必要なのは、女性たちの努力ではない。「リーン・イン」を求めることである【国際女性デー・アメリカ編】

パワフルな女性達やブランド・企業による様々な観点からのソーシャルポストが投稿された。
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2020年の国際女性デー、#internationalwomensday2020 #IWD2020 北米も、コロナウィルスやそれにまつわる社会不安についての記事や関心が支配的な中、注目していたのは、ソーシャルのポストだった。

 

国際女性デーのソーシャル・メディアには、いつもちょっとした祝福ムードが漂う。母親、姉妹、娘といった女性の家族の写真をポストした(ニコール・キッドマン、ジェニファー・ロペス)、女性のアーティストたちをプロモーションしたり(女性アーティストだけのプレイリストを公開したレディ・ガガテイラー・スウィフト)、「女性」という存在の素晴らしさにスポットライトを当てたり(リアーナ)といった、世界を代表するパワフルな女性たちのポストは、ポジティビティ満載だ。

 けれど、今年は、なかなか埋まらない賃金格差や、女性に対する暴力など、いまだに解決されないたくさんの問題を、現実的に指摘するポストも目についた。リアルな問題を指摘するポスト。ヒラリー・クリントンは、「もう一度、ここで声高く、女性の権利は人権だと言おう」とポストした。    

 

モデルのカーラ・デルヴィーニュは、「暴力に遭う」「貧困状態で暮らす」など、統計的に女性のほうが遭う確率の高い事象をリストした。

 

スポーツの世界におけるジェンダーギャップ

国際女性デーは、ブランドや企業が女性問題への取り組みを発表したり、売上の一部を様々な女性が直面するイシューに取り組む団体に寄付するためのキャンペーンを打ったりする日でもある。グーグルは、女性の偉人たちのイラストを立体のインスタレーションにしたビデオを発表し、ネットフリックスは、「Because she watched.」と題した、エンターテイメント界の女性たちの功績を称える短編映像を発表した。こうした動きには、「国際女性デーをブランドが利用している」などという批判もある一方で、現実的に存在する不平等に注目を集める効果は否定できない。たとえば、ナイキが発表したビデオは秀逸だった。

 

 

セレーナ・ウィリアムスからメーガン・ラピノーまで、過去1年に活躍した女性アスリートたちの競技映像の上に、女性の声のナレーターがかぶさる。

「ある日、この日は必要なくなる。それまでやってきた道のりを祝う日はいらなくなる。私たちだって同じように強く、技術があることを証明する必要はなくなる」

 

この背景には、スポーツの世界で、またジェンダーギャップが比較的小さい先進国でも、なかなか埋まらない賃金格差の問題がある。今年の国際女性デーに際し、世界経済フォーラムは、#eachforequalというハッシュタグを推し進めた。ジェンダーの不平等の問題は、女性の問題ではなく、社会全体が繁栄するために解決すべき経済問題であるという趣旨だ。、世界経済フォーラムが今年出したリポートによると、現状の速度でいけば、世界全体の男女の賃金格差が埋まるのにかかる年数は257年だという。

 

奇しくも、アメリカでは、昨年、ワールドカップに優勝した女子ナショナルチームが、アメリカ合衆国サッカー連盟を相手取って昨年起こした裁判が進行中である。国際女性デーの翌日、3月9日には、連盟側の弁護士が法廷に提出した書類の中で、女性プレイヤーたちに支払われる金額が男性プレイヤーよりも低いことを「男性のほうがより果たさなければならない責任がある」と主張したことが明らかになって大炎上し、女子チームはもちろんのこと、スポンサーのコカ・コーラからも抗議を受け、カルロス・コデイロ会長が公式に謝罪したそばから、辞任するという騒ぎに発展した。

 

ナイキの映像のナレーションが響くのは、男女の平等が達成されれば、国際女性デーは必要なくなる、裏を返せば、不平等があるから国際女性デーが必要だ、ということを表現しているからである。

 

男性に配慮は必要なのか?

ところで、国際女性デーがあるように、国際男性デー(11月19日)もある。ところが、国際女性デーになると、必ず、Twitterのトレンドの欄には、#InternationalMensDay というハッシュタグも現れる。そして、1年の間でもっとも#InternationalMensDayが検索されるのは、国際女性デーである。国際女性デーになると、男たちの「俺たちの祝日は?」という疑問が、検索の増加につながるのである。

 

そして、世界中で国際男性デーはいまひとつ盛り上がらない。国際女性デーにはある、必然性がないからだ。

ところで、日本の#国際女性デー2020 の #メディアもつながる キャンペーンの文言に、「誰もが性別に関係なく」と書かれていて、主語が「女性が」ではなく、「誰もが」になっていることに驚いた。

 

ブラック・ヒストリー・マンスに「白人も大切にしましょう」というようなものだ。(もちろん、そういうことを言う人がいないわけではない)

 

このキャンペーンに参加したメディア各社のツイートが検証されていた。

このnoteの投稿によると、参加したメディア企業10社の中で「国際女性デー」以外の部分で「女性」や「女」という字を使用したのは、秋田さきがけ・くらし班、徳島新聞、琉球新報の3社だけだった。

「女性」という言葉を使わないのは、男性に対する配慮なのだろうか。「女性」を「誰も」と言い換えることで、私たちの権利が大きくなったところで、あなたたちの権利は奪いませんよ、という姿勢をわざわざ示さなければいけないのかもしれない。男たちからのプレッシャーか、女性たちの遠慮か、その両方かもしれない。

 

この主語が「誰もが」になっていることは、一見、世界経済フォーラムの「each for equal」(ひとりひとりが平等のために)というハッシュタグの精神と一致しているようにも見える。しかし本来のメッセージは「女性が性別に関係なく」尊重され、自由に生きられるように「誰もが」考えるべき、ではないか。

 

自分は長いこと、組織に属していないし、誰かに圧倒的な権力を持たれる立場にもない。大きな組織の中で出世することを目指す根性も忍耐もないと思っていたから、さっさと組織を離れた(男だったら、違う選択をしたかもしれない)。組織を離れたら、女性でなかったら言われない言葉をかけられたり(例:「女に何ができるんだ」)、マンスプレイニング(男性が女性に、『知らないだろ』という前提で説明すること)されたりすることは劇的に減った。だから長いことずっと、自分が女性であるということに無頓着でこれてしまった。

 

知らなかったのだ。今、知ってしまったたくさんのことを。性犯罪の被害者たちに非があるように語られたり、加害者が正当に罰されない数々のケースがあること、女性のエグゼクティブたちの給料が、同じ仕事をする男性たちのそれよりも低いということ、女性だということが、長年、入試の減点の理由を使われてきたこと、女性だけが守らなければいけない服装や靴着用の規定が存在するということ、妊娠・出産した女性が人材として下に扱われる場所があるということを。

 

今回のこの原稿をハフポスト日本版に提出するにあたり、「女性が」という言葉のかわりに「誰も」という言葉が使われたことに言及したら、男性に対する配慮は「なかった」という説明をいただいた。ただ、配慮ではなかったのだとしたら、なぜか、という理由には、正直なところ、納得できなかった。

 

自分自身を振り返っても、男たちの感情には配慮してきた場面はいくらでも思い出すことができる。仕事の現場に行って「女性とは聞いていなかったな」と言われたとき、酔っ払ったクライアントが、目下の女性に向かって「彼氏はいるの?」と聞き始めたとき、「あのレイプ疑惑は、どうせ枕営業なんじゃないの?」と質問されたときも、答えははっきりしていても、怒りを抑え込み、笑顔を崩さないように心がけた。笑顔でなかったら怖い女だと思われる、怖いと思われたら損だ、と刷り込みがあったからだ。「自分のことをフェミニストと言わないほうがいいよ」というアドバイスも、笑って受け流してきた。心のどこかで、男たちの作ったフィールドで「戦わせてもらっている」というように思っていたのかもしれない。今ならわかる、こういうことを、笑顔でスルーしてはいけないのだと。

 

編集部注:ステートメントは、キャンペーンに参加したメディア全体で作ったものです。それぞれのメディアの思いはありますが、ハフポスト日本版は、国際女性デーは「女性の権利について考えるための日」という立場です。そのうえで、男女差別がなくなり、「誰もが」性別に関係なくフェアに尊重される社会を目指したいと考え、キャンペーンに参加しました。その社会を実現するためには、女性だけでなく、あらゆる人が会話をし、主体的に動く必要があるとおもっています。ハフポスト日本版では、国際女性デー当日だけで終わらせず、日頃からジェンダー平等をテーマとした記事やSNSなどで発信し、読者といっしょに考えたいと思います。

 

必要なのは、女性たちが努力することではない

そんなことを考えていて、思い出したことがある。2013年に、フェイスブックのシェリル・サンドバーグCOO(最高執務責任者)が書いた「リーン・イン 女性、仕事、リーダーへの意欲」という大ベストセラーのことだ。サンドバーグのLean in(乗り出そう)というメッセージは、女性の社会進出の時代の後、「平等」を達成する努力が減速したこと、社会全体で女性のエグゼクティブや経営者の数が横ばいで増えないという状況に、女性の自己評価が低いことや、昇給や昇進の交渉をしない女性が多いことを指摘し、女性自身のメンタリティの改革を説くものだった。この本は、「働く女性のバイブル」として大ベストセラーになり、このコンセプトを導入した勉強会などが開かれる一大社会現象にもなった。

 

アメリカの「パワーウーマン・ランキング」の常連であるサンドバーグのこのメッセージには、当然、反発もあった。サンドバーグの説くメソッドは、超エリートにのみ適用されうるもので、大半の女性には機能しないという批判もあったし、女性に努力を説くのではなく、企業の変革を推し進めるべきだとの意見もあった。競争や犠牲の激しい企業文化から「リーン・アウト」する(身をひく)べきだ、と反対の論を説く本も登場した。

 

それから7年。職場の女性たちを取り巻く環境についての認識は大きく変わった。#metooを通じて、様々な業界で、パワフルな男たちによるセクハラ・モラハラが横行していたこと、彼らが長いこと、罰せられないどころか、企業文化に守られてきたこと、女性が受ける給料や機会の間に、いまだに厳然たる格差があること、女性がにだけ適用される「好感度」という評価軸があること……どんどん明るみに出る不条理に、足りないのは、女性による「リーン・イン」ではなく、業界や組織レベルの改革だ、という考え方がようやく定着してきた。

 

今、必要なのは、女性たちがこれまで以上に努力することではない。これまで提唱されてきたそのやり方で得られるものには、明らかに限界があるからだ。女性たちが、こうした不均衡の是正を求めることについて、男性たちがどう感じるかを配慮することでもない。女性、という言葉を「誰も」に置き換えて、問題を曖昧にすることでもない。社会に、組織に、男性たちに、ジェンダーをめぐる会話に参加することを促し、「リーン・イン」を求めることなのだろうと思う。世界経済フォーラムの国際女性デーにおけるハッシュタグ#eachforequalのメッセージは、「女性が」平等に扱われるために「みんなで」努力していこう、というものだ。この境界線を曖昧にしてはいけないと思うのだ。

 

(文・佐久間裕美子/編集・榊原すずみ