……というツイートを三ヶ月前にしたところ、この原稿依頼をもらった。
それで、今、執筆しているのだが、みんなの期待に応えられるだろうか……。
どうしたらいいのだろう、みんなに迷惑をかけている
私は、清廉潔白な人間ではない。
そして、「女性の生き方」に関する主張をする気はない。
ツイッター界隈で見かける、「女性の生き方」の表現に人気のあるエッセイ漫画家さんやライターさんは、感じが良い人が多い気がする。
謙虚で、人の気持ちを慮り、締切は守り、メールの返信が速く、弱者の味方で、常識がある感じ……。
私は現在、自信過剰で、人の気持ちがわからず、締切が守れなくなってきて、返信が遅くなり、常識がない。
また、弱者の味方でありたいとは思っているが、弱者は女性だけではないし、シーンによっては女性が弱者とは限らないとも考えている。もともと、性別のカテゴライズが好きではなく、「女性作家」としての仕事は他の人に任せたい私は、いわゆる「女性の味方」になるつもりはない。
前出のツイートも、「女性の生き方」に関する主張というよりも、個人的な悩みの吐露というか、愚痴をぶちまけたというか、自分の駄目さにうんざりしたゆえのつぶやきだった。
愚痴というのは、昔から多くの文学者がやってきた芸だから、うまくやれば面白くなると思うのだが、今の時代、本当にうまくやらなければまったく面白くならない。
育休の手続きなどをきちんと行い、各所への連絡も感じ良く済ませて、その上で「大変だあ」という状態になっているのならいいと思う。
でも、私は、もたもたしている間に仕事が滞り、関係各社に自分の状況をどう伝えていいかわからず、指の間からタスクがどんどん漏れていって、礼儀を欠いて、何かもらってもお礼を伝えず、頭の中に記憶がなんにも残っていないような状態になった。ふっと気がついたら数ヶ月経っている感じ……。よく、「育児中の記憶がない」という話を聞くが、もちろん、本当に何も覚えていないわけではないけれども、日々が飛んでる感じがするというか、「あのメールに返信しなきゃ」と思ったら一週間経ってるようなことがある。どうしたらいいのだろう、みんなに迷惑をかけている。
おそらくだが、上記の私のツイートに反応してくださった方の多くは、「女性だけが、仕事をしていても『育児の人』と扱われる理不尽にどう向かい合うか?」「仕事中に、『女性の意見』『子どものいる女性としての意見』ばかりを求められ、自分の意見を求めてもらえないことに関して、どう対策するか?」「『子どもを産んだ人は、いつでもどこでも子どもの話をしたがっているはず』という誤ったイメージが拡散されているため、優しい同僚や友人たちはサービスの気持ちで育児の話題を振ってくる。そのことにどう対処するか?」といった問題の答えを期待してくれているのではないか、と予想する。
正直、私は「女性」として悩んでいるのではないのだ……。
なんというか、性別にかかわらず生きにくいこの社会で、不出来な人間のまま、立身出世に悩んでいるような気がする。
また、私は、「真面目に仕事して生きてきたのに、理不尽な目に遭っている」のではなく、「不真面目に仕事してきて、礼儀を欠いて、自分の道を探しながら育児エッセイや性役割に関するエッセイも書いて、その結果、どうしたらいいかわからない状態になっている」ので、誰かに何かをわかってもらう、自分の意見を主張をする、というのがしっくりこない。ただ、悩みを上手く言語化する仕事がしたいだけなのだ。
文学者じゃなくって、「育児の人」になっちゃった
ここで、自己紹介をしたい。私は、16年目の作家だ。小説を書き、純文学とくくられるようなシーンで主に発表してきた。デビュー作が芥川賞候補になったのをはじめ、計五回の候補を経験している。選評でも新聞の批評でもネットの感想でも、小説はたくさんの批判を浴びた。厳しい声をいっぱいもらった。
エッセイの方が褒めてもらえることが多く、自分でもエッセイを書くのは好きなので、意気揚々と書いているが、「新人作家がエッセイを書くと、筆が荒れる」というアドヴァイスを聞いて、一時期絶っていたこともある。でも、そのあと、ある先輩作家にエッセイを褒めてもらえたことがあって、やっぱり頑張ろうと思った。いろいろ考えた結果、エッセイに活路を見出そう、小説もエッセイも言語芸術で、線引きする必要などないではないか、という思いに変わった。
私はまだまだ芥川賞候補に挙げてもらうつもりまんまんだったのだが、つい先日聞いた噂によると、ちゃんとした規程はないものの、芥川賞は新人賞だから、15年目くらいまでの作家による作品を対象としているらしい。そういうわけで、知らないうちに私は対象外になりつつあった。純文学作家のメインの戦場である文芸誌も、今や、担当編集さんがいないところが多くなり、今後、自分がこの場所で仕事を続けられるのか……、おそらく押し出されるだろうという気がする。私は、三島賞や野間文芸新人賞などの他の文学賞ももらっていないのだが、完全な無冠で文芸誌メインで仕事する先輩作家をほとんど見かけないのだ。会社員ではなく自由業なのだが、上司に認められて出世してかわいがられないと生き残れないらしい。
私は育児エッセイを書いたこともあり、育児関連の仕事をもらえるようになった。
新聞では、数年前なら、文化面で書評を書いてもらったり、エッセイを書かせてもらったり、インタビューを受けたりしていた。でも、この頃はまったく扱ってもらえず、生活面で「液体ミルクをどう思いますか?」「幼児教育・保育の無償化をどう思いますか?」「男女共同参画どう思いますか?」といったことを聞かれるようになってきた。もちろん、ものすごくありがたいことだし、新聞が大好きなので、依頼が来たら必ず受けて、話す。ただ、心の隅で、「ああー」と思ってしまう。私、文学者じゃなくって、「育児の人」になっちゃったんだ……。
私の人生に興味のある人はいない、と思っていた
私は、二人目の子どもが現在生後五ヶ月だ。
子どもが生まれたことを、「報告」のような形では、ツイッターやインスタグラムに書いていない。
だから、前出のツイートの中に「先日、二人目が生まれて」と書いたのは、これが伝えたくてツイートしたくなった、というところもあった。二人育児がうまくこなせない。子どもが生まれているのを伝えていないのに、返信が遅くなったり、仕事が滞ったりしていて、これは「ごめんなさい」の世界なので、謝るしかないのだが、理由も伝えたくなってしまう。
産前は、産んだあともそれなりに仕事ができる気がしていた。4年前の、一人目の産後は、わりと仕事ができた。夫が時短勤務をしたし、赤ちゃん一人だけを見ながら仕事するのは、自分の環境としては無理がなかった。だが、二人目のときは、「夫に時短勤務は頼めない」という判断になった。それは、小さな書店で働く夫が時短勤務をすると、同僚の方々にしわ寄せがいき、同僚の方々もそれぞれ持病や介護問題などを抱えながら働いているわけで、「子どもがいるから」というのを掲げて休むというのは、もう言えない、と感じたからだ。夫は素晴らしい同僚と共に、素晴らしい書店で、素晴らしい仕事をしている。誰も悪くない。ただ、社会システムの問題がある。休みを作り出すのは難しい。そして、一所懸命に働いても、金というのは生まれないものだ。私にも夫にも貯金がなく、私が働き続ける以外に選択肢はない。子どもがこの先に十分に食べ、そして学んでいけるかどうか、私の肩にかかっている。そういう意味でも、私は働き続けなければならない。だが、うまくこなせない……。
仕事に関係ないのに子どものことを伝える必要はないと思っていた。でも、結果的には、仕事に子どもが関係してしまっている。
私は、読者の方にも、友人や仕事相手などにも、人生の「報告」というものをしていない。一人目の出産時も、結婚時も、安静や入院などで都合をつけてもらう必要のある相手以外は「報告」というのはしなかった。私はタレントではなく、作家だ。私の人生に興味のある人はいない。読者が求めているのは面白い文章なのだから、仕事をちゃんとやれば、「報告」などいらないと思った。
会社員の方だと、社内規定があったり、先例に倣う空気があったりして、「自分の思う仕事の形とはちょっと違うけど、合わせるしかないか」と、報告や手続きを進めていくのじゃないかな、と思うのだが、作家は、自分が思う通りに進めることができる。
育児休業も、申請するシステムはない。「報告」という作業が自分にしっくりこないな、と感じたら、すっ飛ばすことができる。自分の形で仕事ができる。それは自由でありがたいことだが、下手な人間がやると、周囲に迷惑をかけてしまう。
私は育児と仕事を、どう繋げていいか、あるいは、どう切り離していいか、わからなかった。
冒頭のツイートは、芥川賞候補作が発表になった日に投稿したものだ。私は新作の小説を刊行したばかりで、この小説が候補になったら、という淡い期待をまだ抱いていた。でも、もう私の作品が候補に挙がることはないかもしれない。私は、「育児の人」になってしまった。この先、どういう風に仕事していったらいいのだろう、と思った。
でも、救いはあった。
ツイートにリプライをくれた人が何人もいた。
多くの人が、育児を肯定していた。
おそらく、これは女性だけの問題ではないのだ。
男性も、仕事と育児を切り離せない時代になっている。
仕事というものが、労働時間や収入といったもので測られる時代は終わった。
時間や金ではない。
自分がどのように社会と関わるか、そのすべてが仕事なのだ。介護も闘病もスポーツも追っかけもSNSもコーラもコーヒーも睡眠も勉強も洗濯も仕事だ。
人生に不満を覚え、世間との軋轢に悩むときにこそ、仕事の発見がある。
仕事相手や客とのみ仕事を作っているのではない。金が絡まない相手とのやりとりにも仕事はあるのだ。
ときどき間違いながらも、育児や介護や闘病や趣味や推しと仕事を溶け込ませて、雑談をしながら生きていく。
「子どもがかわいい」という話を、仕事のシーンではしてはいけないような気がしていた。でも、それをうまく言えるように、私は変わっていかなくてはいけない。私は子どもがかわいく、でも、仕事もめいっぱいやりたくて、文学者として評価されたいです。でも、みんなに迷惑をかけ、スケジュールもうまく作れず、礼儀も欠き、失敗してしまいました。
(編集・榊原すずみ)