テレビで目にした発達障害の番組。そこには“僕のこと”が映し出されていた

すぐに、発達障害なるものの情報を調べ漁った。当時の日記には「思い当たる節がありすぎて、ゾッとする。怖い」と記されている。

体温計が34.6度を示したのは、4月のとある朝だった。「おかしい」と感じて再び測った。やはり平熱よりも大幅に低く、34.6度だ。

なんとか電車に乗って出社したが、朝の会議を抜け出て、内科に駆け込んだ。医師は「あなたはここじゃないね」と言った。内科医に促された通り、精神科を訪れた。1カ月の休職を指示された。鬱だった。

4月には「世界自閉症啓発デー」や「発達障害啓発週間」があるが、僕にそれらの特性があることを、当時の僕も、そして主治医も全く気づいていなかった。大学を卒業し、社会人2年目だった。「結構やれている」とさえ思っていた。早めの結婚生活が始まっていた。

まだまだ仕事を頑張りたいと思っていたが、意に反して、身体は動かなくなっていた。 

精神科では、2時間の待ち時間で5分の診察を受けていた。僕は「双極性障害」との診断を受けた。双極性障害とは、気分の落ち込む鬱状態と、気分の昂る躁状態を行ったり来たりするものだ。

 

手応えのない努力に絶望し、気づけば自殺を考えていた

休職に入ってしばらくは体温が上がらず、布団から出られない時期が続いた。鬱には身体症状が表れることがある。低体温のほか、頭痛、吐き気、めまい、胃痛、手のしびれが見られた。

リハビリとして自宅で皿洗いを始めた。心にかかる靄を晴らそうと、唐突にフットサルをやってみた。帰り道で意識を失いかけた。妻は「どう接していいかわからない」と僕に言った。

双極性障害には気分の波を抑える薬がいくつかあり、人によって合うものと合わないものがある。合うか否かを判断できるのは、2週間飲み続けて効果と副作用を検証してからだと主治医に言われた。エビリファイは最悪だった。どうしても吐き気が治まらなかった。セロクエルなら、少しは飲めた。睡眠導入剤や抗鬱薬も異常な量にまで増えていた。

徐々に回復しているつもりでも、2週間ずつのスパンで薬の調整をしているうちに、休職期間は7カ月以上にまで延びていった。焦燥感が募った。支援施設に毎日通った時期もあった。復職を果たしても、半年後にまた休職した。どうすればいいのか皆目わからなかった。

素晴らしい勤務先に、体調のことを理解してもらえていた。だからこそ「この会社でやっていけないのなら、週5日フルタイムの会社勤めは無理だ」という諦念が頭をもたげた。退職した。精神的に孤立し、誰にも助けを求めることができず、「自殺しよう」と自然に思うようになっていた。終電近くの夜、踏切の棒に触れながら茫然として立ち尽くし、電車を見送った。何が起きてもおかしくなかったように思う。

当時の僕は、すがるようにして小説を書き始めた。現実とファンタジーの境目が曖昧な小説の中で、「僕」は「渦」に呑み込まれかけていた。捉えきれない「渦」で「僕」は必死で抗おうとしていた。

書くことによってのみ、ぎりぎりの自分を保つことができた。

 

「思い当たる節がありすぎて、ゾッとする。怖い」

とあるテレビ番組で発達障害の当事者を見たときの衝撃を忘れない。大学を出てから4年目のことだった。画面には“僕のこと”が映し出されていた。

貪るようにして、発達障害なるものの情報を調べ漁った。当時の日記には「思い当たる節がありすぎて、ゾッとする。怖い」と記していた。翌朝にはアルバイトがあったが、没入し、気付いたときには深夜3時になっていた。苦しさの原因を掴めた喜びと過去の努力のむなしさが交差し、ひどく感情的になった。

予約を早めて、すでに転院していた新たな病院に向かった。主治医は、持参したメモと過去のカルテを照らし合わせて、「いま断言することはできませんが、発達障害の可能性が高いです」と僕に告げた。WAISと呼ばれる知能検査では、自分の中に能力の大きな凸凹があるとわかった。

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僕の発達障害の特性には、感覚過敏、過集中、片付けの苦手さ、疲労への鈍感さなどがある。かつての鬱症状は、これらを自覚せず苦手な環境に飛び込み、ケアができていないまま無理をし続けてしまっていたことが原因だった。こうした「二次障害」に苦しむ発達障害の当事者が多いことを、僕はあとから知った。

双極性障害の診断は誤診だったとして取り消された。好きなことなら時間を忘れるほどやり続けてしまう特性などが、「躁状態」だと見誤られた。苦しかった薬の調整、延長された休職は、徒労だった。あの時間を取り戻すことはできない。

振り返ってみれば、幼い頃には登園拒否や不登校があった。自分のペースを乱されるのが苦手だった。クラスの中で僕だけ、遠足に親が付き添った。教室で誰かの喚く声は、僕の過敏な聴覚に突き刺さった。学校のテストは自分を裏切らないから好きだった。100点を取ってクラスで一番になることにこだわった。精神科医の本田秀夫氏は、著書『自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体』(SB新書)でこれを「一番病」と表現していた。

僕の多くの部分が、「発達障害」で説明できてしまったのだ。

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見えていなかった原因が姿を現し、僕は立ち向かい始めた

 暮らしが表情を変えた。

発達障害を自覚するまでは、見えない敵に立ち向かっているような状態だった。自分なりにさまざまな努力をしていたが、それらはことごとく空を切り、やるせなさでいっぱいになった。自覚してからも問題はたくさんあるが、少なくとも立ち向かうべき問題が明確になった。ようやく、焦点が合い始めた。

例えば何かに集中しているとき、僕は妻から言われたことに「わかった」と答えているにも関わらず、わかっていないことがあった。聴覚情報だけだと認識が抜け落ちやすい特性が関わっているようだった。

僕たちは口頭で事務連絡するのをやめて、夫婦のSlackを作ったり、紙に書いて壁に貼ったりして、コミュニケーションのずれをなくしていった。

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発達障害を自覚しておよそ4年来のこうした工夫は、枚挙にいとまがない。夫婦関係だけでなく、仕事や生活、ひいては人生設計そのものにいたまで、これらを新たに構築していった。

 

発達障害の当事者たちにも多様性がある

発達障害を知らないわけではなかったが、「自分は違う」と考えてしまっていた。多くの人がそうであるように、僕も発達障害に対してステレオタイプの見方をしていたからだろう。メディアでよく取り上げられる“濃い”特性を勝手にイメージして、その濃淡や多様性に視野を広げられていなかった。もしかすると潜在的に偏見があって、「自分は違う」と思いたかったのかもしれない。

実際のところ、発達障害は白か黒かと判別できるものではなく、人々の中でグラデーション状に存在している。姫野桂氏の『発達障害グレーゾーン』(扶桑社新書)に詳しい。

発達障害の診断を受けたからといって、万事が解決するわけではない。僕には恵まれていた部分もあったと思う。大まかな傾向はあるが、当事者たちは皆、特性も環境も歴史も、生きづらさも異なる。そうした人々と、今この記事を読んでいるあなたの間はシームレスだ。大きな隔ての向こう側にあるものを手元に引き寄せて、誰かの「渦」を「私のこと」として少しだけ考えてみてほしい。

 

生き延びるために、これからも書いていく

のちに障害者雇用制度で働いた会社では、1度も休職せずに3年弱働き、自分なりに納得のいく仕事ができた。そして、現在の僕はライターをしている。かつて死のうとするほど苦しんだ自分に見せつけるように、毎日愚直に書いている。もしも書くことが仕事でなくなったとしても書き続けて、生き延びていきたい。

結果として、発達障害の啓発に小さく貢献できるとしたら嬉しく思う。

毎年4月2日は「世界自閉症啓発デー」、4月2日から8日は「発達障害啓発週間」である。まずは、“私のこと”として想像してみることから。

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(文:遠藤光太/編集:毛谷村真木