2008年北京オリンピック、クレー射撃3位決定戦。日本代表・中山由起枝選手は、同点の4人による延長を戦っていた。
出産、復帰後初めて臨んだオリンピックだった。
「ママとして銅」をかけた最後の射撃。弾丸は宙を舞うオレンジ色の円盤、「クレー」をとらえられず、空を切って消えた。
メダリストと4位の差は大きい。競技後、中山選手は静かに帰国した。
当時6歳の娘・芽生さんが手紙をくれた。表には「ママへ 4位入賞おめでとう。♡☆めい」と書かれていた。
中を開くと、黄緑の背景に無数の黒い点。クレーのカケラが散りばめられたフィールドの上空に、円盤が1つ浮いている
弾が命中して割れている場面を描いたつもりが、円盤は形を保ったまま。
絵を指差しながら、「割れてないでしょ」と思わず苦笑いした。
『5回は普通じゃないよ』
12年がたった。
日立建機に所属する中山選手はその間もロンドン、リオデジャネイロと、オリンピックへの出場を重ねてきた。
そのたびに、芽生さんからは手紙をもらった。
大舞台を前に母を励ますもの。重圧がかかる戦いの後にねぎらうもの。開くと「金メダル」が浮かび上がる手作りカードは、2012年のロンドン大会。
英語で日頃の料理やサポートへの感謝がつづられたクリスマスメッセージは、2016年リオ大会のころのものだ。
そして2019年。芽生さんから新しい手紙を受け取った。
「私にとってママはレジェンドだよ」。中山選手は通算5度目の大舞台となる、東京オリンピックに出場することが決まった。
その分、月日も流れた。娘も18歳になり、大学受験を控えていた。
手紙には英語で「次は私の番」とつづられていた。
「その手紙をくれたとき、娘が一番最初に発した言葉が『5回は普通じゃないよ』でした」
都内の施設。中山は遠い目をしながら振り返る。
「一緒に歩んできたという歴史を感じるなと、しみじみ思いました。いつも娘と会話をしている中で、言葉がシンクロするときがあるんです。だから、性格は全然違うんですけれど、いつも思いや考えは一緒だね、ということが2人の中にあって」
「うちって、ちょっと変わっている家庭じゃないですか。シングルぺアレントで、母親がオリンピック選手。この年齢でもやっている。『5回は普通じゃないよ』と言われたときは、本当にスッと『あなたも普通じゃないよね』と。今までの歴史を本当にギュッと凝縮した、2人だけにしかわからない空間であって、言葉であったな、というふうに思います」
「私が悔しいと思うときは彼女も悔しいと思うし、娘がつらいと思っているときは私も本当に心が痛いくらいつらい。北京オリンピック前からずっときた年月というのは、本当にかけがえのないもの。2人にしかわからない、泣いても泣いても泣ききれない思いがありました」
五輪は母と娘の「死活問題」
中山選手は、競技を始めて今年で23年目を迎える。
長く現役を続けてこれた原動力について尋ねると、思わぬ言葉が返ってきた。
「子育てをしていく生活のためです」
長女の芽生さんを出産したのは22歳。初出場の2000年シドニーオリンピックの翌年だった。芽生さんがまだ幼かったころ、シングルぺアレントとして育てていく決断をした。
当時、出産後も競技を続ける選手はほぼいなかった。それでも、シングルぺアレントとして芽生さんを育てていかないといけない。独り立ちさせるまでは、競技をやめるわけにはいかなかった。
「クレー射撃をしませんか?と声をかけていただいて入社しているので、競技をやめれば、当然会社に残ることはないと思っていました」
覚悟は決まっていた。
近くに住む両親の助けを借り、子育てをしながら2008年の北京オリンピックを目指すため、再出発した。
「あまり理解できないと思うのですが、常に4年後を想像するわけです。北京オリンピックが終わった次の年には娘は10歳になります。また4年経つとロンドン五輪で、その頃は中学3年生です」
企業に所属する中山選手にとって、オリンピックを目指すことができるか。そして代表に選ばれるかどうかは、夢というよりも「死活問題」だった。
「会社から確約がもらえれば、4年間はとりあえず生活はできる。この4年間はすごく大きい。私は競技者でもありますけど、母親でもありシングルぺアレントでもあります。とにかく生活をしていかなきゃいけないというのが一番で、次にそこに夢があるかないかというのがくる。他の選手とは考え方や追いかけているものがちょっと違う。必死です」
それでも一つだけ、追い続けている夢がある。
北京オリンピックの時、当時小学1年だった芽生さんに「首にメダルをかけてあげる」と約束した。メダルはそれから2人の夢になった。
まだその約束は果たせていない。
「4位という結果で、いまだにあのときの願いが叶えられていなくて。やっぱり、娘との約束を果たすというのを1つの夢として追い続けている部分もあります」
出産か引退の2択?
出産か、それとも引退か。
スポーツ界ではまだ、女性の競技者が産後に復帰することは、当たり前の選択肢ではない。
身体能力などの理由から、多くの競技でアスリートは20代までにピークを迎えると言われている。そこで、まずは競技に専念し、引退後に出産や子育てをするのが一般的だ。
「30歳手前で全盛期が終わってしまう競技もあります。でも長く続けられる競技では、出産や子育てを考えているアスリートもいる。そういった悩みを共有できる場や情報が、私の時代には少なかった」
現在、オリンピックに手が届くレベルで、子育てをしている女性トップアスリートは数える程しかいない。中山選手の他には、陸上100メートルハードルの寺田明日香選手、バスケットボール大﨑佑圭選手、バレーボール荒木絵里香選手らぐらいだ。
中山選手が出産した2001年、アスリートの産後復帰や子育てを支える仕組みは全くなかった。中山選手は両親の助けを借り、練習を早く切り上げたりして、子育ての時間を確保した。
2012年のロンドンオリンピック後、ようやく、産後復帰するアスリートへのサポート体制が徐々に整えられるようになる。東京都の国立スポーツ科学センターには、アスリートのための託児室なども設置された。
でも…。中山選手は続ける。
「東京に住んでいなければそのサポートは受けられない。それからアスリートの中でも、サポートを受けられるレベルや順位があるはず。スポーツの裾野を広げていくには、皆がそのサポートを受けられる社会が理想的じゃないでしょうか」
日本でも「普通」になればいいのに…
海外ではどうか。
出産後も競技を続け、オリンピックでメダルに獲得したアスリートも珍しくない。
16年リオ大会の女子アメリカ代表は、少なくとも10選手に子どもがいた。そのうち3選手がメダルに輝いた。
ロシアのスベトラーナ ズロワ選手は、出産から2年後、トリノオリンピックでスピードスケート500メートルの金メダルを獲った。
陸上短距離で6つのオリンピック金メダルを獲得したアリソン フェリックス選手や、テニスのセリーナ ウィリアムズ選手は、幼い子どもを育てながら第一線で活躍している。
そうした現状を踏まえて、中山選手は言う。
「今はまだ、子どもを持つ女性がまだ競技を続けられるんだ、オリンピックに行けるんだということが、日本だとすごく珍しい。その珍しいということ自体が(先進諸国のスタンダードから見れば)珍しい。私たちからすれば、日本でもそんなものが普通の世の中になればいいのにという思いがあります」
競技の枠を超えて「成功例」を
クレー射撃は、他の競技と比べて選手の寿命が長い。そのため「子育てしながら続けられる息の長い競技」と中山選手は語る。
実は、リオオリンピックの女子スキート種目では、子供のいる選手が表彰台を独占しているのだ。
「クレー射撃ではこれだけ例がある。こんなに珍しい競技はないでしょう?と伝えていくと、女性が『えっ、何ならじゃあやれるじゃない』と。そうやっていくことで、競技人口に繋がるのではないかと考えています」
もちろん、クレー射撃の状況を他の競技にそのまま当てはめることはできない。だからこそ、様々な競技からロールモデルとなる選手が出てくることが重要だと、中山選手は考えている。
「可能な競技だけを取り上げると、『その競技だからできるんでしょ?』となってしまう。でも、谷亮子さんも、子育てしながら柔道を続けて、北京で3位を取った。すごいことです。バレーボールの荒木絵里香さんも子育てをしながらプレーを続けています。色々な競技から出てくるとインパクトもあるし、可能性もすごく広がります」
「中には、競技の性質上難しいなものもあると思います。しかし、女性特有の問題に対応して競技人口を増やすためには、各競技団体がどうやってサポートしてくか、それをもっと働きかけないと駄目ですよね」
「できればパリまで...」夢よりも大切なもの
中山選手はリオオリンピックの後、順天堂大学院に進学し、コーチングを学んだ。
そこでの研究で、日本で女性アスリートをサポートする仕組みが認知されていなかったり、一部の選手に限定されていたりする課題に直面した。中山選手はその先駆者の一人だ。
「だから、子育てと競技の両立の可能性は、そんな自分たちが残していくものなのかなというふうに考えています」
国立スポーツ科学センターが実施する「Mama Athletes Network(MAN)」の一員にもなっているのは、そんな思いからだ。
「私は子どもが小さい時に辞めてしまった。本当は、中山さんのように、まだまだ子供に競技を続ける自分を見せたかった」。そう話しかけてくれたのは、ソチオリンピックに出場した元スノーボード・ハーフパイプの三星マナミさんだった。
MANには、平昌オリンピックでカーリング女子を率いた本橋麻里さんらも参加している。「これから出産したい」「子育てをしながら競技を続けたい」。そんな若いアスリートに、先駆者として自分の経験を伝えていく。
「自分たちがやってもらえなかったことを、今まさにやろうとしているところです。今回の東京オリンピックでは、出場選手の男女比率が50%に近い。世界やIOCは、将来的には選手だけでなくコーチらも含めて、50:50で比率を同等にしていきたいう目標があります。しかし、世界に任せるのではなくて、日本からも私たちができることをまずはやっていこう。問題を抱えている選手がいれば何か手助けしたい。そう思っています」
東京オリンピックは、現役で迎える最後のオリンピックになるかもしれない。
そんな覚悟で臨む一方で、中山選手は「あと4年、できればパリまでやりたい」とも漏らす。その頃には、芽生さんが大学を卒業して、独り立ちしているはずだからだ。
ただ、「夢よりも生活のため」ときっぱり話した中山選手の選択は、いつも現実的だ。たどり着いた答えが指導者への道筋も同時に目指すという道。そのため、競技生活と並行して、2019年に大学院も修了した。
18歳でクレー射撃をはじめ、競技生活は23年目を迎える。
その間、妻、母親、シングルぺアレントとライフステージの変遷を経験しながら、常にトップ選手として走り続けてきた。
選手として、親として、先駆者として、将来の指導者として。
さまざまな思いや夢を胸に、中山選手は「集大成」の大会として東京オリンピックに臨む