志村けんが死んでしまった。
4月1日に放映されたフジテレビの追悼番組では、ザ・ドリフターズの3人をはじめとした出演者の後ろに、「ひとみ婆さん」や「変なおじさん」など志村が生み出したキャラクターのパネルが並んでいた。
エイプリルフールとしか思えない奇妙な光景だった。
番組の流れとしては、最後に棺桶から「だいじょうぶだぁ」と言ってひょっこり顔を出すはずだ。なのに、そのまま番組は終わってしまった。
志村は本当に死んだのだ。
2019年末から、Amazonプライム・ビデオで『8時だョ!全員集合』を順に観ていたところだった。1969年から1985年まで続いた、TBS系列土曜日20時に放送されていたザ・ドリフターズの番組だ。
1974年生まれの自分は、就学する前から、物心がついたときにはすでに観ていた番組だ。自分にとってのテレビの原体験は、『全員集合』と『ドラえもん』だったのは間違いない。それは自分だけでなく、同世代の多くにとっての共通体験だ。
約35年ぶりに観る『全員集合』では、子どもの頃には気づかなかったその創り込みに感心した。オープニングからメインコント、ゲスト歌手の歌を挟みながら「少年少女合唱団」などのコーナー、そしてミニコントを経てエンディング──慌ただしいセットチェンジを繰り返しながらの盛りだくさんの1時間は、間違いなく超一流のエンタテインメントだ。
その魅力はなにか。それを考えるために、プロデューサーの居作昌果の著書や、いかりや長介の自伝を読み終え、そして2002年に出た志村けんの『変なおじさん【完全版】』を読み進めていたところだった。3人のそれぞれの証言によって、あのときの『全員集合』がより立体的に見えてくる。
そんななか、志村が死んでしまった。
46年前の4月、志村けんはドリフターズに加入した
46年前の1974年4月、志村けんはドリフターズに正式加入した。自分が生まれたのはその翌月だ。
志村は高校卒業直前からドリフの見習い(ボーヤ)をしていたが、一時期ドリフから離れてマックボンボンというコンビで活動していた。テレビにレギュラー番組を持つほどに活躍していたが、1年ほどでドリフに出戻り、そして荒井注が脱退したことを機に正式にメンバーとなって『8時だョ!全員集合』に出演するようになる。
しかし、ブレイクするまでには少し時間が必要だった。志村はこのときのことを、こう振り返っている。
お客が身を乗り出して見てたのに、僕が出たとたんにサーッと引いて、シーンとなる。それが手にとるようにわかるから、つらかった。どうしても荒井さんと比べられるから、何をやってもダメで、悲惨だった。
(志村けん『変なおじさん【完全版】』1998→2002年/新潮文庫)
ブレイクするのは、それから2年後の1976年だ。「少年少女合唱隊」のコーナーで披露した「東村山音頭」が大ヒットする。三橋美智也が歌う原曲に、志村がアドリブで加えた部分が大受けした。重ね着した衣装を順に脱いでエスカレートしていく展開も、新しかったのかもしれない。
とは言え、このブレイク直後(1970年代中期)の志村を生まれたばかりの自分はリアルタイムで観ていない。このあたりの志村を体験するひとは50代以上かもしれない。
半世紀近く一線を走ってきたこともあり、世代によって見ていた志村けんの姿は異なるはずだ。
『全員集合』を通っていない30代にとっては、後番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS/1986~1992年)や『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ/1987~1993年)が馴染み深いだろう。20代以下にとっては、『天才!志村どうぶつ園』(日本テレビ/2004年~現在)や特番の『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ)を親しんできたはずだ。
アドリブよりも創り込み。画期的だった『全員集合』
『8時だョ!全員集合』は、1969年10月にスタートした。志村がドリフの見習いになって2年目のことだ。
当初から『全員集合』は画期的な番組だった。劇場に大掛かりなセットを造り、多くの観客の前でコントを披露し、それを毎週生中継する。それは前例のないことだった。
とくに入念に創り込んだコントは、この時期は珍しいものだったらしい。それまでのバラエティ番組は、舞台設定だけ準備されタレントのアドリブに任されていたものが多かったという。萩本欽一と坂上二郎のコント55号が全盛期のこの時代、ドリフターズがこうしたコントができたのは、それまでジャズ喫茶で腕を磨いてきたからだ。アドリブよりも創り込み──それは『全員集合』を経たあとの志村けんにも一貫した姿勢だ。
『全員集合』はすぐに人気番組となる。70年代中期はフジテレビの『欽ちゃんのドンとやってみよう!』に押されて視聴率に停滞が見られたが、志村のブレイクによって人気を盛り返す。
荒井注と志村けんの交代によって、ドリフターズのバランスも変わった。ステージの中心は、加藤茶から志村けんになっていった。70年代中期から後半にかけてのこの変化を、『全員集合』の居作昌果プロデューサーはこう振り返っている。
(志村けんは ※筆者註)荒井注の代役から、ドリフターズの主役、「8時だョ! 全員集合」の主役になっていったのである。これは当然、ドリフの、そして「全員集合」の笑いそのものに、大きな変化を起こす結果となった。
(略)
荒井注がいた時代は、加藤茶が主役ではあったが、加藤のひとり舞台というコントはなかった。五人のアンサンブルの中で、加藤が笑いを取るという形だった。これは、加藤というコメディアンと、志村というコメディアンの、タイプの違いである。全体のアンサンブルの中で、受け身の形でいながら次から次へと笑いを生み出す、いわば「柔」のタイプの加藤と、攻撃的な展開を自ら作り出すことで笑いを生みだす、「剛」のタイプの志村との違いなのである。
(居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』1999→2001年/双葉文庫)
リアルタイムでその変化を知らなくとも、加藤茶と志村けんの違いを「柔」と「剛」で説明したくだりは説得力がある。
これによって5人の関係性にも変化が訪れ、コントの質も変わっていった。荒井注がいた前期ドリフターズでは、いかりや長介は「人間関係での笑い」だったと振り返っている。リーダーの自分が「権力者」で、弱い4人が不満を持っているという設定だ。しかし志村けんの加入後は、「ギャグの連発、ギャグの串刺し」になっていった(いかりや長介『だめだこりゃ』2003→2005年/新潮文庫)。
志村けんが次々と繰り出すギャグを、加藤茶が受けて増幅させていく。5人のなかに新たな調和が生まれていった。
1977年にはPTAによる「ワースト番組」1位に
当時、まだ幼かった私にとっての志村けんとは、ざっくり言えば悪ガキだ。教室コントが典型だが、悪ふざけばかりして、加藤茶をはじめ周囲をどんどん巻き込んで場を混乱させていく。いかりやが「ギャグの連発」と説明したのは、こうしたあたりだろう。
ギャグの質も決して穏やかなものではなかった。「東村山音頭」のオチは、股間に白鳥の首がついた衣装だ。もともと『全員集合』は、加藤茶の「ウンコチンチン」や「ちょっとだけよ」など、シモネタは少なくなかった。教師や親に怒られそうなことばかりだ。
シモネタだけでなく、「七つの子」を「カラスの勝手でしょ」と替え歌にしたのも、スイカの早食いも、仲本工事とのジャンケン決闘も、大人から怒られることをわざとやる痛快さが受けていた。
実際、大人たちからは常に眉をしかめられていた番組だった。1977年には、日本PTA全国協議会の「テレビワースト番組7」でも1位となる。「言葉づかい、野卑、行動下品、悪ふざけ、食物を粗末に扱っている」という理由だった(朝日新聞1978年8月9日付朝刊)。
筆者にも記憶がある。たしか小学校1年生だった1981年のことだ。PTAから『全員集合』が「子どもに見せてはいけないテレビ番組」だというプリントがわざわざ配布された。嫌われるのは当然だろうが、そんなものを配布してわざわざ親に伝えようとするPTAの姿勢がなんともズレて感じられた。
もし大人たちに厳しく怒られたら、当時の志村のギャグで返せばいい。
「怒っちゃやーよ」
PTAがそんな生真面目な姿勢だからこそ、悪ガキとしての志村が子どもたちに喝采を浴びたのだ。
この1981年には、『全員集合』は新聞の社会面に載るような騒動も起こす。6月27日放送のメインコント「ドリフの大脱走!鬼の看守の目を盗め」で、志村けんに似せた等身大人形の首をギロチンで切り落とすネタをやった。これに抗議の電話が殺到し、TBSの回線はパンクしたという。
ただ、こうしたときに制作側はそれほど揺るがなかった。それまでにも多くの抗議を受けていたからか、古谷昭綱プロデューサーは取材に対しこう答えている。
「『全員集合』はご承知の通り、ワースト番組で、何をやっても反応があるけど、いつも不思議なのは、『残酷だ』と親はいってくるが、実際に子どもから電話なり、投書があったことはない」
(略)
「子どもは、冗談は冗談だとわかってますよ」
(朝日新聞1981年6月28付朝刊)
居作昌果プロデューサーはこのギロチンネタの背景に、死刑についての議論があったという。この放送の1ヶ月前、フランスでは死刑廃止を公約に掲げたフランソワ・ミッテランが大統領に就任した。後年、それを踏まえて居作はこう述べている。
残酷だと叱られるのはいい。だが、残酷なのは死刑であって、日本における死刑制度そのものに、正義の味方たちには、少年探偵団ごっこをしないで真剣に論議をして欲しかった。
(略)
残酷だ、人の命を軽んじていると思うのなら、ただ報じるだけではなく、死刑の是非について取り組むべきではないのだろうか。
(居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』1999→2001年/双葉文庫)
それが本当に自覚的で挑発的なネタだったか、あるいは単なる苦しい自己弁護だったかは、いまとなってはわからない。ただ、高視聴率ゆえに常に叩かれる『全員集合』を続けることに、スタッフに相当の覚悟があったことはわかる。
しかし、視聴者の子どもたちにとっては、そんな創り手の思いはおそらくあまり伝わってなかった。80年代に入り、『全員集合』は新しいお笑いの前に力を失っていくからだ──。
(後編に続く)