小学生6人が犠牲になった悲惨な事故。どう伝えるか、なぜ伝えるか、アート作品が教えてくれたこと

伝え方に正解はあるのか、何がベターなのか。ぜひ、「#メディアのこれから」で、みなさんの考えを聞かせてください。
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前職の新聞社を辞めてネットメディアで働き始めて、1年。

私の中で大きく変わったものの一つが、読者とのコミュニケーションのあり方だと思う。

以前のように、お手紙や電話で記事への感想をいただくことがなくなったかわりに、SNSでの記事の読まれ方をチェックするようになった。直接的・間接的に、感想をいただくことも格段に増えた。(返信が返せていなくてごめんなさい…。いただいた批判も感想も、ほとんど読んでいます)

私たちメディアがどんな風に受け止められているのか、ということにも敏感になった。メディアの存在価値とはなにか、どう伝えれば伝わるのか……そんなことを考える機会も増えた。

大津市の保育園事故(2019年5月)や京都アニメーションの放火殺人事件(2019年7月)では、実名報道の是非や遺族取材のあり方についても改めて考えた。

ハフポスト日本版編集部でも、メンバーみんなで話し合う場を作った。仕事中の雑談でも、インターンの学生も含め、互いの意見に耳を傾けた。「実名報道は必要ないと思う」と語ったメディア志望の大学生には、編集長が「話を聞かせてほしい」と2人きりのランチに誘い出していた。

同じ会社で働く仲間でも、考え方はバラバラだったし、答えは出なかった。

このことをTwitterで投稿したところ、たくさんのコメントもいただいた。

実名報道に否定的な内容がほとんどだったけれど、どのコメントも真摯な内容だった。

私自身はそれまで、どちらかといえば実名報道は必要だと考えていたけれど、同僚やTwitterの意見に触れながら、考えは少しずつ揺れていった。 

事件事故の報道から「抜け落ちた何か」とはなにか…

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弓指寛治「輝けるこども」より
撮影:水津拓海

弓指寛治さんの「輝けるこども」という作品に出会ったのは、そんな頃だった。

2019年9月にプライベートで「あいちトリエンナーレ」を訪れた際、芸術監督の津田大介さんが「メディアの人間なら見ておいた方がいい」と勧めてくれたのが、この作品だった。 

「輝けるこども」は、2011年4月に栃木県鹿沼市でクレーン車が集団登校中の小学生の列に突っ込み、児童6人が死亡した事故を題材とした作品だ。

クレーン車を運転していた男性は、自動車運転過失致死罪で懲役7年の実刑判決を受けた。元運転手には、てんかんの持病があり、当日は薬の服用を怠っていた。

被害の深刻さと同時に、加害者が過去10年間に12回の事故を起こしていたにもかかわらず、免許の取得・更新の際に持病を申告ぜず、運転を続けていたことも大きなニュースとなった。

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弓指寛治「輝けるこども」より
撮影:水津拓海

「輝けるこども」は、名古屋市の円頓寺商店街の一角にあるギャラリーのワンフロアを使った企画展だった。入口正面、まずは事故現場を描いた画が目に飛び込んでくる。そして、亡くなった子どもたちの肖像画6枚と、弓指さんの自筆のキャプションが掲出されている。

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弓指寛治「輝けるこども」より
Kasane Nakamura

事故の報道を見るたび「何かが抜け落ちている」と思っていた。

僕はその「抜け落ちている何か」を探したい。

キャプションの文章を読んだ時、うまく言葉にできない感情が込み上げきた。

衝撃や驚きとはちょっと違う、悔しいような、情けないような、期待感のような、じわじわとした感覚…。

メディアの人間だって「何かが抜け落ちている」ことには気が付いているけれど、その何かを必死に伝えようとはしてこなかった。“マスゴミ”とメディアを詰る人たちも、きっと「抜け落ちた何か」を探そうとはしていない。

もちろん、アートと報道は違う。それでも、もしかすると、ここに一つの解の形があるのではないかーー。

そう考え、この作品について記しておこうと思う。

「6人」という数字だけでは見えないものがある、ということ

入口を抜けると、少し広めのコーナーがある。

ここには、壁一面に子どもたちの関係性を示したチャートや、子どもたちのエピソードにちなんだ画や文章が飾られていた。

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弓指寛治「輝けるこども」より
撮影:水津拓海

この事故をテーマに作品を作りたいと考えた弓指さんは、まず亡くなった伊原大芽さん(当時9歳)の父・高弘さんが著した「あの日」(下野新聞社・2014年)を読み、出版社を通じて伊原さんに連絡を取ったという。

亡くなった6人の実名を出すこと、写真や遺品、ご両親から聞いたエピソードをもとに作品を制作することなどを説明。対面の取材に応じてくれたのは2家族だったが、実名を出すことや写真を提供することなどには、6家族から承諾をもらった。弓指さんは「1家族でも断られたらやめようと思っていた」と明かす。

熊野愛斗さんの自室で子どもたちが一緒に遊ぶ画には、ご両親のコメントがキャプション代わりに書かれている。

そして、「いきる」と題した愛斗さんの詩。

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弓指寛治「輝けるこども」より。熊野愛斗さんの詩「いきる」
撮影:水津拓海

弓指さんによると、この詩は、遺品を整理する中で愛斗さんのご両親が見つけたものだという。

自由帳に書きつけた何枚かの詩は、ドラゴンボールやトランスフォーマー、鉱物が大好きな11歳の男の子というイメージからは想像がつかないような鮮烈な感性に満ちていた。

「文章が輝いている」。自筆キャプションにこう記した弓指さんは、愛斗さんのノートをシルクスクリーンという技法で会場の壁に転写した。

子どもたちの実名を出すことの意味について、弓指さんはこう話す。

「6人の子どもが犠牲になった、という数字だけでは見えてこないものがある。それぞれに名前がある、というだけではないんです。なぜ事故に巻き込まれたのがこの6人だったのか、といえば、彼らが日頃から家を行き来するくらい仲がいい友達だったから。家も近いし、幼稚園から一緒の子もいる、だから一緒に登校していたんです」

「愛斗くんの部屋でジャンプして遊んでいる子どもたちも、愛斗くんの詩から見える感性も、『6』という数字からは見えないでしょう?かわいそうな被害者が6人いた、ではない、こんな子どもたちが存在したんだ、というのを追体験できるような内容にしたかったんです」

「加害者」を伝える難しさ 

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弓指寛治「輝けるこども」より
撮影:水津拓海

 展示会場を順路に沿って歩いていくと、その先のコーナーでは、雰囲気がガラリと変わる。

廃車のフロント部分を3台積み上げた、突っ込んできたクレーン車と同じ高さの塊が、右側の壁を突き破ったように置かれている。「いきる」という詩の通り、生き生きと過ごしていた子どもたちの日々は、この鉄の塊によって奪われたのだという事実を突きつけられる。

さらに進めば、裁判記録など加害者側の情報を展示したコーナーにたどり着く。

加害者が事故を起こすたびに大きな車に乗り換えていったこと、クレーン車について「かっこいい、派手、大きい、優越感」「終わりなき夢」などと語った加害者の供述内容が展示されている。

先ほどの壁を突き破ったようなクレーン車の後ろ側がこのコーナーにあり、運転席からの目線で、車の前方を見ることもできる。

車が人間の暮らしに豊かさをもたらした一方で、乗る人をそれだけで強者にしてしまう装置であること。

車の中にも値段や大きさなどのヒエラルキーがあること。

そんな弓指さんの問題意識を感じさせる内容の展示となっている。

 

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弓指寛治「輝けるこども」より
撮影:水津拓海

実は、このコーナーはトリエンナーレ開幕当初、遺族側の感想を聞いて展示内容を変更したのだという。

当初は、加害者の母親が月命日に事故現場で手を合わせているという郵便局の画や、母親の贖罪活動についての情報が掲示されていた。だが、「その伝え方が遺族を傷つけることになるなら、それは違う」と弓指さんは考えたという。

「加害者も被害者も、どちらも傷つけたり否定したくない。両者を見聞きして、作品を展示したかった」という弓指さんも、母親を交通事故をきっかけに亡くしている。

「贖罪の難しさ、加害者がいかに見えにくいか、記述しにくいか、いろんな難しさを感じた。すごく迷ったけれど、展示を一部撤去したり、ベールをかけたりしました」

アートだから描ける「誰もが見たかった幻の光景」

加害者のコーナーを抜けると、大きな大きな一枚の絵が飾られていた。

オーロラが輝く空の下、満開の桜が美しい小学校にランドセルを背負った子どもたちが集まっている。

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弓指寛治「輝けるこども」より
撮影:水津拓海

弓指さんは言う。「これは、誰もが見たかった幻の光景なんです。亡くなった子どもたちやご両親はもちろん、加害者も、ニュースを見ている私たちも、事故が起きずに子どもたちが無事に学校にたどり着いていたらどんなに良かったか…」

そして、その先には、こんなキャプションがある。

全ての運転手はどれほど気を付けていてもクルマを運転する限り常に事故を起こすリスクを有している。

それを承知で人はクルマに乗る。

なぜか自分は大丈夫だと思ってしまう。

人はクルマに乗ることをやめない。

交通事故が起きた時、そこには「被害者」と「加害者」と「クルマ」がいる。

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弓指寛治「輝けるこども」より
撮影:水津拓海

これが、弓指さんの伝えたかったメッセージであり、そして、私たちメディアが交通事故について様々なかたちで報道をする理由でもある。

被害に遭った子どもたちの輝くような日常、事故の理不尽さや恐怖、加害者側の事情と目線、一瞬で奪われてしまった未来の重さーー。

突きつけられたそれらの情報を、どう咀嚼していいか考えながら歩を進めると、一番最後のコーナーに、愛斗さんの詩が飾られていた。

「償い」と題したその詩は、こんな言葉で始まる。

もしきみがつぐないをしなきゃならなくなったとき、きみは、どうするのだろを。そのつぐないの、おもみをせなかにせおい、いっしょういきるのかい

(原文ママ)

深いような、単純すぎるような詩。でも、展示を見た後では、被害者の目線、親の目線、そして加害者の目線で、この詩を読んだ。

愛斗さんも、はなまるを付けた先生も、こんなことになるとは思わなかっただろうから、書かれていることをそのまま正面から受け止めるのは間違っているのかもしれない。

けれど、もしも今、愛斗さんが生きていたら、詩の内容は変わっただろうか。どんな風に変わっただろうか。19歳となる愛斗さんは、どんな青年になっていたのだろう。

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弓指寛治「輝けるこども」より。熊野愛斗さんの詩「償い」
撮影

 

アート作品から考える、遺族取材のあり方

取材中、弓指さんは「自分は、傷をえぐるような、めちゃくちゃ失礼なことをしているんじゃないか」と感じたという。

「傷つけていたらごめんなさい」と謝罪の言葉を伝えたところ、愛斗さんの父親は「事故から時間が経って、愛斗のことを聞きたいと言ってくれる人はいないので、想い出話ができて嬉しい」と応えたそうだ。

近所や職場では気を遣われて子どもの話は出ないし、事故から何年経ったかという節目に取材に来るメディアは「父親」ではなく「遺族」の言葉を聞きたがるからーーと。

弓指さんに、メディアの事件事故報道についてどう感じるか、と聞くと、こんな答えが返ってきた。

「愛斗くんと大芽くんのご両親は、涙ながらに語ってくれたエピソードもありましたが、笑いながら話してくれたエピソードもあるんです。被害者は常に悲しみ嘆き続けているわけではないし、加害者が常に極悪人なわけでもない。でも、そんな当たり前のことが、不思議と『ニュース』というかたちになると、見えにくくなってしまう」

「そして、ニュースを受け止める側も、『被害者のことを考えろ』と被害者目線が強い気がします。でも、もちろん被害者の感情は一枚岩ではない。視聴者だって、特に交通事故では、自分がいつ加害者に回るか分からない。もっとどちらにも寄り過ぎない伝え方、受け止め方が必要な気がします」

アートと報道は違う。けれど、学べることがある。伝える側としても、見る側としても…

最後に、少し個人的なことを書きたい。

この事故が起きた2011年、私は名古屋市で長男の育休中だった。ちょうど前月には東日本大震災があり、防ぎようのない災害や事故で我が子を亡くした家族の心境を想像し、少しナーバスになったことを覚えている。同時に、出産前は警察取材を担当していた記者として、自分ならどう取材するだろう、とも考えた。

でも、ここ数年、この作品を見るまで、事故のことを深く思い出すことはほとんどなかった。

繰り返すが、アートと報道は違う。

メディアは、「こうだったら良かったのに…」と、オーロラの小学校を描くことはできないし、日々のニュースに追われる中で一つ一つの事件や事故をこれほど丁寧に伝えることは難しいのが現実だ。

ただ、事故から9年4カ月という、特に何かの節目というわけでもない時期に、これほど丁寧に取材して時間をかけて伝えることの意義は学ぶべきものが大きいと思う。

当時0歳だった長男は、事故で亡くなった子どもたちと同じ年齢になった。かつて暮らしていた名古屋で、長男といろんな話をしながら作品を鑑賞した。ニュースや作品を「見る側」としても、とても大きな経験ができた。

SNS時代、メディアの報道意義は大きな転換期にあるのだと感じる。なぜ伝えるのか、どう伝えるのか。報道以外の表現方法に、ヒントはあるのかもしれない。 

 

ハフポスト日本版では、1月29日に「メディアのこれから〜マスゴミと呼ばれて」と題したイベントを開きます。イベントの内容はSNSなどでも発信していく予定です。

伝え方に正解はあるのか、何がベターなのか。ぜひ、「#メディアのこれから」で、みなさんの考えを聞かせてください。

いただいたご意見は、批判も不信も期待も、しっかり受け止めたいと思います。と同時に、私たちメディアで働く人間も、悩みながら進もうとしていることを知っていただけたら嬉しいです。

これからの時代のメディアのあり方、ニュースの受け止め方について、一緒に考えていただければ幸いです。