元プロ野球選手で、ヤクルト・阪神・楽天などで監督を務めた野村克也氏が死去した。2月11日にTBSやテレビ朝日などが報じた。
選手として戦後初の3冠王に輝き、監督としてもチームを日本一に導くなど野球界に大きく貢献した野村氏の功績を写真とともに振り返る。
戦後初の三冠王、野球殿堂入りも
野村氏は、1954年に南海ホークス(現・福岡ソフトバンク)にテスト生として入団。
現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍した。
歴代2位の現役通算657本塁打、戦後初の三冠王など、強打の捕手として数々の記録を打ち立て、ホークス不動の正捕手として南海の黄金時代を支えた。
1970年からは選手兼監督として、チームを牽引した。
現役時代の野球研修では、フランス・パリにも訪れている。
功績が称えられ、1989年には野球殿堂入りした。
ヤクルトの監督として3度の日本一に導く
現役引退後は、しばらく解説者を務めていたが、1989年にヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルト)の監督に就任。
後にスワローズの監督となる古田敦也氏を球界屈指の名捕手に育てあげ、93年にはチームを日本一に導き、その後95年、97年にも日本一に輝いた。
阪神監督時代「本当は新庄にキャッチャーをさせたかったんや」
1998年からは阪神タイガースの監督に就任。2000年までの3シーズンでチームの指揮をとったが、3年連続最下位に終わった。
しかし、後にメジャーリーガーとしても活躍する新庄剛志氏の潜在能力を高く評価。
新庄氏について、「身体能力に優れた新庄に、配球とは何か、相手がどんなリードをしてくるのかを体験の中で知って欲しかった。新庄は考える習慣に欠けていたから。でも、キャッチャーをやらせると嫌がると思ったから、ピッチャーをやらせたんだよ」と、シーズンオフに行われた安芸でのキャンプで投手として起用した意図を語っていた。
「マー君、神の子、不思議な子」
社会人チーム・シダックスの野球部監督を退任し、2005年からは、当時球団創設2年目の東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。
この時の楽天は、球団創設からパ・リーグの最下位が続いていたが、2007年に4位となり初めて最下位を脱出。
すると、2009年にはチームを初のクライマックス・シリーズ(CS)進出に導いた。
楽天監督時代、新人だった田中将大投手(現ニューヨーク・ヤンキース)に対し、「マー君、神の子、不思議な子」と発言。
1軍での初先発から3試合連続で打ち込まれるも、降板した後に味方打線の援護に恵まれ敗戦投手にならなかったことを受け、出た言葉だったという。
記念すべき監督通算1500勝の節目は、田中投手の完投で決め、ウイニングボールを受け取った。
ノムさん、人生最後の打席は「神宮球場」
楽天の監督を退任した後は、野球評論家としてテレビやラジオに出演。
TBSのスポーツ番組『S1』では「ボヤキ解説」が多くのプロ野球ファンから支持を得て、人気を博した。
野村氏は2019年7月11日、神宮球場で開かれたヤクルト・スワローズのOB戦に代打で登場。
野村氏が監督を務めた時代に選手として活躍した川崎憲次郎氏、古田敦也氏、池山隆寛氏に見守られながらバットを振った。
数々の名言を残し、ファンに愛された球界の「月見草」が、ついにこの世を去った。