東日本大震災から3月11日で9年を迎えた。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、各地の追悼式が中止や規模縮小となる中、オンラインでこの日を追悼しようという対話会が都内で開かれた。初の試みとなる「3.11 リモート追悼グラファシ(グラフィック・ファシリテーション)」に、私も参加した。
3月11日午前、ビデオ会議のZoom(ズーム)に集まったのは、関東圏以外にも石川や鹿児島、福島、名古屋などからオンラインで参加した約20人。
主催した「しごと総合研究所」の代表取締役、山田夏子さんは、パソコンの画面に並んだ参加者に向かって、こう呼びかけた。
「何かを解決しようという場ではない。ただ、お互いが感じていることを受け取り合う、それだけを優しくやりたいなと。1人1人が当事者として震災と向き合えたらと思います」
「 グラフィックファシリテーション」 で対話を深める
「グラフィックファシリテーション」とは、絵や色、線のゆらぎを用いて描き、声にならないその人の気持ちや表情を紙の上に写し取っていくことで、対話を深める手法。山田さんは「グラフィックファシリテーション」の第一人者だ。
きっかけは、3月6日、追悼式の中止を決めた政府の閣議決定だった。この日の夜、山田さんはfacebookに長いメッセージを投稿した。
3・11追悼式。
政府主催の追悼式は、中止になりましたね。コロナの影響を考えると、理解はできるものの、
地元の方々の気持ちを想像すると、
とても心が「ざわざわ」して、
他にやれる方法はないのか?? そもそもの目的って?と、
私の気持ちも揺れました。(中略)
でも、
3/11 年に一回この日くらい、自分の役割を脇に置き、
一人の人として、自分が何を感じたのか、想いと向き合い、
あの時を「悼む」必要があるように感じています。
「リモート追悼」は、まず自分の今の気持ちを絵で表現するところから始まった。
穏やかな海の水平線を描く人、黒いギザギザした線のハートを描く人、色とりどりの水玉模様、ぐちゃぐちゃの線ーー。ただ「ざわざわしています」とチャットで文字を送る人もいた。
私はまだモヤモヤとしていた。オンラインで会ったこともない相手に心をさらけ出すことができるのか、この時はまだ信じられなかった。
続いて、それぞれが今、感謝していることを話していく。
「弟の家族のところに新しい命が来てくれた」「飼い犬の存在の温かさに感謝している」「生きてここに参加していることに感謝したい」ーー。
一人が話している間は、それぞれの音声はミュート。聞いている人は頷いたり笑ったり。一人一人が話す内容に頷きながら、山田さんはペンを走らせていく。
いつの間にか、何を話しても否定されることはないと信じられる、優しい空間ができ上がっていた。
「被災していない自分」という罪悪感
行方不明者や関連死を含めると2万2167人が犠牲となった東日本大震災。
政府が定めた「復興・創生期間」は2021年3月で終わりを迎えるが、心の復興はまだまだ道半ばだ。
山田さんは、今、リモートグラファシで追悼しようと思った理由について、こう語る。
「私たちにはいろんなことが人生の中で起きるけれど、私たちは真面目で頑張り屋さんなので、自分の揺らいだ気持ちに蓋をして、とにかく日常を前に進めようとするんだと思います。でも、本当に私たちはそれを望んでいるんでしょうか」
「あの日から、いろんな意味で置き去りにしている自分の感情を誰かと共有することで、もっと3・11を自分ごととして捉えていくことで、震災を共有していくことをやりたいと思っています」
あの日、私は長男の育休中だった。名古屋市内の自宅で、ちょうど生後3ヶ月を迎えた長男の授乳を終えて、眠ってしまった息子をベッドに置いて一緒にまどろみ始めた時だった。
突然の揺れに、とっさに「東海地震?」と飛び起きて息子に覆いかぶさった。テレビをつけると、日本地図と「津波警報」の文字。沿岸部分が真っ赤に塗られていて、大変なことが起きたのだと感じた。
その後しばらくはトイレに入る間も「今地震が起きたら…」と怖くて息子を手放せなくなった。
「リモート追悼」は、3〜4人のグループに分かれて語り合う時間も設けられた。
話題は自然と震災当時にタイムスリップする。涙ながらに語る人、淡々と語る人、話す内容もそれぞれだが、誰も話を遮ったり、質問したりしない。
私は自分の話に意味があると思えず、直前まで何をどう話そうか迷っていたが、自然と言葉が口から出ていった。
被災したわけでもない、被災地を取材したわけでもない。ボランティアに行ったわけでもない。
そんな私に震災について何かを語る資格があるとは思えなかった。
でも、そんな当時の状況を言葉にしてみて分かったのは、自分が罪悪感を抱えていたということだった。そして、私の話を、みんなはただ聞いてくれた。
小さな後ろめたさを抱えているのは、私だけではなかった。
「もっと大変だった人がいるのに」
「東北の大学を卒業したのに、自宅も職場も東京だった」
「表面的に寄り添ってるだけなんじゃないか、本当に寄り添えているんだろうか」
参加者の口からそんな言葉が紡がれるのを聞きながら、みんなで山田さんが「罪悪感」と文字を書くのをただ眺める。
ある人が言った。
「特別大きな被害にあったわけではないし、自分は何もしなかった、何もできなかった、というのが自分の痛みだった。でも、今できることをやってみようかなという気持ちになった。福島に遊びに行ってみようかな」
「語り合うことから始めたい」
山田さんは言う。
「震災当時、東北にいたり直接的に被災したりした方々と、そうでない人との間に意識的な分断が起きてしまっているように思います。 これは、人の意識が勝手に作ってしまった境界線ではないでしょうか」
「当時、直接被災しなかった私たちにとっては、罪悪感を持つこと自体、直接被災した人たちに比べたら小さな痛み。でも、罪悪感を持っていると口にすることすら、失礼に当たってしまうのではないかという遠慮や思い込みが、震災の“当事者”という枠を小さくしてしまっていると感じました」
「自分がどうみられるか、という保身や遠慮が、何よりも自分と相手の間に線を引いてしまうことになるんだと思います。 語り合うことから、始めていきたいです」
あの日をどう過ごしていたとしても、同じ時代を生きる者として、2011年3月11日は忘れてはいけない日であり、忘れられるわけもない日なのだと改めて実感した。
震災当時、私の腕の中にいた長男は今年10歳になる。週末にはゆっくり時間をとって、あの日のことを改めて話そうと思う。