕が知っている英語とはだいぶ違っていた。
しかし、この科目は妙に肌馴染みが良く、初めて目にする文法や単語も、一度教わればスルッと頭に入ったのを覚えている。教科書に書かれた例文も、おぼろげながらも記憶の中にある呪文をイメージして読めば、周囲は「海外に住んでいたの?」と目を丸くした。
長らく放置されたにも関わらず、「久しぶり…だね」と差し出された僕の手を英語は握り返してくれたのだ。
しかし、高校に進むと同時に、ことは少し複雑になっていく。
教科書や単語帳が数週間で用済みとなってしまった僕に、「英語キャラ」という肩書きが付いて回るようになるまで、そう時間は掛からなかった。
英語が話せることは良くも悪くも異質で、「かっこいい」という人もいれば、その裏返しで「鼻につく」という人もいた。そして正直、僕にはその全てが苦しかった。
日常を放棄する勢いで英語にのめり込んでいく中で、英語は唇や頭から離れて心臓に移動し、もはや「アイデンティティ」と呼ぶに相応しいものになっていたのだ。
自分にとって「特別でも何でもない一部」について、外部から過度に口出しをされると、それがどんなものであれ何だか疲れてしまう。そして何より、「英語」という名の下に「自分」という人間を単純化されているような気がしてもの悲しい。
しかし、この歯痒さを言語化する能力など、当時の青々とした僕は持ちあわせておらず、「英語キャラ」という着ぐるみを甘受する他になかった。
大学に進むことを決めた僕は、英語学科に進学した。
「受験英語」は少し特殊だったけれど、英語を渇望する真っ直ぐな情熱と、「『英語キャラ』の自分にはこれしかないから」という少し不健康な思いを胸に、初めて「勉強をしよう」と意気込んで英語に身を捧げて、その切符を掴んだのだ。
大学は、思い描いた通りの新世界。誰もが「英語キャラ」のこの空間では、僕はもう異質ではなくなった。求め続けた言語が飛び交うその場所で、音楽的とさえ形容できるその音の重なりに天を仰いで「やっと自分の居場所にたどり着いたぞ」と静かに祝福をした。
…のもつかの間、僕は自分の英語の「歪さ」に気付くことになる。
コンプレックスに豹変した英語
大学には大きく分けて3つのグループがあるように感じた。
一つ目は、「生活の英語」を知る人たち。英語圏での生活経験が長かったり、インタースクールに通っていたなどの理由で、日常的に英語を話す習慣を纏った人たちだ。
二つ目は「勉強する英語」を知る人たち。彼らは喋りこそ苦手だったけれど、書き言葉、読み言葉としての英語においてはとても優れていた。
そして三つ目が、留学経験者。「生活の英語」も少なからず身に付いていて、「勉強する英語」もよく知っている人たちだ。
もちろん、それぞれに異なる背景を抱えているので一概にカテゴライズは出来ないけれど、その三つのグループの中のどこにも、僕の居場所はなかった。
そう。またしても僕は、宙ぶらりんになったのだ。
大学入試では「基礎問題を効率よく解くこと」が問われたので、取り分け難解な英語と向き合うことなくここまで来れてしまった。2回あった入試の内の1つは落ちていたし、滑り込み合格だったことは認めざるを得ない。
その一方で、海外経験がまるで無く、周囲に英語を話す人もほとんどいなかった僕は、特に「生活の英語」を知っていた訳でもない。
独学で培った話し言葉も、教科書の例文のような英語に、音楽やドラマから拾い集めた「借り物」の単語や熟語を貼り付けた、酷くチグハグでぎこちないものばかり。
「自分には英語しかないから」と逃げるようにして辿り着いた大学で知ったのは、自分の英語が“ゲテモノ”という手厳しい現実だったのだ。
とは言えど、時すでに遅し。その頃にはすっかりと英語が僕の中で言語的地位を確立していて、意識せずとも思考の半分近くは英語で行われていた。
手元にある僅かな語彙と構文を駆使して、それで補えないところは日本語が補う。頭の中ではそんなことが日常茶飯事だった。
日本語の方がずっと得意なはずなのに、思考するとき、会話をするとき、文法的にも誤りだらけの不格好な英語が、我先にと日本語を押し退けて出てくるのだ。
アイデンティティであり、唯一の取り柄であり、思考や生活の基盤でもある言語そのものがコンプレックスと化したその屈辱と恐怖は、今でも、ほとんど手で触れられるくらいにはっきりと覚えている。大学と家を行き来する片道1時間20分の電車の中で、「自分には何もない」という無力感が身体中に重々しく響いていたことも。
背伸びを続けた怒涛の4年間
コンプレックスに打ちひしがれた僕は、身の丈に合わぬと知りながら英語で行われるゼミや講義を選んだ。
ディスカッション中には、議題に関するメモと、周囲の人たちが会話の中で使う言い回しを書き留めるメモの2種類をつくって、覚えたフレーズは徹底的に真似た。プレゼンやスピーチは何度も原稿を推敲して、練習したものを録音し、聞き返した時に違和感のあるところはできる限り直した。
アルバイトも、海外からやって来るお客さんの多い銀座の飲食店などを選び、お客さん同士の雑談や注文時の音の抑揚に神経を尖らせる日々。
担当の個室に英語圏のお客さんが入った時には、「今日はこの言い回しを使おう」と念仏のように覚えたての英語を唱えてからシフトに入り、策をめぐらせて会話の膨らむ流れを作った。
卒論も、もちろん全て英語。これは聞こえよりも更に背伸びをした試みで、研究室に誰よりも頻繁に通うことになったのは言うまでもない。
教務課に滑り込みで提出をした頃には、英語に手を伸ばし続けた怒涛の4年間も幕を閉じていた。
人の数だけ言語との付き合い方がある
正直に言ってしまえば、今でも英語はコンプレックスでありアイデンティティだ。
ただ、しっかりと晴れてきた部分があるのも事実で、僕と同じように言語にコンプレックスを抱いている人は意外と沢山いると知れたことは、取り分け大きな進展だった。
家の中と外で違う言語を話す人たちや、それこそ初めは流暢な英語を羨んだ、いや、怨めしくさえ思った留学経験者たち、そして複数の公用語を持つ国で育った人たち。
そういった全ての複数言語話者(あるいは何らかの形で複数言語を使っている人たち)の背景には、多様な「言語のあり方」があり、そこでは多くの人がそれぞれに葛藤していたのだ。
感情を伝えるのに適した言語がお互いに違うから、父親と上手にコミュニケーションが取れない。海外を転々として育ったので心から「母語」と呼べる言葉がない。そんな人たちにも出会った。
話題によって言語が入れ替わる場合もあるし、話す言語によって人格に違いが生じて悩む人もいる。
少し気を許せばスルリとどこかへ消えてしまうこともあるし、不意にいずれかの言語が暴れだすこともある。言語とは、笑ってしまうくらいに流動的で複雑に入り組んだものだ。
僕がこの文章を書く間にも、あちこちで2つの言語が助け合ったり、出しゃばり合ったりしている。
中には、全てを英語で書いて(文法的な正確性は保証できない)その後で日本語に直したパラグラフもあるし(この手法で書いた文章は叙情に欠けて主張がはっきりとしている場合が多い)、日本語で書いたけれど英単語がいくつも混じっていて、後から日本語の同義語を思考して調整し直した部分もある。
出会いや思い入れがどんなものであれ、人は皆、それぞれにオリジナルな関係で言語と共に生きている。
僕が大学で漠然と感じた三つのグループなんて、最初から存在しなかったのだ。皆んながそれぞれに「宙ぶらりん」なのだから。
そのユニークな事実を俯瞰できるようになるまでに、随分と時間がかかってしまったけれど、今ならその複雑性を少しばかり楽しむ余裕(roomという言葉が先に出た)が心にできたと思う。
もう「自分の英語なんて」と溜め息交じりに吐き捨てることもやめよう。
人がどのように言語を渡り歩こうと、そこに「かっこいい」も「ゲテモノ」もない。そして、僕と言葉の「在り方」も今までと同じように変わり続けていく。
今はまだ頭で思うだけの部分もあるけれど、そう自分に言い聞かせていこう。
英語が僕の口や頭を離れて心臓の鼓動と重なり合ったように、心の奥底からそう思える日が来ると信じて。